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推し、萌ゆ

1、はじめに

 最近、「萌え」という言葉を聞かなくなった。「推し」という言葉が流行り出して使われなくなったからであろうか。そうだとすると、両者の間には何か関係があるのか。「推し」という言葉は「萌え」という言葉の意味をも包摂しているのであろうか。両者を区別するものは一体何なのだろうか。
 メイドカフェに「推し」がいる私としては関心を持たざるを得ない。そこで、本稿では「推し」と「萌え」は異なる概念なのか、異なるとして如何なる点で異なるのかを明らかにしたい。

2、辞書的意味

 辞書では、「萌え」を

ある人やものに対して激しく心をときめかすこと。

広辞苑 第7版 岩波書店 2018

「推し」を

推すこと。特に、応援していること、ファンであることをいう若者言葉

大辞林 第4版 三省堂 2019

特に引き立てて応援している人や物。お気に入り。

明鏡国語辞典 第3版 大修館書店
2020

と記載されており、抽象的表現に止まっている。
現在では両概念とも対象が拡大し、「人」だけでなくあらゆる「モノ」にも用いられるようである。辞書の記載を見て分かるように文言の抽象性ゆえ両概念の区別がつかなくなっており、「萌え」よりも最近流行している「推し」が使われるのだろう。 
 ところで、現代は自己のアイデンティティの確立が困難であるため、実存的不安の時代と言える。昨今の承認欲求の高まりはこうした「自分は何者でもない」、「何者かにならなければならない」という実存的不安によるところが大きい。このことは、自意識過剰気味なおたくにおいて顕著である。
 おたくは記号化された特定人を推すという自己表出により、「◯◯ちゃん推しの自分」というアイデンティティを確立する。「推し事」は多少なりともかかる不安を容易に解消してくれる精神的活動なのである。
 ともあれ、辞書の記載のような抽象的表現では表層的理解しか得られず、両概念の区別としては不十分である。両者の思想的背景にも触れなければならないだろう。
 では、両者はどのようにして生まれたのか、もう少し掘り下げてみよう。

3、推しとは

 「推し」という言葉は本来、「甲ちゃん推し」というように贔屓のアイドルのメンバーに用いられていたようである。80年代には既に存在していたようであるが、一般に浸透したのはユーキャンの流行語大賞に選ばれた2011年あたりであろう(1)。
 アイドル=偶像と言われるように、70〜80年代のアイドルはテレビやライブ会場でしか見られないたいへん遠い、手の届ぬ「神」のような存在であった。まさに折口信夫の言う大海から稀にやって来る人、「まれびと」であった。
 その後、「会いに行けるアイドル」を標榜するAKBの台頭のよりアイドルとファンとの間の距離が近くなる。さらに、昨今では多数の地下アイドルが各所に生まれており、SNSの発達も相まって、アイドルは益々身近な存在となっている。
 とはいえ、アイドルを神格化するオタクの精神は健在であり、実際、「神推し」、「祭壇」(グッズを飾るところ)、 「祈り」(MIX)、「捧げ物」(金銭)、「生誕祭」、「転生」(卒業後別グループに加入)、「前世」(以前所属していたグループ)、「他界」(現場に行かなくなること)等の宗教的な言葉はアイドルに神性が宿っていることを示すものだ。無論、これらの言葉はおたくのスラングとして茶化して使用されるわけだが、潜在的な宗教意識が作用した結果であろう。
 さしずめ、現代のアイドルは天から降り立った現人神、または神に仕える巫女のパロディ的存在と言えよう。
 このような歴史的経緯からすれば、推しは本来的に全人格が統合された「人」を指す概念であることが分かる。昨今の概念の拡張を是とすれば、アイドルでもコンカフェ嬢でもよいだろう。何ならアニメキャラのような架空の人格でも許容されて然るべきだろう。しかし、「甲ちゃんの顔推し」だとか「甲ちゃんのメガネ推し」だとか「甲ちゃんのツンデレなところ推し」というようには用いられないことから、これらは誤用と言う外あるまい。

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(1)
wikipedia   「 推し」より。
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4、萌えとは

