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episode.13 放棄という選択

(※ 人物は仮名です。)

2020年の秋、宮崎地方裁判所延岡支部にて2名の受命裁判官と話す機会が与えられ、自分の裁判について質問をした。

「なぜ事件の当事者なのに聴取や判断理由の詳細が一切知らされないのか」「なぜ宮崎県教育委員会、延岡市教育委員会は私が診断されたPTSDがA教頭の行為によるものだと認めながら、教育委員会の対応の非を認めず、対応や判断が正されないのか」 

聞きたいことが次々と浮かび、溢れるように止まらない。

彼らは温かいまなざしで頷きながら話を聞き、丁寧に答えてくれた。

ようやく一通り質問し終えると、少し間を置いて

「裁判を始めてから今まで、あなたはどんな気持ちでいる?」と裁判長が尋ねた。

「うまく言葉にできませんが、絶対に負けるもんか、の一心です。法的な手続きや法律用語も分からないことだらけですが、とりあえず自分の目と耳で手続きの過程を確かめて、納得のいくまで質問することで自分の気持ちに折り合いをつけることができるかもしれないと思っています。

少しずつ過去のことにできつつあると思う日もあれば、一瞬でその時に引き戻される日もあって…。発端の性被害から4年半以上経った今でも、自分自身がその時に置き去りになっていて、時間が止まったままのように感じます。」

「答えてくれてありがとう。こうやって声を上げたことについては、後悔している?」

「後悔はしていません。誰にも言えなかった頃は一日一日が本当に苦しくて辛かったです。
声を上げてから、心ない言葉に傷ついたこともありますが、それ以上に寄り添ってくれる人たちがいました。私が悪いんじゃない、と言ってもらえて救われました。」

「そうなんだね。それなら少し安心した。私が感じたことを伝えさせてもらってもいいかな。

これは想像だけど、きっと、あすかさんは今回の件に本当にひどく傷つき、その場で相手や教育委員会に立ち向かえなかった自分を、できるならその時に戻って助けたい気持ちがあるんじゃないかな。

そして、資格を活かしたやりがいを感じる仕事を続けることができていれば…と、性暴力や、教育委員会からの二次被害に遭う前に思い描いていた未来を思い出して、落ち込むあなた自身を慰めたい、前を向かせたいんじゃないかなとも感じた。

私もあなたの請求が認められる形になったらいいと思う。

けれど正直に言って、今の司法で、今のあなたの人生の時間を費やすほど価値がある裁判になるか分からない。

民法は基本原則の一つとして、信義誠実の原則というものを定めているけれど、その具体的な内容は明確に規定されていません。

今回の被告らのあなたに対する対応は、それに則っているとは言えず不適切だ。けれど、今の法律で違法だと判断するには難しい。

行政裁判は本当に長い時間がかかるんだよ。

そして時間の問題だけではないことだってある。

法廷の証言台で相手の弁護士から尋問されることは、あなたを何度も深く傷つけるかもしれない。

これまであなたは本当に頑張ってきた。
もうこれ以上頑張れないくらいに頑張ってきた。

あなたの友人として言わせてもらえるなら、
もうこれ以上傷ついてほしくない。

マハトマ・ガンディーの『正しいことはかたつむりのように、ゆっくりと進む』という言葉を知っていますか。

あなたの願いが聞き入れられる社会に変わるのは、どれくらい先のことなのか分からない。
本当にゆっくりかもしれない。

でも、あなたが声を上げたことは、
本当に意味のあることだと私も信じているよ。」

その言葉を聞きながら涙が止まらず、
冷たく、がちがちにこわばっていた心の奥が少しほぐれたように感じた。


2020年11月20日、裁判所から和解案が出された。

和解案(令和2年11月20日提示版)

1 被告らは、地方公共団体として、雇用機会均等法11条等に基づき厚労省が告示した「事業主が職場における性的な言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置についての指針」に基づき、下記(1)ないし(6)の各措置を継続して行うべきことを確認し、当該各措置をとるに当たっては、対象となる労働者が管理・監督者であるか否か、正規雇用者であるか否かを問わず、誰もが加害者又は被害者になり得ることを前提に、実質的かつ実効性のある方法により実践し、全ての職員の心身の健康が守られる職場環境の実現に努めるものとする。

(1) 職場におけるセクハラがあってはならないとの方針を明確化し、管理・監督者を含む労働者に対し、実効性のある研修、講習を行うなどして同方針を周知・啓発する(同指針3(1)イ、乙1,2関係)。

(2) セクハラの行為者に対し厳正に対処する方針及び対処の内容(懲戒処分等)を規定し、管理・監督者を含む労働者に対し、周知・啓発する(同指針3(1)ロ、乙6,関係)。

