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人生の目的と生きる意味

私はこれまで何度か、死ぬことについて考えたことがある。

憂鬱による消極的な意味における死というよりは、単純な興味という意味の方が強い気がする。

死んだらどうなるのか、ということはこれまでのところよくわかっていない。ダヴィンチやダーウィン、エジソンやアインシュタインといった天才たちも、死の向こう側については誰も解明することができていない。

死を考えるということは、同時に生きるということについてを定義づける必要があり、生きるということを考えるためには生物についてをよく理解していなくてはならない。また、生物についてを考えると、それは生物の成り立ちや究極的には物質の振る舞いを理解しなくてはならないため、宇宙の発生や宇宙の誕生の目的を知らなければならない。

実は、生物というのは約40億年前に物質から生まれたという説が有力らしく、これがもし事実だとすれば、我々は物質の振る舞いにすぎないということになる。つまり、意識や魂といった概念は存在せず、こうして私がnoteに文章を書いていることも、物質の反応の結果に過ぎないということだ。自由意志は存在せず、我々生物の営みは、川がゆっくりと流れるように、風が吹くように自然のなかの一部ということになる。

さて、生物の営みが自然の一部分に過ぎないということは、世の中には善悪といったような倫理は存在していないということでもある。例えば核を人間が開発したが、これによって何かしらの被害を受けること自体も、ある意味では自然の一部であり、核についての是非という考え方自体が人間のエゴであるといえるだろう。環境問題について、例えばプラスチックを海にそのまま捨ててはいけないという考えは一般的だが、そもそもプラスチックは人工物ではあるが、環境に良くないかどうかはわからない。なぜなら、良いか悪いか、という立場自体が存在しないからである。

私はニヒリズムや資本主義に加担しようとしてこれを書いているわけではなく、これまでの私の人生においての重要な発見についてを広く知らせたいという動機による。また、こうした私の意見に対するみなさんの反応も気になっている。

生物が物質のふるまいの一部だということは、科学という枠組みの中で現在有力とされている説に過ぎない。個人的な意見としては、人間に観測不能・もしくは未解明のシステムが存在していてもおかしくはないんじゃないかと思っている。例えば先ほど、40億年前の生物の誕生は物質から自然発生したと申し上げたが、これは実に不思議なことである。なぜなら、細胞内の特にDNA(もしくはRNA)が自然発生するための条件というのは再現できていないからである。細胞質は水中においてミセルとよばれる構造から自然発生することは定説であるが、その内部のDNAという複雑な構造(塩基・リン酸)が自然発生するとは考えにくい。我々の祖先は彗星によって他の惑星からもたらされたという説もあるくらいであり、科学もこの問題については未解明ということらしい。

人生の目的とは、DNAを子孫へ残して遠い未来につなげていくことなのかもしれないし、本当に無意味なのかもしれない。科学的な意味における人生の目的を生物学を専攻する大学院の後輩に聞いたところ、よくわからないからとりあえず幸せに生きるようにしている、と言われた。私自身も大学は生物系の学科を卒業したが、この後輩の意見には納得してしまった。生物には二つの色がありポジティブとネガティブに分けられる。例えば、「痛い」というネガティブなアクションは、生物において避けるべきものであるし、避けなければ最悪の場合死んでしまう。対照的に、「快感」というポジティブなアクションは積極的に行うようにプログラムされている。例えば食欲についてなら、食べることによる美味しいという快感は、食欲を促すことで生物の存続に寄与している。つまり、生物のプログラム上積極的に行うようになっていること(快感・幸福感をもたらすもの)をすること自体は、生物の目的ではないが自然な営みである。

総括するとこの文章の結論としては、嫌なことはなるべく避けて気持ちいいことをしまくろう、となる。

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