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「生きること、それは……」、10年前の切れ痔、さよならの仕方

「生きること、それは空間から空間へ、なるべく身体をぶつけないように移動することなのである」。読者はこの卓抜な表現に一瞬虚を突かれ、やがて笑いがこみあげてくるのではないか。そして、私たちは「生きる」ということを偏って捉えすぎているのではないか、とも思い当たるのである。「生きること」とは、働くことかもしれないし、考えることかもしれないし、愛することなのかもしれない。辛いことかもしれないし、食べて寝ることに過ぎないのかもしれない。「生きること、それは……」というアフォリズムを思わせる言い回しは、このあとで人生についての深い真実が告げられるかのような期待を抱かせるが、実際に与えられるのは、あまりにも即物的な、身もふたもない人生の定義なのである。この落差がちょっとしたショックを引き起こし、やがてそれが笑いに変わるのだろう。しかし、よくよく考えてみると、この定義には人生の本質を突く点が含まれていることも分かるのだ。つまり、私たちの日々の活動は「空間」に深く規定されているという事実であり、そのことは「アパルトマン」の章のタイムテーブルが示しているとおりである。食事をするにせよ、入浴するにせよ、何かをしようと思ったらおのずと特定の場所に体を運んでいるのであるから、その移動の連なりこそが〈人生〉である、という定義には、それなりの真実があるわけである。それとともに、「生きること」に行き詰まり、思い悩んでいる人には、ごちゃごちゃ考えなくても、とりあえず壁や家具にぶつからないように移動できていればそれでいいんだ、立派に生きているんだ、というような励ましのようにも響くのではあるまいか。

ジョルジュ・ペレック『さまざまな空間 [増補新版]』、翻訳者の塩塚秀一郎氏による「増補版に寄せて」より

「生きること、それは空間から空間へ、なるべく身体をぶつけないように移動することなのである」。「田原俊彦を鉄アレイで殴り続けると死ぬ」もそうだけれど、わたしはきわめて表層的な即物性に惹かれる傾向がある。人々の虚を突いて、やがて「そりゃそうだ」と、あきらめたように笑みがこぼれる、そんな表現。身もふたもなさ。深さ、よりも浅さ。そこで息づく明るさ。

「見たまんま」の、ぽかーんとした物言い。ペレックが定義する「生きること」は、とてもぽかーんとしており、まさにそこには広々とした空間がひらけている。どこで生きる、誰にでもあてはまる。同時に彼にしか、わたしにしか、その場所に存在するその人にしかあてはまらない、さまざまな空間にも思いが至る。「田原俊彦を~」と同様に、一般性と特殊性の交差点を抉り出している。なにより、可笑しいのがいい。


好きな本や作家を問われても、まるで浮かばなくて困ってしまうことが多い(だいたい悩んだすえに、漫☆画太郎とこたえる)。「特になし」が正直なところ。傾向はあっても、あまりなにかを偏愛するタイプではない。行き当たりばったりの「雑さ」が自分の弱みであり強みなのかもしれない。でも、ジョルジュ・ペレックの『さまざまな空間』という本は好きだと胸を張って言えそうだから、覚えておこう。

増補版を読み直して、思い出した記事がある。むかし自分が書いたもの。最初期のnoteに上げていた。noteというSNSが始まったのは2014年の4月~だから、約10年前。「生きること、それは空間から空間へ、なるべく身体をぶつけないように移動することなのである」をもじって忍ばせている。痔に悩んでいたとき書いた。勢いがあり、若さを感じる文章……。


身体の部位でいちばん偉いのは脳なのか。それとも脳なんかよりも遥かに先輩といわれる腸なのか。あるいはもっと原初的な感覚を司る皮膚とか。足の裏は第二の心臓だとか。ふくらはぎをもみなさいとか。いろいろ言われておりますが、男性に限ると、きほん本体はキンタマというところに落ち着くでしょう。そこは揺るぎない結論だと思います。

では、次点にはなにがくるかと考えると、わたしは肛門かなあと思います。これは肛門にひどい裂傷を受けたことのあるひとならおわかりいただけるでしょう。肛門がひとたび自己主張をはじめるとそれはもうたいへんです。肛門のいいように操られ、あしらわれ、肛門中心の生活を余儀なくされます。

