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帰りたい

地球はパンダみたいなかたちです。と言っても、誰も信じないだろう。しかし誰がなんと言おうと自分だけは信じて、まるで真実であるかのように語れば、いや「まるで~あるかのように」ではなく、そのまま自分の生きた真実として語り切ることができれば、それは一個の芸術として完成するのかもしれない。

文学ムック『ことばと Vol.4』(書肆侃侃房)を読みながらぼんやり思った。佐々木敦、千葉雅也、村田沙耶香の鼎談。村田さんは「何かを知りたいという気持ちは幼少期から強くて、それがたぶん書くためのものすごい原動力になってい」ると話す。

知りたいということの一つに、人間の動物としての繁殖の仕方を今の繁殖の仕方ではない仕方で繁殖している姿を見てみたいという。それが自分の人生から来ている疑問なのか、単なる子ども時代からの好奇心なのかよくわからないけど、異常にそれに囚われている感じはあります。p.69

「何かを知りたい」と聞くと学問を修めるようなことをまず想像するけれど、村田さんの場合そうではない。既存の学知ではなく、異次元の未知と遭遇したいような感覚かしら。それも、自らのことばをもって。自分自身から未知を汲み上げる。千葉さんは鼎談のなかで「自分で作ったものが自分で作ったとは思えないということが芸術の一つの重要なポイント」とおっしゃっていた。

いかに自意識を脱臼させるか。たしかに受容者としても、自己という軛をへし折る「知」を求めて、もろもろの作品に触れている気がする。そうした感覚はなんとなくわかる。自己家畜化によって社会生活をなんとか成り立たせている、その反動かもしれない。

鼎談の終盤、村田さんが『コンビニ人間』から『地球星人』までのあいだを述懐するお話は、とても印象に残った。

村田 (…)ちょっと囚われたんでしょうね。ああやって珍しく表面的には明るいものを書いたらみんなが笑顔で小説を受け取ってくれる。だけどその笑顔が怖くて。
佐々木 それはすごいですね。
村田 みんな笑ってると思って、それはとても怖いことだったんです。期待される前に裏切らなきゃと思って、でもそれがうまく書けなくてけっきょく自分をカウンセリングするという、小説を書くにあたっていちばん楽なほうへ。自分をカウンセリングするために小説を書くって、楽なルートなんですね。そこにたぶん逃げ込んでしまった。p.75

千葉さんの批判的な問いかけを受けて発言している。『地球星人』の弱いところに触れて始まる、長い語りの一部。「期待される前に裏切らなきゃと思って」。『コンビニ人間』のあと、みんなが笑顔で怖かった。つまり孤独になろうとしたが、うまくできなかったと。なんか圧倒されてしまう。あるいはこんな部分にも。

ぬいぐるみが喋りかけてくるんです。そういう声がないと今もたぶん明日までは生きられない、そういう声……。そういう話をするのはちょっと危険なんですけど、そういうイマジナリーの世界が壊されたらたぶん……生き延びたいという生への欲望はすごくあるんですけど、明日は死んでる、うまく言えないですけど自動的に死ぬのかなと思っていて。p.74

「自動的に死ぬ」ということばに迫真性がこもっている。村田さんから「イマジナリーの世界」を取り上げたら、ほんとうに死ぬんだと思う。そういうふうにできている。ここで思い出したのは、最果タヒのエッセイだった。好きな歌詞について語る文脈から、「感性」の起こりに触れる。

たとえそれが一般的な捉え方でなかったとしても、自分の言葉、自分の感性を全く疑わずに、誰かに「それっておかしくない?」なんて言われることを恐れもしない、というか、そもそもそんな声が存在することを想像しないし、知らないし、聞こえても気づかないほどの純粋さがここにはあって、そのまっすぐさによって、書かれた言葉がそのひとの「感性」そのものとなる。そうして、言い換えれば、この「感性」は「確信」によってここまで届くことを可能にしている。 
 『神様の友達の友達の友達はぼく』(筑摩書房、pp.65-66)

疑いを入れない「確信」が「感性」をドライヴさせる。おそらくカウンセリングは逆に、疑いをとりもどすようなベクトルをもつのだと思う。はぐれた個人を、すこしずつ一般化するような。「こうでしかない」という強い観念をやわらげ、なんとか社会と接続できるように物語をもっていく。なるべく多くの人と、話が通じるようにする。

千葉さんの『地球星人』への指摘は「わかりやすいトラウマの話といえばトラウマの話ですね」といったものだった。「わかりやすい」は、「一般的」と言い換えることもできる。これが孤独になり切れなかった話につながる。笑顔を振り切れなかった。ただ、メンタルにはよかった。「私をカウンセリングするためにはよかったかもしれないけど、小説の構造としてはあまりよくないかもしれないし、短絡的かもしれない」と、村田さんはお答えになっている。

そうね……。自分に立ち返ると、このブログの文章はいつもカウンセリング的だ。特殊性と一般性をつなぐ理路をもとめている。橋渡し的、というか。矛盾を取り出し、そのあいだを適当に縫合したがる。省みるに文章の上だけではなく、日常会話からそんな傾向がある。さいきんまで自覚はなかったけれど、ケア的なふるまいがなぜか身についている。

どこにいても、「帰りたい」と感じる。このことと関係すると思う。アーティストは逆に、行こうとする。遠くへ。非日常に連れ出してくれる。しかしたいてい日常への帰路は示さない。やばい、どうやって帰ったらいいんだ。それを考えるために、理屈を捏ねている。二項のあいだを繕いたい。特殊と一般、病と健常、確信と疑い、自己と他者……。どこからでも帰れますように。言い換えると、カテゴリー間の移動の自由を確保したい。

行くところまで行ったら、帰るところまで帰る。つまんない奴かもしれない。「もとに戻りたい」ともいえる。きれいにしまいなおして、おしまいにしたい。だけどこの世界はひどく拡散的で、みんなどこかへ行ってしまう。終わっても終わっても終わらない。何がどこから始まって、どこで終わるのか。そんなことばかり気になって仕方がない。

にゃん