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episode2. 事件後の職場

(※ 学校名称や人物は仮名で、役職は当時のものです。)

事件の次の日の昼休み、私は一人で教室にいた。午前中の授業の片づけをしているところへ突然A教頭が現れ、私は一瞬にして凍りつく。

「昨日はすいません。これ良かったら。」
何だか少し照れたような、ぎこちない様子で手に持っていたクッキーの缶を差し出した。

「ところで生徒たちはどんな?荒れてるんでしょ?また何かあったら言っておいでね。」

A教頭の言葉に合わせて頷きながら突然の動悸に襲われ、昨日の光景が蘇って息ができない。A教頭のはにかんだ様子に何とも言えない違和感が胸に広がった。
昨日あんなことをしてきたのに、どうして何事もなかったようにするんだろう。まさか上司と部下ではない特別な関係を期待している? 次年度の契約更新が決まっていなかった私は、とりあえず2週間やり過ごせば異動するんだからと、動揺し混乱する自分に言い聞かせた。

それから、携帯のショートメールで何度もA教頭からメッセージが入るようになった。

「会いたい。眠れなかった。」
「これ(ショートメール)以外に連絡をとる方法はないか。」
「忘れられない。ありがとう。ファンになりたい。」
「また食事や飲みにでも行こう。懲りずに付き合ってください。」

とりあえず、あと少しの間は顔を合わせるんだから何か返事はしないと…。無視することもできず「食事には行けません。」「連絡は取れません。」そう送るだけで精いっぱいだった。 A教頭からのメッセージが携帯に残っていると思うだけでも気分が悪くなり、返信後はすぐにメッセージを削除した。

被害から3日後、来年度の勤務について校長先生から予想外のことを告げられた。

「来年度もまた、よろしくお願いしますね。」という仕事継続の良い知らせのはずが、ひどいショックで言葉を失い、頭が真っ白になった。

校長先生へは、数か月前に「次年度の非常勤講師枠があれば第一小学校に在留したい」という私の希望を伝えていたけれど、まさか急にその枠ができたなんて。どうしよう。A教頭も異動しないし、あと一年間また同じ学校で仕事をすることになる…。思い切って辞退する?でも仕事も無くなるし、まさか校長先生に理由を言えないし、講師探しも迷惑がかかる…。どうしよう…。

私の心は動揺し、何らかの行動に出ることもできずに、あっという間に日が過ぎていく。
どうすればいいか分からないまま年度末の業務に追われ、学校に残る職員としてやることをバタバタとこなすしかなかった。

3月も後半になり職場の送別会が開かれた。お世話になった先生たちとの別れを惜しんで居酒屋を出ると、背後からA教頭が近づいてきて、私の耳元に小声で話しかけてきた。

「後ろ姿を見ただけでぞくぞくした。」

一瞬にして体中に鳥肌が立ち、背筋が凍りつく。

私はあと一年、A教頭と同じ職場で仕事をするの…?

どうしてあの日、行きませんって断れなかったんだろう。どうして、おかしなことにはならないだろうなんて、疑わずについて行ってしまったんだろう。あの時、私さえA教頭の誘いを疑って、断っていれば…。A教頭に授業のサポートを頼んで、一人で授業できなかった私がダメだったんだ。私がちゃんとしていればこんなことにはならなかったのに。

この頃から、こうなったのは自分のせいだと自分を責める思いに取りつかれていった。    
性的欲求のはけ口にされた恥ずかしさや虚しさに加え、自分が汚く感じる恐怖から、事件のことをますます誰にも言えなくなり、周囲に心を閉ざしていった。

学校では職員室や印刷室でA教頭と2人きりにならないよう細心の注意を払って入室したり、他の職員に気づかれないよう業務上、話しかけられたときは返事をする程度の必要最小限の会話をしたりして、今まで通りの勤務を続けた。一度、印刷室で偶然2人きりで居合わせてしまい、一瞬で心臓が縮み上がるような感覚を覚えて一目散に飛びだした。以前は出席していた職員朝会も被害後は出席できなくなった。A教頭の視界に入ることすら嫌だった。行事日程の変更などが伝わらず、スムーズに業務を行えないことも増えたが、A教頭と同じ空間に居合わせることが本当に苦痛で耐えきれなかった。


そんな中、夏休みが始まった。学生時代の友人エリが地元に帰ってきたと連絡をくれ、2人でご飯に出かけることになった。昔から変わらないエリとの優しい時間に、久しぶりに深く息を吸った気がした。