(3) 相談者がセクハラ被害を相談しやすいよう、相談窓口をあらかじめ整備し、その旨を周知する(同指針3(2)イ関係)。

(4) セクハラ被害の相談があった場合は、事実関係を迅速かつ正確に確認するべく、関係者からの聴取や客観的証拠の収集等を含め、必要に応じた調査を実施する(同指針3(3)イ関係)。

(5) セクハラの事実が確認できた場合は、速やかに被害者に対する配慮のための措置(配置転換、メンタルヘルスへの配慮等)及び行為者に対する適正な措置(懲戒手続、被害者への謝罪等)を行う(同指針3(3)ロ、ハ関係)。

(6) セクハラ被害の相談者に対しては、事実調査や手続き説明の際、その心情やプライバシーに適切に配慮する(同指針3(4)イ関係、一般論)。

2 原告は、本件に関する延岡市教育委員会及び宮崎県教育委員会の行為につき、違法性がないことを確認し、被告らに対する本件請求に係る損害賠償請求権をいずれも放棄する。

3 原告及び被告らは、原告と被告らとの間には、本件に関し、何らの債権債務がないことを相互に確認する。

4 訴訟費用は各自の負担とする。
以上


手元に届いた和解案を確認した後、すぐに松永弁護士と面談を入れ、私の思いを伝える。

和解案を示して頂いたことは有難かったが、
それらは本来組織が守るべき義務ではないのかと納得できなかった。

教育委員会の人たちは事件の目撃者じゃないし、当事者でもない。何が起こったのか断定できないことは分かっている。

でも、双方の当事者が属する組織として、誠心誠意事件の真相を追及してほしかった。

私がどんなことを知りたくて、
どういう手続きをしようとしているのか、
どんな説明が必要なのか分かっていたはずの教育委員会に適切な対応をしてほしかった。

私が受けた対応は「被害を申告した者の信頼を裏切ることのない常識の範囲の対応」とは思えなかったのだ。

被告ら側にセクハラ根絶のための要望を受け入れさせること、「違法でないことを確認する」という文言は受け入れられないということは絶対に譲れなかった。


同時に、教育委員会側の主張も揺るがなかった。

最後の最後まで
「今回の件は、調査段階で被害から1年以上経過し、原告の被害を受けたという記憶が変容している可能性があり、目撃者もおらず、職場とは関係のないA教頭との私的で個人的な交流の中で起こったこと。教育委員会として被害の認定ができず、組織としての非は一切ない。

合意も和解もできない。

教育委員会の対応が違法かどうかで判断してほしい。」

そう主張し続ける教育委員会と、互いに譲歩する結果を得ることはないと分かっていた。


2020年12月25日 
朝、急な連絡を受け、午前10時から松永弁護士とのミーティングが入る。

午前11時に予定されている裁判所での弁論準備手続の時刻が迫っていた。

「今後についてもう一度確認したいと思います。今の状況からすると教育委員会との和解も合意も厳しいでしょう。でも、あなたはたくさんの犠牲を払って、たくさん傷ついてここまで来ました。このまま裁判を続けますか」と松永弁護士が尋ねた。

「これ以上時間を費やしても、証言台で相手の代理人弁護士から尋問され、もっと傷ついたとしても、自分が最後まで頑張るしかないと思っています。請求は取り下げません。」

なぜだか分からない涙が次々と頬を伝って落ちていく。

被害に遭ってからもうすぐ5年が経とうとしていた。同級生たちは仕事で活躍したり、結婚、出産や子育てを始めていたりとライフステージが変わっていく中、私は変わらずアルバイトと心療内科、法律事務所や裁判所に通う日々。立ち止まっても、進んでも苦しい。もう進むしかない。

「それでは、このまま裁判を続けることになります。それでいいですか。」

これ以上、私の人生の時間を費やして裁判を続けるのが良い選択だとは言えないのかもしれない。

裁判長の言葉が思い起こされ、私の代理人弁護士としてだけでなく、女性として人生の色々な選択のタイミングと決断を経験してきた彼女の言葉が心に重く響いた。

「30歳~40歳の時間を裁判に費やすということを、いつか後悔する日がくるかもしれない」という思いも、心のどこかで感じていた。

ふと、私が小さな頃から成長を見守ってくれた大好きな祖母とのひと時が脳裏に蘇る。

「おばあちゃんは若くして家庭に入ったけど、女の人が働く姿ってかっこいいねぇ。あすかちゃんは子ども好きやし、いつか結婚もするかね、と思うけど、自分が納得できるまで仕事を一生懸命頑張ったらいい」と目を細め、働く私をいつも応援してくれた。

