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現実との拮抗力、「感動」の基本構造、生きてるって実感

 動物行動学者の日髙敏隆と竹内久美子は対談集『もっとウソを!』(文藝春秋, 1997)の中で,「どんな大理論でも必ず修正されたり覆されたり,もっといい見方が出てきて『ウソ』になる可能性がある.しかし,その理論が出された時点では正しかった.したがって科学とは,その時点におけるもっともレヴェルの高いウソである」と述べている.
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気になる本の序文にあった、ざっくりしたお話。さらにざっくりさせるなら、これは科学以外のあらゆることにも適用できるロジックだと思う。どんなことばも「ウソ」になる可能性がある。その時点では信憑性があったとしても。大前提として、そういう構造をともなっていると感じる。

「レヴェルの高いウソ」は、言い換えるなら「現実との拮抗力をもつことば」だ。ことばではなくとも、ヒトの生きる現実を抉り出してみせる表現であれば「その時点におけるもっともレヴェルの高いウソ」といえるだろう。現実との拮抗力をもつウソ。「拮抗」の感性は個人によって異なる。リアリティは身体のあり方と、それを取り囲む環境に依存する。科学的信憑性を立ち上げる「客観的」な過程は、拮抗力の足並みをそろえるためのカルチャーだとわたしは理解している。

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映画『トイ・ストーリー』のバズ・ライトイヤーは自分をスペースレンジャーだと思い込んでいた。おもちゃではないと。空だって飛べちゃう。その時点では、彼にとってそれがもっともハイレベルなウソだった。しかし物語の中盤で、自分はおもちゃだと気づく。自分の過去が滑稽なウソに変わってしまう。落ち込みながらもバズは、おもちゃとしてのリアリティを再構築しはじめる。終盤、バズとウッディはロケット花火に乗って飛ぶ。「すごいや飛んでる!」と興奮するウッディに、バズは「飛んでるんじゃない」と言う。「かっこつけて落ちてるだけだ」と。より現実的な見方が、しかし奇跡のように、ほんとうに飛行しているかのように描かれる。そのリアリティのコントラストに感動する。感動とは、おそらく現実性と虚構性の均衡点に生じるものなのだろう。

「現実との拮抗力をもつウソ」はつまり、その均衡点に当たる。レベルの高いウソには感動してしまう。数学者や物理学者は、見事な数式をしばしば「エレガント」とたたえる。その「美しさ」に焦点を当てて問題化した本もある。ザビーネ・ホッセンフェルダーの『数学に魅せられて科学を見失う――物理学と「美しさ」の罠』(みすず書房)というやつ。おもしろそうなので、いつか読みたい。いつか。

単純な話、感動すると「ホントだ!」と思っちゃうのね。つい信じてしまう。たとえ感動しても「マジ真理」ではなく、ひとつ引いて「いい感じのウソだ」と見なす姿勢を保ちたい。いや、どうだろう。慎重な物言いはどうしたって力弱い。枝葉末節を振り捨てて疾走する心の先触れがなければ説得力がともなわないのかもしれない。

「かもしれない運転」よりも、人は激しいカーチェイスに魅せられてしまう。いや、それもどうだろう。たとえば、ヨシタケシンスケの絵本『りんごかもしれない』(ブロンズ新社)は、「かもしれない運転」の奥深い魅力をつたえている。目の前のりんごがじつはメカかもしれなかったり、なにかのたまごかもしれなかったり。りんごひとつにも過去があったり、未来があったり。

「りんご=りんご」というあたりまえを保留して「りんご=?」の状態に退歩する。つまり、リアリティをいったん棚上げするおもしろさを描いている。まだりんごではない、未然形の世界の多様さ。未然形の世界は、非接触の世界と言うこともできるだろう。りんごに接触する前に、可能性のなかで立ち尽くす。

そしてさいごは「ふつうのりんごかもしれない」と、ぐるっとまわってもとにもどる。いろもふつうだし、うごいてないし、へんなおともしないし……。目の前のりんごがただのりんごではない可能性から、ただのりんごではなくもないのかもしれないと二重否定を経由し、「ふつうのりんご」に舞い戻る構造となっている。りんごをめぐる虚実が交差するところで絵本は終わる。

