障害者ではなくなるために、一度きちんと障害者になるということを考える

 私が自閉症者であることを知る職場の同僚から、ある日、こんな質問を受けた——「障害や病と名がつく特質について、それはまさしく障害または病であるという人と、たんに個性であるという人がいる。発達障害の当事者であるあなたはどう考えるか」。
 私は仕事の手を止めて少し考え、それからこのような意味のことを答えた——「ほんとうの意味で個性であるということができるようになるためには、まずはそれがまさしく障害または病であるとみとめることからはじめるよりほかにない」。
 大学卒業直前、最後の学期のおわりである今年の7月、履修していた福祉社会学講義の期末課題として執筆したレポートがある。同僚から質問を受けたときにそのことを思い出した。
 三部構成のレポートのうち《「障害者」とは誰か》と題する第一部において「障害」あるいは「障害者」ということばの扱いについて思考した、そのプロセスをつうじて、より具体的なかたちで同僚の質問にこたえることができる。
 どうせ二度と使い道もないだろう文章だし、せっかくなので第一部を以下に引用してみよう。

 生まれてから27年近くが過ぎるまで、私は自分が障害者であることを知らなかった。
 まだそれを知る前であった2013年9月、チャペル事務局主催の奥中山ワークキャンプに参加する機会を得た。岩手県二戸郡に位置する社会福祉法人・カナンの園のうち、生活介護事業所として存在する「小さき群の里」という地域で、多種多様な障害者やその介護者、職員たちと過ごす時間のうちに、「ともにある」ことを体験させてもらうことが主たる趣旨であった。
 空き缶をリサイクルするための作業所にはさまざまな程度の自閉症者が勤務しており、分別した空き缶をプレス機にかけるだけの人、家庭から回収してきた空き缶の袋の結び目を丁寧にほどくだけの人、作業所内をゆっくり歩きまわるだけの人などがそれぞれの仕方で存在し、生活風景を形成していた。職員の話では、歩くだけの人はかなり重度の自閉症者で、食事や水分補給も自分ではできないのだという。彼のスポーツドリンクはソースディスペンサー(ドレッシングやケチャップを入れるあの容器)に入っていて、歩き回って息を切らしている彼を椅子に座らせ、そのうしろに立った職員が彼の額に手をあててぐいっと上を向かせる。そのとき同時にソースディスペンサーの先を口にあてがい、中身を押し出して飲ませるのである。見ていると職員が笑いながら「やってみますか?」などというので、(そんなエサみたいに!?)とややひるんだが、一応やってみた。ぎこちなく押し出したスポーツドリンクを、彼が喉を鳴らしてコクンと飲み込む気配がして、おもしろかった。「歩いているだけだけれど、これが彼の仕事なんです」と職員は言い、わずかながら給料が支払われていることを教えてくれた。ことばが話せなくても、食事も風呂もひとりではできないとしても、ひと仕事終えたあとのスポーツドリンクはおいしいだろうか。快く感じているだろうか。浅い呼吸が繰り返される。
 羊毛加工製品の製作所では女性が多く働いていた。ここにも歩き回るだけの人がおり、毛糸を巻き取るだけの人、椅子に座って両腕を高く掲げ、オブジェのようにたたずんでいるだけの人などが集まって、やはり日常の風景を形成している。小さな体躯と黒目がちの潤んだ目をしたある女性と、毛糸を巻き取る器具のハンドルを一緒に握って、くるくると回した。彼女はとても話し好きで、知的障害のために思うように出て来ないことばを一生懸命繰り返し、いろいろなことを教えてくれた。彼女はピンク色と散歩とミニーちゃんが好きだった。壁に貼られた集合写真を、教会まで散歩に行ったときのものだと教えてくれた。ふと思い立って、余りの短いピンクの毛糸を彼女の指にそっと巻いてリボン結びにしてみたところ、彼女は破顔して「ミニーちゃん」とつぶやいた。おそらく、ピンク色と女の子らしさとミニーちゃんとが彼女の中で強固に結びついているのだろうと推測した。