肛門を意識した歩き方、立ち居振る舞い、肛門のための食事、肛門のための適度な運動、肛門に適した仕事、肛門にやさしい性生活、肛門にいい呼吸法、すべては肛門の、肛門による、肛門のための人生へと変貌してしまうのです。of the 肛門 by the 肛門 for the 肛門なのです。

人間は肛門、ひいては尻から逃れられません。「世界でもっとも高い玉座に昇っても、やはり自分の尻の上に座っている」とモンテーニュは『エセー』に記しています。人間は尻の上の存在に過ぎないのです。尻あってこその人間なのです。ラテン語の有名な警句にもありますね。メメント・シリ。“尻を思え”という意味です。

尻を人間の軸として捉えれば、世界はシンプルに理解できます。人間は皮一枚隔てれば、単なる糞袋なわけで、社会は日々糞の処理に明け暮れています。糞を適切に処理すること、それがこの社会を生きる者としての務めです。つまり、生きること、それは空間から空間へ、なるべくうんこを漏らさないように移動することなのです。

どんなに美しい人だって、偉そうなおっさんだって、みんな煎じ詰めれば、なるべくうんこを漏らさないように移動しているだけなのです。それがこの社会の本筋なのです。

肛門の主張にひとは勝てません。主張する肛門を必死に御しては解放し、御しては解放し、ひたすらその繰り返しで生を終えます。それだけのことなのです。人生とは、うんこからうんこへの間奏に過ぎないのです。そしてまた次なるうんこへ……。

話が遠大になりすぎましたが、要するになにが言いたかったのかというと、切痔がすげーつらいのよ。尻の穴がキレちまったんだよ。ついでにきょう駅のホームでうんこ漏らしました。以上です。

はい。ふりかえると、散発的にせよ長いこと書きつづけている自分に驚く。一銭にもならない、やらなくてもいいことをやりつづけている。なんの因果か。

痔については、食生活と姿勢の改善で10年前よりだいぶよくなった(それでもたまにキレる)。継続的な野菜の摂取と骨盤の矯正が効いたように思う。

あと、排便のコツも覚えた。単にひり出すだけでは怪我をする。試行錯誤のすえ、たどりついた基本のフォームは、むかしのスキージャンパーが飛ぶ構え。ジャンプ中ではなく、飛ぶ寸前の構え。できるだけ膝を畳み、できるだけ上体を低くしてバンザイ。これである程度、うんこの引っ掛かりを防げる。バンザイは気合のポーズ。しなくてもいい。スキージャンプ同様、しないほうが安定するかもしれない。排便中、肛門を器用に動かすことも重要。ひらいたり閉じたり、お伺いを立てながら。

直腸から肛門にかけての感覚を通して、うんことのコミュニケーションを図らないとダメだということに、あるとき気がついた。肛門がキレキレだった頃は、そんなことまったく考えなかった。荒々しくワイルドに「出てけオラァ!」ぐらいのノリで日々のうんことおさらばしていた。うんことわたしとの仲は険悪だった。それでは、うんこもグレてしまう。

いまは仲直りして、やわらかい物腰で心配しながら「いってらっしゃい」と送り出す。別れを惜しむように。そうするとうんこもやさしく答えて、そっと水底へ旅立つ。流れる水の音は、もはや滂沱の涙のようである。わたしはいつも、涙の洪水を背にトイレから立ち去る。ハンカチを持って。

こうした細やかな感情の図らいこそが「生きること」の基本なのだと、うんこは教えてくれた。生きること、それは空間から空間へ、なるべく身体をぶつけないように移動することであり、かつ、なるべくうんこを漏らさないように移動することであり、かつ、なるべくうんこと肛門を傷つけないように排便することなのである。

肛門が傷つくということは、うんこも傷ついているのだ。10年前のわたしは、自分のことしか考えていなかった。ただ闇雲に、わけもなくキレたり漏らしたりしていた。若さゆえの過ちである。さよならの仕方を覚えて、すこし大人になったのだと思う。


にゃん