バズの心象もまた、二重否定を経由する。「飛べる→飛べない→飛べなくもない」と。飛んでいながら「飛んでるんじゃない」と応じるセリフが象徴的だ。虚が実に変わり、実が虚と交差する。「虚→実→虚実の拮抗」という物語構造になっている。それが説得的なリアリティにつながる。

現実との「接触/非接触」でいうなら、バズは物語のなかで「触れない→触れる→触れ合う」と変化している。「未然(まだ)/已然(もう)」という時間認識の変化でいうなら、「未然(まだ)→已然(もう)→現然(いま)」と、そんな過程としても解せる。

このような推移がおそらく「感動」の基本構造としてあるのだろう。虚があって実があって虚実が融和して確変突入!みたいな。まだわからない状態から、もうわかった状態を経て、わかり合える現在と出会う。その運動力が「感動」を呼び、「リアル」を感得させる。

この話も「慎重さ」と「性急さ」の双方を否定するところから始まった。「いや、どうだろう」「いや、それもどうだろう」と。リアルうんぬん以前に、単なる個人的な思考のクセ(俺バイアス)である可能性も高い。というか、これが自分なりのリアリティのつくり方なのだろう。対立的な二項をどちらも否定して、ぐるっと円を描くような。二重否定の過程を経て、ヒトの現実が浮かび上がるのだと信じている。

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劇作家・別役実の文章、「《リンゴのドラマツルギー》」を思い出した。舞台中央にテーブルがあり、その上にリンゴがひとつ乗っている。男がひとり現れ、「これはリンゴです」「これはリンゴかな?」「もしかしたらこれはリンゴかもしれない」「まさか、これはリンゴじゃないだろうな」「なるほど、これがリンゴか」と疑いから確信への過程を演じてみせる。

それにより

観客は、ほとんど宇宙人がはじめてリンゴを見るように、それがそこに「在る」ことに感動することが出来るのである。つまり、リンゴがリンゴであることに感動することができるのである。 
『宇宙遊泳する現代』(彌生書房、p.38)

リンゴを疑う迂回路を経て、リンゴの実在感が立ち現れる。そこに感動も生まれる、と。あるいは「歩く」に関して、こんな文章も残している。

 我々が歩いていると、たいてい人は「おや、どちらへおでかけですか」と聞いてくる。決して「おや、歩いているのですか」とは聞いてこない。人々にとっては、「歩いていることそれ自体」よりも、「何のために歩いているのか」ということが、ひとまず重要だからである。しかし、我々がもし本当に「歩く」ということがどういうことであるかを知り、同時に、その知り得た方式に従って「歩く」ことが出来たら、人は当然「おや、歩いているのですか」と聞いてくるであろうし、そうでなければならない。その時こそ「歩く」ことそれ自体が感動的なのである。 
『電信柱のある宇宙』(白水Uブックス、p.26)

別役は人間の歩行に対し、ロボットの歩行にはそれ自体の感動があるという。そこで《「人間が歩く!」ことの感動を、「ロボットが歩く!」ことの感動から、あらためて掘りおこさなければならないのだ》と述べる。ここでもまた、いったん外在化して戻る、迂回路を経る必要を語っている。

さらに、同著者の『当世・商売往来』(岩波新書)にはこうある。

街角に立って「あなたは何ですか」と質問した場合、「私は哺乳類です」と答える人間はいない。多くは、「サラリーマンです」「商人です」「百姓です」と、その職業を言うのである。つまりここへきて我々は、生物の一種であるとの自覚を失い、職業人の一種であるとの自覚のみで、生きはじめたのである。

これも「それ自体」と「何のため」を対置している。自分が何者であるか、多くの人は職業(=何のため)を通して語る。しかしその前に、みんな生物(=それ自体)でもある。にもかかわらず、そのような自覚は生じない。「それ自体」をじかに眼差すことのできないふしぎがある。生きているのに、「生きている!」となかなか感じられない。

もしかすると、人間のありようは基本的にフィクショナルなのかもしれない。現実を現実化するには骨が折れる。生きてるって実感を味わうその瞬間。その一瞬。ほんの一瞬のために、人々は日一日と何かを準備しつづける。それぞれのリアリティ、すなわち「生きている」を求めて、わたしたちはきょうも生きている。現実と拮抗しうる、ひとりの虚として。



にゃん