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読みの補助線

ここんとこ10日くらい、家ではPCを開かなかった。ひさしぶりに部屋でキーボードを打っている。もっぱら電子媒体につけていたメモを紙に変更してみた。アナログの雑味がたのしい。スマホやパソコンを使ったメモは整理に向いている。手書きは混ぜっ返しに向いている。両方をバランスよく使えるといい。切り分ける作業(整理)と、こねる作業(混ぜ混ぜ)。

整理と混ぜっ返しの対比は、「書く」と「しゃべる」の対比でもある。手書きだと、しゃべるように書ける。つまるところ、デジタルな思考とアナログな思考のちがいか。離散的な表現と連続的な表現のバランス感覚を忘れないようにしたい。静的な表現と動的な表現、ともいえる。ものの見方として。D/A変換・A/D変換を念頭に置く。

たとえば「デジタル(離散的)/アナログ(連続的)」の補助線を引いて、ためしに谷川俊太郎の詩を読むと、そのバランス感覚におどろく。有名な作品のひとつ、「二十億光年の孤独」を見てみよう。まず最初の連。

人類は小さな球の上で
眠り起きそして働き
ときどき火星に仲間を欲しがったりする

「人類は」と大きく出る。離散的(デジタル)に飛んだ構図から地球を「小さな球の上で」と捉え、次の行はわたしたちと地続きの生活感覚、「眠り起きそして働き」とくる。すなわち連続的(アナログ)。そしてふたたび離陸。「ときどき火星に仲間を欲しがったりする」と。

火星人は小さな球の上で
何をしてるか 僕は知らない
(或はネリリし キルルし ハララしているか)
しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする
それはまったくたしかなことだ

こんどは火星方面へ飛び、地球と火星をおなじ「小さな球の上」とリンクさせている。飛びながらつなぐ。そして「何をしてるか 僕は知らない」。読者も、誰も知らない。連続的な感覚を担保するふつうの話。と思いきや、「(或はネリリし キルルし ハララしているか)」。言語の針が火星に振れる。ただし音韻は連続している(眠り起き働き/ネリリキルルハララ)。意味を離散させたところで、逆接。「しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする」。最初の連との符合。逆接により、離散的な抽象と連続的な心理がクロスオーバーする。さいごは仕上げのように連続性の強調。「それはまったくたしかなことだ」。地球人と火星人がしっかり配線される。

万有引力とは
ひき合う孤独の力である

「万有引力」という実感に欠ける理知的な概念を、「ひき合う孤独の力である」と感覚的に定義する。これはD/A変換の好例だと思う。離散的な抽象から、連続的な心への変換。地球人と火星人をつないだ配線に、バチッと電気が走る感じだろうか。相反する、「ひき合う」と「孤独」を組み合わせてもイメージとして違和感がない、さらなるクロスオーバー。この2行のバランス感覚はとんでもなく絶妙だ。

宇宙はひずんでいる
それ故みんなはもとめ合う
宇宙はどんどん膨んでゆく
それ故みんなは不安である

「宇宙」「みんな」「宇宙」「みんな」と交互に繰り出される。「離散」「連続」「離散」「連続」の交互ともいえるだろう。DとAの往還。物理法則的なものと、心理的なものを「それ故」でつなぐ。心はひずみによって近づき、膨らみによって遠のく。

二十億光年の孤独に
僕は思わずくしゃみをした

最後の極めつけ。二十億光年の遥か遠くから、急にくしゃみをする。ここも離散的な飛躍から連続的な身体感覚に帰る図式になっている。こんな感じで、「デジタル/アナログ」の補助線を引くときれいな構成が浮かび上がる。鮮やかな手つき。

「離散/連続」の対比は、「静/動」の対比でも「抽象/具体」の対比でも「遠/近」の対比でもある。「マクロ/ミクロ」「ランダム性/規則性」の対比でもあるかな。さらには「ことば/からだ」の対比ともいえる。「二十億光年の孤独」には、このすべてがすばらしいバランス感覚で配置されている。すくなくとも、わたしにはそう読める。とてもエレガントな詩です。

きれい過ぎてやだな、という人もいそう。そのくらいきれいなつくり。なんて上品なくしゃみ。

にゃん