【小説】高圧縮の文字群

趣味で書く小説の話だけれど、すっごいたくさん書いたな! と思って、文字数を見てみると一万字もいっていない、みたいなことがわりと頻繁にある。
わたしが塊で書ける文章量は経験からするとたぶん多くても3000字くらいまでで、今年からはじめたnoteの投稿も、特段意図しなくてもそのくらいの分量になっている。文字数が多ければいいという話ではないだろうけど、文字数が多いというのは、かっこいい。なんか強そう。長めの小説、かっこいい。やってみたい。

結論からいえばわたしは短めの小説を連作にしてひとつなぎにすることでこのハードルをクリアしているのだけれども、今回はそっちではなく、文字数の少ない話について。
こう書いたらいいよなんて人様に言えることはなにもないが、書くとき自分はこんなことを考えている、というのを、自分自身の整理をかねて書き出してみてもいいかもしれないと思った。

ちょっとした場所でのちょっとしたエピソードにちょっとした人の心の動き。明文化もされず、矛盾もあたりまえにある気持ちの中の、ほんのわずかな引っかかり。わたしが最も関心あるのはそういうもので、小説を書くときはたいていそういう内容だし、noteにも自分のそういう体験とかを書いている。だからそもそもそんなに文字数が増えることはない。

一方で、解像度が高いと言っていただけることもある。ありがたい話だ。解像度が高いというのは情報量が多いことの言い換えなのかなと思う。
わたしは、登場する人物の人となりや暮らしの生っぽい感じ、その場の空気感とかを、説明っぽくない感じで、なるべく実感をともなう形でもって伝えたい。書くときはいつもそれを考える。なるべく少ない文字数の中に、そういう情報を圧縮したい。
そのための小手先のやり方みたいな話を、とりあえず少しだけ書こうと思う。



四月になれば彼女は

書くときは、まずそれがいつなのかを決める。特にストーリー上の要請がない際には、決まっていないことも多いと思う。
実際の生活において、季節や気候は人の行動や判断に大きな影響を与える。肌寒い程度ではコートも羽織らない人物もいれば、しっかり着込んで防寒する人物もいる。衣替えが間に合っていなくてまともなコートを出せていない人物もいる。出かける頻度自体が減る人もいるだろう。これだけでかなり人となりが見える、とわたしは思う。テーマに関わらず、季節を明確にすると一気に描写が具体的になる。
それに、それぞれの季節に対して多くの人が共通して抱いているイメージというのもある。冬に向かう時期のさびしさ、夏が終わる時期のせつなさ。春先のうわついた感じ。
四月になれば彼女は。言わずもがな、サイモン&ガーファンクルの名曲だ。何月なのかを明記するからこそ彼女との時間のはかなさ、もう消えてしまったときめき、喪失感、そういうものが、少ない歌詞からしっかりとした質量をもって読み取れる。

時間帯もそう。大きく行動が変わるのも同じだし、特定の時間帯にしか顔を合わせない相手もいる。いつ会っているかで、関係性や親密度がわかる。早朝って、それほど関係性のない人との距離がすこしだけ近づく時間かも。街にまだ人影が少ないからか、まったく知らない道行く人との間にも、こんな早朝から……っていう連帯感があるような気がする。
それに時間帯には共有されたイメージもある。早朝のすっきりしてみずみずしい感じ、深夜の無限に自由で全能な感じ。わたしはどちらも好きだ。特に好きなのは、深夜。深夜のサービスエリアだ。すべての自由を手にしたようなわくわくとこの世の果てみたいな恐ろしさが背中合わせで、すごく好き。


終電で帰るってば、池袋

次は、場所がどこなのかを決める。家とか学校とかよりもっと具体的に、土地を絞り込むのだ。この世にGoogleマップがあってよかった。行ったことのない土地でも、ストリートビューがあればなんとなく雰囲気は掴めるから。道の幅、ここからここまで歩いたらどのくらいかかる距離なのか。景色はどんななのか。場所が決まれば、おのずと人物が取る行動も決まってくる。

わたしは何か問題がない限り、実在の地名や建造物名、交通機関名を明記する。乗っている車なら具体的な車種を示したいし、日用品や食材も、なるべくなら銘柄を書きたい。それだけで情報が数倍に膨れ上がるからだ。

空港に向かう、と書くと「これから空路移動する」という情報になる。それで良いときももちろんある。でも、ここで成田に向かう、と書くと意味が変わってくる。仮に空港に向かう人物が東京都民だとして、わざわざ羽田ではなく成田に向かう理由があるはずだからだ。ほかの描写との組合せによっては、LCCで安く済ませたい人物像が見えるかもしれない。京成線で、なんて書いたら行動範囲まで見えてくる。

鉄道を使う際も、切符を買った、と書くと、普段鉄道を使わない人物像が見えてくる気がする。切符を買う行為自体、だいぶ珍しくなっているからだ。あまり出歩かないか、車ばかり使っているのか、ちょっと浮世離れした人物か。そんな人物がなんとかして慣れない交通機関を使っている、ちょっとほほえましさまで嗅ぎ取れるかもしれない。あるいは、Suicaを落として困り果てている人なのかも。

初デートでサイゼを選ぶ男はありやなしや、なんていう話題がインターネット上で定期的に持ち上がるのは、サイゼリヤというブランド名に付随する情報やイメージが潤沢にあって、それが大勢に共有されているからだ。「初デートでレストランを選ぶ男」だったら、そこまで論争にならない気がする。みんなが持つレストラン像はきっとまちまちだから。サイゼ、おいしいよね。

つまり実在する名称には、それがそもそも持っている情報や雰囲気がある。簡単には覆せない、かなりしっかりした共通イメージだ。
他ではないその銘柄を選んだ人物なのだ、という事実には、だからかなりの情報が含まれることになる。わざわざ説明しなくてもその情報を使えるなら、具体的な名称を書かない理由がない。むしろせっかくなら、それを最大限に活かしたい。
お菓子を買ってきたというシンプルな情報だとしても、そのお菓子がビスコだったとしたら、それだけで人物の輪郭が見えてきはしないだろうか。おいしくて、つよくもなれる。


時期や時間帯を決めて、具体的な場所や経路を決めて、必要な物を具体的な銘柄で選ぶ。わたしが小説を書くとき、旅の支度をしているのと見分けがつきづらい。
つまるところ、わたしにとっては小説と旅行は同じなのである。体が移動するか、そうでないかの違いだけで。


解像度の話からはずれるけれど、わたしは、地名を詩のように感じている。だからこそ使いたくなるというのもある。京都の地名なんかはかなりわかりやすく雰囲気があって素敵だが、東京にも詩のような地名は多い。二重橋駅を降りて階段をあがり、堀を背に歩くと道の前方に赤煉瓦が見える。駅に向かうとだけ書くのに比べて、なんて詩的なんだろうと思う。丸の内がどうサディスティックなのかは、いまだにわからないけれど。


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