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ながい緩慢な腐食

連日、起床時に泣いている。なんでか知らん。眠りのなかでやけにかなしいことが起こる。漠然と、起きぬけのかなしい気分をひきずりながら一日を過ごす。目の奥から喉のあたりにかけて、すこしひりつく感覚も残る。あるいは体のどこか、わずかな部分に、痺れるようなふるえるようなものが居座る。昼の陽射しを浴びているうちにやがて収まる(雨の日は収まりづらい)。そしてまた眠りに就き、朝を迎えるとふるえている。ちいかわみたいに。

かわいい小動物ならまだしも、おっさんである。でも、意識を失っているあいだのこと。かなしんでいるのは誰か。それはわたしではない、と抗弁することも可能だろう。だからといって、かなしみが消えるわけではないけれど。どんな理屈をこさえても、かなしいものはかなしい。

わたしではない。自分ひとりだけの感情なんてあるのか、わからない。どこかで拾ったものにちがいない。すべて。それをまた、こうして誰かに預けている。肉体をはじめ、なにもかも拾ったものだと思う。しらずしらず拾ったものを、ほうぼうへ媒介しつづけて死ぬ。よくわからないものをたくさん拾う。

よくわからないザウルス
よくわからない犬
よくわからない大量のおしるこ

人はさまざまなものを落としては拾う。感情もスナップ写真のような出会い頭の拾いものか。知らないあいだに付着した汚れにも似ている。

ぼくらのなかには 無数のものが生きている
自分が思い 感じるとき ぼくにはわからない
感じ 思っているのが誰なのか
自分とは 感覚や思念の
劇場にすぎない

澤田直『フェルナンド・ペソア伝 異名者たちの迷路』(集英社)に引かれていたペソア(リカルド・レイス)の詩の一部。劇場、比喩ではなく、劇場そのものだと感じる。あるいは容れ物というか、箱というか。自分とはそこにあるものではなく、想像上の空間に呼び出される何者か。呼ばないとこない。とくにわたしは、呼ばないとぜんぜんこない。

会話はその、自己の口寄せ方法のひとつではないか。書くことも、きっと。言語を使って、なんか呼び出している、みんな。なんかしらつれてきては、そいつを拾い合ったり、つついたり、捨て置いたり、なすりつけたり。たいせつにしたり。せわしない夢を見るために。

夢にたとえているのではない。夢なのだと思う。わたしはふつう比喩だと思われる言辞を、本気でとらえがちなところがある。このごろ人の晩年に立ち会うことが多く、お年寄りと接していると、「わたしたちは夢を見ているね」と感じ入ってしまう。この思いはいたずらな抽象ではなく、具体的な経験から兆すものだ。

多くの人は、「わたしたち」とせず「あの老人は夢を見ている」と切り離すように語るけれど、そしてそれこそが「常識」であり「現実的」であり「正しい」のだけれど、「あなたもわたしも夢の中だ」と反意を告げる、誤つひそやかな一行が心に兆す。

どんなことばも、ことばだけではつくられていない。どんな虚構も、虚構だけではつくられていないとも言える。「俺はこないだ結婚式を挙げたんだ」と、入院中のお年寄り(80)が目を輝かせて話す。それはけっして嘘ではない。

「嘘は嘘であると見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい」と、かつてひろゆき氏は言った。たしかに、そういう環境のコミュニケーションもある。しかし場所を違えば、逆もある。相手の主観をとりあえず真に受ける能力がないとお年寄りとの会話は難しい。あるいは、幼いこどもとの会話もそうかもしれない。ふつうにキュウリがしゃべり出したりする。何が起こってもおかしくないのだ。

というか、嘘かまことかをうんぬんするのはことばの共通性にとらわれ過ぎている。個別の体から遊離した一般的な意味をとらえても仕方がない。もちろん、そこそこの一般性・共通性は必要かもしれない。でも、わたしには、何が一般で何が共通なのかわからない。人間はおそろしいほど多様だ。

だから信じるしかない。ことばを信じるのではなく、もっとこう……全体的な、生きている環境を含んだ「在り方」みたいな、うーん、なんかこう……その、なんだろうな、時間の厚み? みたいな、ちょっとちがうか……なんか、うまく言えないところに「その人」がいる。生まれてしまうところ、というか。生まれてしまったところ。突如「こないだ結婚式を挙げた俺」が生まれてしまった。しゃべるキュウリが生まれてしまった。それが事実か否かはどうでもいい。生まれたならもう言祝ぐのみである。為す術なく。生まれちゃったんだからしょうがない。われわれの現実って、その都度、生まれちゃうものではないかしら。

ベターっと一貫した「ひとつ」ではなく、逐次的に生成される。呼び出される。つくり、つくられる。誰がつくるのか。それは知らない。なぜ起床するといつも、かなしいのか。不条理だが、虫になっているよりはマシだと自分に言い聞かせてやり過ごす。それくらいしか、為す術がない。

睡眠時にかなしくなっても、覚醒時にかなしい出来事が起きたわけではない。そのはずなのに、重い感情が胸裡に滲む。いまは「滲み」でも、すこしずつ眠りが圏域を拡大していくのかもしれない。あふれかえって、やがて区別がつかなくなる。そうやって歳を重ねる。ながい緩慢な腐食を生きている。夢に見られて覚醒時が腐食を受ける。何事もないはずが、生まれてしまう。





※転載です。9/24の記事。


にゃん