見出し画像

episode1. 2016年3月13日 事件の日

(※ 学校名称や人物は仮名で、役職は当時のものです。フラッシュバックなどの症状がある方はご注意ください。)

その日は日曜日で、空は朝からどんより曇り、時折雨がパラパラと降っていた。私は午前中から買い物に出かけていて、あちこち店に立ち寄り、お昼にはよく行く店で洋服や雑貨を眺めていた。ちょうど12時半を過ぎた頃、携帯が鳴った。

第一小学校 A教頭。

あ、今日はPTAとの作業の日だった。もしかして、保護者からクレームが入ったのかな。

以前、宿題提出のチェックについて、そこまで厳しくしなくてもいいのではとA教頭から指導があったこともあり一瞬不安が過る。緊急連絡時に連絡がつくようにと管理職の連絡先を自分の携帯電話に登録していたが、直接A教頭から連絡が入るのはこの日が初めてで、もう一度画面を見て電話を取った。

「お疲れさまです。海野です。」
「日曜日にごめんね。今、大丈夫?」
「はい、何かありました?」
「今日、飯食いに行かない?」

なんだ、クレームじゃなかった。良かった。そういえば夏休み以降も皆で飲みに行こうって何回か誘われていたけど、ずっと断ってたんだった。

「いいですよ。」

「2人やけどいい?」

え…。2人…?他の人たちは??

「他の方は来られないんですか?」

「森さん誘ったけどダメやった。」

えー。いいですよって言った後に、2人なら行きませんて言いづらい…。
どうしよう……、仕方ない。

「分かりました。」
「じゃあ6時に駅近くの飲食店ね。早く始めて早く終わろう。明日月曜日やし。」
「はい。ではまた後ほどですね。失礼します。」

この頃、私は小学校で非常勤講師として勤務していた。受け持ちのクラスは4月から学級崩壊しており、授業中も生徒たちが席を立って、喧嘩を始めることが頻繁に起こっていた。戸惑いつつも、何とか一人で授業を進めようとしたが、私が生徒たちと接するのは週に3時間程度。生徒指導がうまく行かずに悩んでいると、A教頭に呼ばれ「一人で抱え込まないでいいよ。何かあったらすぐ相談しておいで。」と言われたことがあった。その後は、授業中にトラブルが起こると生徒を職員室に送ってSOSを出し、いつも真っ先に駆けつけてくれたのがA教頭だった。生徒指導をお願いしたり、授業のアドバイスを貰ったりと、学校に赴任してからの1年間、色々と助けて貰っていた。
食事に誘われたのは、3月末に非常勤の契約が満了日を迎える2週間前のことだった。

2人でというのは気が進まないけどお世話になったし、来年度の仕事もまだ決まってないし、ご飯だけ行って早めに帰ろう。話題が無くなった時のために、教材を持っていこうかな。まだ準備も終わっていなかったし。

そして私は一度家に戻り、指定された飲食店へ教材を持って、傘をさして歩いて向かった。そこは私の自宅から歩いても遠くはない距離だった。

待ち合わせ場所に5分程早く到着して待っていると、小走りでA教頭がやって来た。

「早かったんだね。日曜日なのに付き合わせてごめん。さ、入ろっか。」と言い、私はA教頭の後について店内に入った。

掘りごたつ式の席に案内され、向かい合って座った。「遠慮しないで飲んで。」とお酒を勧められ、食事をしながら、仕事や家族、プライベートのことを話した。

「常勤なら枠もあるんだけどね。常勤はだめなの?」
「そうですね、ちょっと他のこともしながら小学校でも働きたいので。」
「そうなんだ。特別支援の常勤なら、うちでもあるんだけどね。」

