「カモメよ、そこから銀座は見えるか?」観劇メモ

M&Oplaysプロデュース公演「カモメよ、そこから銀座は見えるか?」(作・演出:岩松了)、本多劇場で観てきました。
観おわったあと、私と同伴した家族とで話したりしながら考えたこと、その結果受け取った物語の様相について、忘れないうちに書いておいてみようかと思う。全部は書ききれないが、一番胸に沁みた主人公イズミのことを中心に。
これから書くことはあくまで私の見方ではあるけど、公式パンフレット(有料)の岩松了インタビューで、ある程度答え合わせはできてると思っている。
一度観ただけなのでセリフや演出が完全に正確には再現できないことをご承知おきください。
それから当然ながら作品全体の核心に関わるネタバレ満載なので、これからの公演で観る予定の人は回れ右してお帰りください(←2000年代個人サイト風の表現)。















亡父のかつての愛人・葉子(松雪泰子)に惹かれていく兄アキオ(井之脇海)と、彼女を赦せない妹イズミ(黒島結菜)の兄妹が衝突していく過程に、人によって姿が見えたり見えなかったりする謎の浮浪者「とみ」(青木柚)と「のぼる」(櫻井健人)が絡むことで、各人の欲望の所在とその向かう先が徐々に明らかになる。ざっくりいうとそんな話かな?