「あすかちゃんの結婚式にはとっておきを用意してるから」と、桐たんすの中から藤色の紋付色留袖と晴れの日用の袋帯を見せ、いたずらっぽく笑っていたおばあちゃん。

いつか叶えたかったのに、こうやって時間を奪われている間に亡くなってしまった。

おばあちゃん、約束を叶えられなくってごめん。

お別れの時、これまでずっと、幾度となく思い続けてきた「もし、被害に遭わずに過ごせていれば…」という思いで胸が張り裂けた。

後悔してもしきれなくなることがある。

取り返しがつかなくなることがある。

このまま自分の意地を貫き通し、裁判で一区切りつけて、その後の人生を歩み始められる頃、私にはどんな選択肢が残されているのだろう。

自分の意地を貫き通すより、現実を受け入れた方がいいのかもしれない。

そんな思いも少しずつ感じ始めていた。

「先生が私だったらどうしますか」と松永弁護士に尋ねた。

被害を相談してからずっと私と一緒に闘ってきてくれた彼女ならどんな選択をするだろう。

「請求は取り下げず、請求を『放棄』することも、選択の一つかもしれません。」



放棄。



警察署でも、裁判所でも、被害の申立ては絶対に取り下げたくないという思いがあった。

私が申し立てたことは事実だと、どんな思いをしても、今までずっと証言し続けてきたのだ。

そして何より事実に敵うものはないと、覚悟を決めて闘い始めたからだ。

裁判が終わることに変わりはなくとも、私の中で「取り下げ」と「放棄」は大きく違った。

「取り下げてしまえば何も残らないけれど、手続の中で裁判所が示した和解案について改めて市や県に要望した上で『放棄』を宣言することで、それが期日調書に残ります」と松永弁護士が言った。

後悔の少ない、最善の選択は何だろう。

私の大切な家族や友人、そばで支え続けてくれる人たちが心に浮かんだ。

予定されている準備手続まで残された時間はあと少し。

被害に遭ってからずっと背負い続けてきた苦しみであり、私を生かす原動力にすらなっていた怒りや悔しさに一区切りつける決断を、今ここでできるのか。

溢れ続ける涙と喉から漏れる微かな呻き声、私の頑なな思いが部屋の中を重苦しい空気にする。

「この時間で決めることは本当に難しいと思います。このまま裁判を継続して尋問に移行するのを選びますか。」

私は答えを決めきれず、部屋の中は静まり返ったままだった。

「自分の気持ちに折り合いをつけるために始めた裁判だって言っていましたね。もちろん判決を受けて裁判を終わらせる方法もあります。けれど、もし『放棄』を選ぶなら、あなたの言葉で裁判を終わらせましょう。」

裁判の継続と、請求権の放棄。どちらの選択も、選択した後の自分や家族のことも色々と考えた。

考えに考えた結果、「『放棄』を宣言し、要望を期日調書に残すこと」「自分が起こすと決めた裁判を、自分の言葉で終わらせること」がしっくりきた気がした。

でも、やっぱり後で後悔するかもしれない。

そんな迷いもあったが、悩む時間は残されていなかった。

急いで裁判所の会議室に向かい、席に着くとすぐに受命裁判官たちが席に着いた。

会議室の机に置かれたスピーカーフォンから呼び出し音が鳴る。もう引き返せない。

提案された和解案より受命裁判官が原告側、被告側の回答を確認する。原告代理人、被告ら代理人の双方が和解はできない旨を伝えると、裁判官が電話の向こう側にいる被告ら指定代理人たちに対し、   

「別紙の和解案(令和2年(2020年)11月20日提示版)の第1項の徹底を改めて要望します。特に、同項(3)の相談担当者の公正らしさ及び中立らしさへの配慮、同項(6)の相談者の心情への配慮には工夫の余地があると考えています」と述べられた。

続けて、

「原告と同じように教育に携わった人として、代理人の皆さんは何か思うことなどありませんか」と尋ねた。

電話の向こうで少しの間沈黙が流れ、「私が代理人としていつも答えていますので」と被告らの代理人弁護士が答えた。

そして「原告は何かありますか」と私たちに質問が向けられ、裁判長のまっすぐな視線に意を決して答える。

「私は請求権を放棄します。」

心の中で練習したこの言葉を、まだ放棄を迷う気持ちと共に絞り出す。

「請求権を放棄する、ということでいいですね」と確認され、私は裁判長に視線を返し、静かに頷いた。

「放棄します」と言って、裁判を自分で終わらせたんだ。もう何もかも全部終わるんだ。

「それでは手続のすべてを終わります。」

その言葉から間もなく裁判官たちが退出し、松永弁護士と共に私も部屋を後にする。

裁判所を出る前に、ふと、同年代の受命裁判官の視線に気づいた。泣きはらした様子の私を心配そうに見つめるそのまなざしに心遣いを受け取った私は、軽く彼女に会釈を返し、松永弁護士の後をついて出口に向かって歩いて行った。

自分の気持ちを整理する余裕もなく私の目からは涙が溢れ続け、何も言葉にならなかった。

ただ、私に寄り添いながらこの闘いを見守り、支え続けてくれた人たちの顔が次々と浮かび、感謝の気持ちだけは心の真ん中に感じていた。

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