その頃、教員免許と合わせて使いたいと思う資格があり、それに向けて非常勤で働きながら資格取得の勉強に打ち込んでいた。

午後8時半頃、食事が済んで「そろそろ出ようか。」とA教頭が言い、店を出た。

「忘れ物はない?その紙袋はなに?」A教頭は私の持っていた紙袋に気づき、そう言った。

「話題が無くなった時のために教材を持ってきていたんです。」と正直に答えた。

店から出て立ち止まり「おいしかったですね。ごちそうさまでした。」と言うと、A教頭は時計を見て

「まだ早いね。もう一杯どう?もう一杯付き合って。」と言った。

早く終わるって言ってたのに…。断りづらいと思い、誘いを受けた。

「いいですよ。どこに行きますか?」

「作ったものがたくさんあって食べきれないから、うちで飲まない?」

「…先生のアパートですか?」

え…。どうしよう…。

そういえば、半年ほど前、A教頭と同じ学校で働く同僚たち数人で一緒に居酒屋で飲んだ後、飲食店街からすぐ近くのA教頭の自宅に皆で招かれ、周囲に人のいる飲食店ではなかなか話しづらい学校での悩みなどを打ち明けたり、相談したりしたことがあった。自宅なら学校の内輪話が気兼ねなくできるから、よく若手を招いて家で飲んでいると言っていた。この日指定された飲食店はA教頭宅から100mちょっとの場所にあったのだ。

面と向かって行きませんって…。どうしよう、言えない…。

「悪くなるともったいないし、来てくれると助かるんだけど。コンビニで飲み物買って、教材もうちで作ればいいやん。店で教材広げる訳にもいかないし。」

どうしよう…。おかしなことにはならないとは思うけど…。こんなこと、思うことすら失礼だよね…。

上手に断る言葉が見つからず、少しの間沈黙が続いた。

沈黙に耐え切れず「分かりました。」と答えた。これが終わりのない後悔の始まりになり、こんなにも苦しむことになるとは、この時は少しも思っていなかった。

小雨の降る中、コンビニに立ち寄り、買い物をしてA教頭宅に着く。それから1時間ほど授業中に押さえるポイントを教わりながら、教材研究をした。一通り終わり、A教頭にお礼を言って片付け始めたその時、A教頭が「彼氏、いないのか。」と言った。    
   
そこで初めて、私に向けられているじっとりした視線に気が付く。

…え? 

だんだんと胸の中がざわざわし始める。

「ちょっと抱っこさせて。おいで。」
   
座ったまま両手を広げ「おいで。おいで。」と繰り返すA教頭に返す言葉も出てこないまま、首を横に振るのが精いっぱいだった。飲食店で2,3杯飲んだはずのお酒が一気に醒めた。

突然抱きつかれ、全身が固まり身動きが取れずに、息が止まりそうで声も出ない。頭が真っ白になり、自分に一体何が起こっているのか分からなかった。
   
次の瞬間、A教頭が私の体の上に覆いかぶさり、体を跨ぐように馬乗りになった。理性のふっ飛んだA教頭の顔は、見たことのない、もはや知らない人だった。

私の顔に近づいてくる熱気をもったA教頭の整髪料の香りに気分が悪くなる。

「だめです、だめです。」「わー、止めてください。」

心底止めてほしいのに、やんわりとした口調でしか言葉が出て来ない。

※この後の教育委員会の対応に焦点を当てたいので、この先の直接的な性被害の詳細は省略します。


額にびっしりと汗をかいたA教頭はだいぶ酔いが醒めた様子で、ふと壁にかかった時計に目をやり、午後11時を回るのに気が付いた。

「分かった。ごめんね。遅くなったね。」そう言うと私の上から体を起こし、立ち上がった。

そして「タクシーで帰るやろ?」と私に聞きながら電話をかけ、アパートの正面にある飲食店の前にタクシーを一台呼んだ。

急いでアパートから逃げ出したくて、靴もきちんと履かないままドアを開けた。気持ちがはやりうまく歩けない。到着したタクシーに急いで乗り込み、すぐに自宅の住所を告げた。一分、一秒でも早く自分の家に帰りつきたい気持ちと自分に起こったことへのショックで体が震えていた。

タクシーを降りて家の玄関に入り、ドアの鍵を閉めた瞬間、膝から崩れ落ちた。

今のは本当に起こったこと…?

恐怖と湧き上がる屈辱感で体がこわばり、心の中はぐちゃぐちゃになっていた。

そのまま呆然と座り込み、どれくらいか経った頃、握りしめていた携帯が鳴った。1週間ほど前に知り合って一緒にご飯を食べた彼からのメッセージだった。その日は職場の人と夕食に出かけると伝えていた。
   
「もう帰ってきた?」
「うん。今、帰ったところ。」
「遅かったね。明日は月曜日だし、早く寝る準備しなきゃ遅刻するよ。」
「うん、そうだね。」

玄関に座り込んでいた足はすっかり冷え切っていた。足をさすってゆっくりと立ち上がる。靴を脱いで、そのまま浴室へ向かい、お風呂のお湯を入れた。時計の針が深夜12時半を回っていた。

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?