アキオの話からするとイズミは、事物の善悪や正誤などについて白黒つけなければ気が済まない性分。そんな妹の頑なさを「強い」「怖い」とも語る。
このようなイズミの強情さは強いというよりは「硬い」といったほうがより正確な気もする。強いと硬いは力学的にはだいぶ違って、強いことは外からかかる力を自分が変形したりしてうまく受け流すことを含むけど、硬いものは耐えられる限度を超えた力がかかると、完全に壊れる、と聞いたことがある。
イズミの人物像は最初から不自然で、「働く兄に手作りの弁当を毎日届ける」という以外には、自分の生活を持っている様子がない。仕事も友達もない。口を開けば兄と言い合いになり、自分でもコントロールができないかのように相手を責める言葉を並べたて、一方で「男の人って感じがするから」「男のくせにミルクティーなんて変」「男ならシャキッとしなさい」などと誰が聞いても違和感の残る強烈な偏見を露呈する。
イズミの偏見に満ちたセリフの繰り返しや、よき妻・よき母の空虚な像をなぞるような「弁当を届ける」という行為の反復は、家庭崩壊で負った傷の痛みと、葉子に対する怒りやうらみの感情をおさえこもうとするがあまり発症した、いわば神経症の症状と見立てることができる。そうすると、イズミは父の不倫が残した傷を生き延びるため、逆説的に、異性愛、性別役割、婚姻・家族・出生主義といった規範で自分をがんじがらめにすることでかろうじて精神のバランスをとっている人物であることがわかってくる。
規範の解体や脱構築によって、より自由な広い次元へと出ていけたら楽に生きられるようになったはずなのだけど、彼女にはそれができなかった。不倫も私生児もない、異性との完璧に幸福な結婚を、妊娠を、出産を欲望することが、生命線になっている。実際のところ自分を傷つけたのは、そのような規範が裏返しになったものであるところの父の不倫だったのだから、最も忌避すべきものに最も執着している形になるわけだけど、それって結構よくあることのようにも思える。性暴力被害に遭った人が、自分のされたことは大したことじゃなかったのだと思い込むためにとても奔放にみえる性的行動をとることがあるというのは、心理学的によく知られた事実だけど、機序としてはイズミの行動はそういうものに近いかもしれない。
物語の後半で、「とみ」が父と葉子の間にできた子であり、葉子の妊娠が正妻(アキオとイズミの母)の知るところとなったすえに堕胎された、この世に生まれてくることのなかった息子であることが語られる。イズミは自分がその「とみ」の子供を妊娠している、自分は「とみ」と結婚して幸せになる、と言い張っている。父の不倫相手の息子と結婚してその子供を産むという欲望、なかなかにすさまじいが、イズミの病理と行動原理を考えれば、筋がとおっている。
彼女にとっては結婚も、妊娠も、必要性から論理的に導かれたものだ。だって、お兄ちゃんはどんどん葉子のこと好きになっていっちゃうし、葉子本人からも「赦して」なんて懇願されちゃって、どうしても赦せない相手なのに、どうしても赦さなくてはならない状況に追いつめられてしまったんだもの。
「自分の家庭を崩壊させた人の子供」なんて、普通に考えれば誰だって、ちょっと疎ましいか、うっかり気を抜いたら憎んでしまいそうな存在である。でも、憎んではいけない。憎むことはできない。だから、恋人にしたのだ。恋人であるならば、それは好きな人だから。そうして結婚することにしたのだ。結婚相手であるならば、それは愛する人なのだから。イズミの行動原理はすべてこの逆算で組み立てられているってわけ。
不倫による家庭崩壊のトラウマをやり過ごすためには、幸せな結婚を十全に遂行する必要がある。
かつて妊婦であった葉子に歩み寄り、自分の子を喪った葉子に同情し、それを契機として彼女を赦すためには、自分が妊娠する必要がある。
だからイズミは妊娠し、結婚することにした。それが人の欲望の中の世界にしか存在しない相手であっても、想像妊娠にすぎなかったとしても、必要だった。
(ここでイズミ役の黒島結菜さんのコメントを見てみましょう。
「今回は赦しの物語です。みなさんに感動を与えられるよう精一杯頑張りますのでよろしくお願い致します。」
んっ……うん……まあ……ww 嘘はついてない? かな? いやうん……嘘ではないけどなんか……エクストリーム赦しっていうか。病理っていうか。な。)
だけどさ、イズミちゃん、めっちゃ残念だけど、葉子さんは最初から母性なんてものはカケラも持ってませんでしたよ。堕胎したことなんて、もうほとんど忘れているか、そんなこともあったな程度にしか気にしていない。葉子の欲望は、自分が落としたハンカチを意中の相手に拾わせること、そのために相手が自分を追いかけてくるようにするということだけ。おそらくイズミの父も知らなかっただろうけど、彼女は母になりたいなどとは一度も考えたことがない可能性が高い(キャラクターごとの母性や母子関係への執着の有無をわかりやすくするための装置として「衣装の色」が採用されている)。
だから、ハンカチを息子が拾ってしまっても、それがなぜ自分の手元に戻ってきたのか全然ピンときていない。息子の姿も見えない。声はなんとなく聞こえているようだが、何かが腑に落ちることもなく、一度も交わらない。こんなフワフワした悪意のない人を、自分だけが強烈に怨んでおり、しかもそれをなんとか赦さなくてはならなくなってしまった、って。そりゃ病まないと無理だよね。
「とみ」は、自分を産まなかった母が、それでも束の間存在していた自分を、多少なりと欲望してくれているのではないかと思ってしまった。だからハンカチを拾ったのだけど、それは「間違ってた」。彼女が欲望する相手、ハンカチを拾わせたい相手は、いま愛している異性であるアキオ、そして別の意味で価値のある、「役に立つ」人物である田宮だけだった。
イズミは、代わりに自分があなたを欲望してあげるからと、別のハンカチを渡そうとするけれども、「とみ」にしてみればそんなものが欲しいわけもない。イズミの欲望は、症状なのだから。駆り出されたもの、急ごしらえの、間に合わせのものであり、ほんものではないのだから。
「とみ」がかりそめの実体を得ていたのは、母がハンカチを自分に拾わせたいと思ってくれている、と考えていたからだろうけど、つまり彼は母から欲望されているという自覚によってのみ存在することができる子供だったのだろうけど、それが間違いだったので、彼は生きていくことができなくなった。開演前からバリバリに違和感を醸していたあの真っ赤なロープは、臍の緒的でもあり、縊死のイメージはグロテスクかつ切ない。
「とみ」が存在することのできる場所はイズミの欲望の中だけになってしまった。だから最後のシーンはイズミの欲望内の世界であるカフェの店内。イズミは最後まであの間に合わせのようなハンカチを手放さないし、「とみ」とカップルごっこをしているようなふるまいをやめない。症状はおさまらないのだ。イズミは治らないのだ。だから、お兄ちゃんはガックリと肩を落として、そのまま終わる。彼女を引き留められなかったから。彼女は狂気の世界に行ってしまって、もう、もどってこないのだから。
アキオは自分の欲望と、他者や現実世界との間の折り合いをうまくつけることのできる大人になりつつある。葉子や田宮と同じほうのグループへ。もうしばらく時間が経てば、階段でコケるようになるだろう。葉子の役に立つ者になるだろう。
でもイズミはもどってこない。