エリから「あすか、仕事はどう?」と聞かれた時、つい本当の気持ちが口をついた。
「…仕事、行きたくないんだ。夏休み、ずっと終わらないでほしい。」
言い終わる前に、涙で視界がぼやけていった。

「どうした?何かあった?」    
「…セクハラっていうのか分からないけど、学校の教頭に抱きつかれて…怖くて。職場に行くのにすごくエネルギー要るんだ。でも私も悪かったのかもしれなくて。」
「そんなことないと思うけど。もしかしてメールとかも来たりする?」
「うん、でも気持ち悪くなって全部消してる。」
「その気持ちも良く分かる。でも、今度来たらスクショして残して。メッセージで残しておくと目につきやすくて嫌だろうから。残せるものは残しておいて。」
「うん、分かった。そうする。」
「それから、もしあすかが話せそうだったらハルにも話してみたらいいかも。以前、ハルもそういうことで悩んでいたから。一人で我慢しないで、私もいつでも話聞くよ。」

その日、エリは私のいつもと違う様子を気に留め、私が言葉にできるまで、静かにじっと聞いてくれた。ずっと一人で胸に抱えていたことをエリに話せたことで張りつめていた心が少し安らいだ。

それから約一か月後、A教頭からメッセージが入った。

「こんばんは。ずっと我慢して誘えてませんが、久しぶりに食事&飲み会行きませんか?
無理しなくていいですよ~」

まだ誘い出す機会を狙っているんだ。

「春からお付き合いも始めたので男性と出かけるのは控えてます。」

恐怖と嫌悪感をこらえながら返信した。エリのアドバイスを思い出し、スクリーンショットする。

これがA教頭から送られてきた最後のメッセージとなった。

夏休みが終わり、元の学校生活が始まると自分の体に起こる反応が目に見えて顕著になっていった。学校でA教頭の姿が見えたり、声が聞こえたりするだけで鳥肌が立ち、吐き気が抑えられない。夏から秋頃には芸能人の性加害のニュースが連日報道されているのを目にし、自分の被害を思い出して心がざわついた。私は気持ちの整理がつかず、始まってしまった一年を途中で投げ出す決心もつかず、近くにいる誰にも相談できなかった。勤務外での職員の集まりや行事に参加することもなくなり、職場ではだんだんと孤立していった。

とりあえず、仕事のために、子どもたちとの時間のために、契約期間を全うすることだけを考えよう。そう自分に言い聞かせ、残りの期間を過ごした。

緊張の抜けない学校と自宅の往復からだんだん心が不安定になっていく。私は一人暮らしをしていたが、時折実家に寄る時も家族に対して大きな声を出すようになっていった。

心配はかけたくない。だけど私、苦しんでいるんだよ。でも、こうなったのは自分のせいだし、どうしてついて行ったのと責められるかもしれない。家族のそばにいると胸の奥で色々な思いが絡み合った。その当時のことを両親は「食欲もなく病的に痩せていき、言動が時々投げやりになるなど、情緒が不安定で声を荒げることもありました。何より心配し、恐ろしかったのは飲酒の量が増えていったことです。私たちは何も知らず、不安でたまりませんでした。」と振り返る。

ちょうどその春、事件の直前に知り合い、食事に行っていた男性ともお付き合いを始めたが、彼に対しても同じように些細なことから泣き出し、感情的になることが増えていった。

「学生時代、良い先生に出会って、先生という職業を尊敬するようになった。大変なこともあると思うけど応援しているよ。」と学校の仕事を理解し、応援してくれていた彼に対し、自分に起こった出来事を打ち明けられないのに苦しみに気づいてほしいと期待していた。「何かあった?」という問いかけに本当のことを話せるはずもなく、笑っている時間より、泣いたり怒ったり、感情をコントロールできない時間が増えていった。
だんだん一緒に過ごす時間は無くなって、冬を迎える前に交際は終わった。

2月中旬に身近な上司の主幹教諭、3月初めに校長先生から次年度も勤務を更新しないかと話があった。私としては「このまま学校での仕事を続けていきたい」という強い希望があったが、A教頭が留任する場合を恐れ、はっきりと返事はできなかった。

管理職の任期は2~3年。もしA教頭が異動になれば私はここで仕事を続けられるかもしれないと思い、主幹教諭や校長先生へ来年度の契約更新の返事を先延ばしにした。お世話になっている上司に「再更新します」とすぐに返事ができないことが心苦しく、悲しかった。

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