 萌えにも「甲ちゃん萌え〜」と全体を示す、つまり「人」を対象として用いられる場合がある。また、「メガネをかけた甲ちゃん萌〜」だとか「ツンデレ甲ちゃんに萌える‼️」というように対象(キャラ)の属性や挙動等の一部に限定された使用法も存する。
 この「人」と「人以外」の両方の用いられ方は何故なのか、以下、検討してみよう。
 「萌え」という言葉はかつて、アニメやマンガに傾倒するおたく同士の会話に用いられる彼らの自意識過剰性が齎した隠語であった。この言葉が面白いとしてマスコミに取り上げられ、流行し出したのは2000年頃からで、「推し」が2011年にユーキャンの流行語大賞を受賞するに先立って「萌え」は2005年に同賞を受賞している(2)。
 本田透は多数の要素があり、全て触れると広範囲に失するため限定する旨述べた上で、「萌え」を「脳内恋愛」であると定義する。その対象はプリキュアのような少女向けアニメ等であり、脳内恋愛を行う者はそのために少女的な感性を持つ者が多いと言う。そして、その感性を持って脳内に虚構の女性キャラを構築する(3)。
 また、精神科医の斎藤環は、おたくには虚構化したセクシャリティへの欲望があり、それが「芸風」のように「そのキャラクターを好きな自分」ですら戯画的に対象化してみせる言葉が「萌え」であるとする(4)。
 これらの言説が示しているのは、おたくの脳内で想像された現実にはあり得ない虚構化された美少女との脳内恋愛を「キモい」と自覚しつつもそれを内輪でアピールする実態である。
 この卑屈とも言える自虐的態度は、おたく特有の自信の無さと過剰気味な承認欲求による。敷衍すれば、おたくにとって脅威となる成人女性との恋愛を回避し、虚構の少女に恋愛を求めつつ、わざわざその「キモさ」をアピールすることで承認欲求をも満たそうとする消極と積極が併された態度である。
 この自信の無さからすれば、「萌え」とは重く力強いストレートな性愛ではなく、恋愛の当事者として対等に女性の前で堂々と振る舞うことのできないおたくのほんのりした性愛、あるいは性愛を欠いたプラトニックな感情的高まりでもあるだろう。
 その内実は少女趣味、百合など「拗らせた」おたく特有のオブラードに包んだ言い回しであり、まさに性愛の「萌」芽であると言える。
 そして、その脳内恋愛を成就させるためには教室でのワンシーンのように美少女の容姿や仕草等が脳内で具体的にイメージされなければならない。
 とすれば、以下のように考えることはできないか。「萌え」の「人」は抽象的に統合された人格全体である「推し」の「人」とは異なり、複数ある挙動や属性を全て併せ、総体として用いられているものと観念できるだろう。つまり「萌え」の対象である「人」は、「甲ちゃんの属性A及びB及びC及びD全て萌〜」や「甲ちゃんの一挙手一投足全て萌〜」を省略した言葉と考えるべきではないか。
 「この前うちの推しがさぁ」と「推し」について語るとき、身体や衣装の一部や挙動を具体的にイメージするだろうか。おそらく、顔や名前程度であろう。抽象性を持った一人格としての「人」とメガネやツンデレ、そしてそれら部分的な属性が現れる具体的シーン等から想像する「人」との違いが分かるだろう。

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(2)
wikipedia   「 萌え」より。

(3)
本田透 「萌える男」 ちくま新書 2005   p81

(4)
斎藤環 「戦闘美少女の精神分析」 太田出版 2000    p52
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5、まとめ

 以上の議論を基に「推し」と「萌え」の相違を総括してみよう。
 まず、「推し」はその対象が抽象的な「人」全体であって「人以外」には用いられないことは既に述べた。他方、「萌え」は人の一部の具体的かつ断続的な属性や挙動に用いられ、全体としての「人」には用いられない。「萌え」の場合の「人」は部分としての「人」の総称に過ぎない。
 また、「推し」はパロディ化された擬似的なものとはいえ神格化されており、とにかくひたすらに「尊い」存在と言える。
 他方、コミケで売られている大量の薄い本を見れば分かるように「萌え」はキャラに対して神格化しているとは言い難い。神のように遠い存在ではなく、むしろ、恋人や妹等の身近な虚構を対象としている。そして、萌えには異性に対するオタク特有の劣等感や自信のなさが根底にある。
 このことから、自分を「下げて」相対的に対象を「上げる」のが「萌え」であり、自分はそのままで対象を「上げる」のが「推し」と言えよう。
 神(推し)にしろ虚構(萌え)にしろ、対象に通常人とは異なる「超越性」が認められる点では共通している。但し、以下のように対照的な特徴がある。

図示すると以下のようになる。

推し
・全人格的に統合された人を対象
・連続的・抽象的(全部)
・尊敬概念

萌え
・個々の人の属性・挙動等を対象
・断続的・具体的(一部)
・謙譲概念

というようなことを寝る前に考えていた。


以上。

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