 作物を育てる農場の人たち、養豚場の人たち、パン工場の人たちなど、さまざまな人びとに出会った。かれらとともに過ごすかぎり、かれらが個々にもつ障害は、個別の具体的な場面において発現する困難以上のものではなかった。そして障害がベタな個別の具体的な手続きであるかぎり、障害者/健常者というメタな二分法の意味は徐々に解体され無効化されていくように思われた。
 障害あるいは障害者ということばそのものを忌避することは、その思考停止のゆえに、人びとが個々に直面する具体的な困難を黙殺することにつながる。障害は確固としてそこにある。そのことを直視したうえで、障害そのものに目を向けること。それは個々の具体的な困難に目を向けることであり、その具体的な解消をもとめることが可能になることでもある。臆することなく、ある人を障害者と名ざすこと、自覚的に行われるその操作のみが、障害者という分類そのものを相対化する地平をひらくための第一歩となる。
 われわれの日常に深くはいりこんでいる、障害者/健常者という二分法のもとでは、たとえば全盲の人を障害者に分類することに異議を唱える人はほとんどいないであろう。しかし、たとえば仮に、人間の眼球に匹敵する画素数の精巧なカメラを目の位置に装着したうえで、そのカメラが取り込んだ映像をリアルタイムで脳の視覚野へ入力できるようなしくみが構築可能であるとすれば、どうか。目そのものの機能を欠損していることをもって障害者に分類することが妥当であるかどうか、かなり疑わしくなるのではないだろうか。あるいは、知能にも身体にもまったく何の欠損もないが、ただ一点、右の耳だけが聞こえないといった人の場合はどうか。日常生活にはほとんど何の困難もないといっていい。ただときどき右側から話しかけられても気がつかないことがあるだけだ。この人を障害者とよぶことに対してためらいをおぼえる人は多いかもしれない。
 重要なことは、障害者ということばが「大きい」ことを理解すること、その大きさと個々の具体的な「小さな」困難との差異に注意をはらうことだ。「障害者に優しくする」「障害者と共生する」などという事態は成立しえない。なぜなら障害者とは「女性」や「B型」などと何ら変わるところのないひとつのカテゴリであり、個別の困難とは関係のない抽象概念だからである。成立しうるのは、固有名詞で名ざされる個人と、具体的な行動において関係することだけなのだ。
 今年の3月、満を持してというべきか、障害者の称号があたえられたとき、私はいっけん矛盾するともみえるふたつの感覚にとらわれた。「これでやっと何もかもすべてを変えることができる」と思い、また同時に「これでやっと何もかもすべてが変わらずにすむ」思った。それはいま思えば、ひとつには、確かに直面しつづけてきた個々の具体的な困難が、黙殺されずにすむもの、存在すると認められるものであることを、障害者と名ざされることによって保証されたと感じたのであり、一方でいまひとつには、まことに逆説的ではあるが、障害者と名ざされることによって初めて、自らの固有性を定義することばが障害という概念から解放されたと感じたのであった。
 黙殺されずにその存在を認められた障害というメタな概念は、認められたことをもって、個別の困難というベタな事象へと解体される。このような事態を目指すべきであるからこそ、日常の場面で気軽に「障害者」ということばをつかうとき、それが忌避すべきことばだからではなく、別の仕方で、われわれは常に自問することからはじめねばならない。
 その「障害者」がさすのは誰なのか、と。

 目指すべきゴールは、障害者と健常者が互いに尊重しあい平和に暮らす社会、ではない。障害者だとか、健常者だとか、同性愛者だとか、外国人だとか、低所得者、男や女やそれ以外、長男の嫁、《宗教やってる人》、原住民、メンヘラ——とうてい列挙しきれないけれども、とにかく他者にレッテルを貼り分類するためのあらゆることば、分類しながら同時にその分類ごとに存在する規範への服従を強要するための、そのような目的で用いられるあらゆることばが、必要なくなった社会である。その場に生きて行動しているそのひとが、どのようにあるかということだけがすべてなのだ。本来的には。あとのことはなんにも必要ない。