最後に作・演出担当および田宮役の岩松了さんのコメントを見てみましょう。
「二人の兄妹がかつて自分の家庭バラバラにした父親の愛人と出会い、当時は赦せなかったことが年を重ねることに徐々に打ち解けていく過程を描きます。」
はい。この人はもうハッキリと嘘つき認定でいいと思います。w

さて、ここからは余談だが、観劇後に私が自分の心を見つめなおし、しみじみと感じ入ったことがある。それは自分の「傷ついてなさ」だ。
私の育った家庭はやっぱり父の不倫により崩壊したのだけど、それはまあきょうび珍しいというほどのことでもない。ただ渦中にいる人はそれなりに辛い思いをしたりすることもあると思う。
そうしてイズミの病理のことをとくと考え込むうちに、自分の中で家庭崩壊の傷が消滅しているか、もしくは完全に癒えて触っても一切痛くない、ということがわかったのだった。
だから、代償行為として自分で自分に呪いをかけまくるしかなくなってしまった、クイーンオブ生きるの下手くそみたいなイズミの姿が、逆の意味で胸に沁みた。もしかするとあれはどこかでボタンをかけちがえてしまって、何かがほんの少しズレてしまって、失敗したほうの私、だったんだろうか?
元凶となった父その人が、今どうしてるのか全然知らないけど、どうしていたとしても自分にはほとんど関係のないことという感じがする。非常に遠い存在。
安穏と暮らしてても、窮乏してても、家族に看取られて安らかに死んでても、ボロボロになって惨めにのたれ死んでても、そうなんだーって感じ。
ごく幼いときに会ったことのある異母妹(考えたらもう大学出たくらいの歳かもしれん)と、会ったことのない異母妹(これは戸籍謄本見て最近存在を知った)も、なんかわからんけどどっかで立派にやっておるだろう。多分。
父はもとより、家庭崩壊の際に私ら子供よりもおそらく痛手を負ったはずの母も、いろいろあったけどなんだかんだでいま快活に生きてるみたいだし、女手一つ的恩義は感じているけれども、なんだかそれも他人って感じではある。今後のご活躍をお祈り申し上げたいと思う。
私はといえばもう婚姻にも生殖にも、とんと興味がなく、興味を持つものだと認識していた頃は多少興味があったような気もするけど、もういまはぜんぜんなく、ほんの片手の指ほどしかいない自分に近しい重要な身内と互いを護りあいながら暮らしていければあとはなんでもよい。
自分がものすごくラクをして生きているという自覚があるけど、それだけに、ねえ、なんでこっち来なかったの。イズミちゃん。君もこっちに来ればよかったんだよ。なんとかして、今からでもこっちに来ませんか? だめ?
私は君のことがわかる。だから、友達になれると思うんだよ。

【今回のオチ】それにしてもさ、不倫オヤジって全員、妻の子供に「きょうだいが欲しくないか」って言うん??w 私あのアキオのエピソードにめちゃくちゃ感心しちゃったよ。ちょっとたぶん違う表現だったとは思うけど「きょうだいが欲しくないか」に類するようなほぼ同じようなことを、私は父から言われたことがあるよ(たしか離婚後だったから別にややこしくならなかったけど)。あれはなんなん? 愛人の妊娠に嬉しさ溢れて言っちゃうの? 自己顕示欲? ヤンキーのやんちゃ自慢みたいなこと? 「ほかの不倫オヤジもそれ言うんだ!」って、カルチャーショックを受けたわよ。もしかして不倫するオヤジ持った子供って全員コレ言われてんの?w