 当然ながら、ことは障害者に限った話ではない。
 たとえば、タレント・文筆家として活動している牧村朝子さん。「レズビアンライフサポーター」という肩書きがついていることもある。さまざまなメディアに寄稿されていて、一昨年の初単著『百合のリアル』もすばらしかった。
 彼女の多彩な活動はすべて一貫した目標につらぬかれている、と私なんかが断言していいのかどうかわからないが、少なくともかなりはっきりとそう見える。そしてその目標は、いま見てきたようなこととほとんど一致していると思う。
 牧村さんのプロフィールの末尾にはほとんど必ずといっていいほど以下の一文が添えられている——《将来の夢は「幸せそうな女の子カップルに“レズビアンって何?”って言われること」》。歴史上、その存在を黙殺されないために当事者がレズビアンという名乗りを必要としたことは事実だけれど、現在においてそれはまたひとつのレッテルとして機能してもいる。権利運動の拡大とともに醸成されてきた「レズビアンらしさ」からもまたこぼれ落ちてしまうようなひとびとが確実に存在する。たとえそのようなひとびとををさす新しいことばをつくったとしても、それは同じことのくりかえしであるどころか、無限後退にならざるをえない。
 レズビアンであるとか、そうでないとか、そのような分類手法そのものが解体されてゆくこと。彼女の夢はそのような社会の実現なのだと思う。“レズビアンって何?”はそれを象徴する情景なのである。

 先日スケオタの妹(本人はスケオタであることを否認しているが)に付き合ってテレビでフィギュアスケートの試合を眺めていたら、アメリカのジェイソン・ブラウン選手が演技を終えたあとのkiss and cryのシーンで、彼の振付師と思われる男性が映った。調べたらロヒーン・ワードという人なのだそうだが、このひとがとにかく目を引いた。刈り上げられたスタイリッシュな短髪に、美しく整えられた細い眉、おそらくバッチリメイクをしているのであろう目、口のまわりを囲むようにデザインされた髭、ネックレスやブレスレットなど多数のアクセサリーに、白っぽく塗られた長いネイルといういでたちであった。
 見た瞬間に、このひとには「男だからこうする」とか「女だからこうある」などという分類ありきの判断は存在しないのではないかと思ったのだった。すべてはディティールについての個別な判断であって、たとえば髪は短くしたいから短くする、メイクもしたいからする、髭は生やしたいから生やす、ネイルも好きだからする、といったぐあいに。彼は(というか自認が男性なのかどうかも謎だ。まあそんなこといったらそもそも見た目が完全に男性である人物だって自認が男性であるかどうかなんてわからないが)美しかったし、なんだか涙が出そうだった。
 ほんとうは、すべてがそのような仕方でよいはずなのだ。ほんとうは。

 どのような属性や特質をもつひとでも、たとえばそれがたまたまいずれかのマイノリティに分類されるものであったとしても、そうでなかったとしても、そんなこととはまったく無関係に、ひとはただそのひとがそうであるように存在するだけである。そういうとてもたいせつで、なぜか多くの人にいまだにわかってもらえないことが、早くあたりまえになってほしい。遠い未来になるかもしれないけれど、ほんの少しでも早く。そのためなら何だってする。悲しいかな、他者にレッテルを貼り分類するその手つきじたいが解体される云々、よりもはるか以前の段階、いまはレッテルの存在に安住した思考停止が蔓延する世界で、虱潰しにそれを告発せねばならない段階なのである。
 名もなければまともな職すらない、何者でもない私に、何ができるというのだろう。
 そうしていつもうちひしがれて眠る。今夜も。

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