愛され方が分からない私たち

思春期真っ只中の中学生時代から、私は人と継続した人間関係を築く事が出来ないタイプなのだという事には薄々気が付いていた。

ある一定の所まで距離を詰めると、途端に嫌になってしまうのだ。友達が悪い訳でもこれといった明確な理由がある訳でもない。けれど何故か、移動教室の時に一緒に移動しようとか、そういう類の事でいつも息が詰まってしまった。

それは大学生になっても変わらず、むしろ拍車がかかったのか、自分のこの特徴を更に自覚するようになる。

夢中になって取り組んでいたサークルは、縦と横の繋がりが濃く、飲み会に誘われる事もしばしばあった。「新しい自分に生まれ変わりたい」と誘われた飲み会には全て参加するようにしていたら、あっという間にカースト上位にランクインする事が出来た。「華々しい大学デビューを飾る事が出来た」なんて鼻高々に思っていたけれど、2年後、そんな私に予想通り限界は訪れる。あれだけ苦労してサークル内に自分の居場所を獲得したというのに、サークル内の主要メンバーとなり安心感を得て居心地が良くなったはずの場所がどうも受け付けない。楽しいはずの場所なのに、そこにいる間私の心は落ち着かなかった。結局私は大学生活半ばで、そのサークルをアルバイトが忙しいだの何だのと理由を付けてフェードアウトした。

思い返せばそれは恋愛においても常に起こっていた事だった。

クラスのあの子やサークルの先輩を好きになり仲良くなる。不思議な事に恋愛の初期段階において私はかなり積極的な方で、誰これ構わずイケると思えば話しかけまくる。その甲斐もあってか、私の投げかける好意は相手に直球ストレートで伝わり、同じく好意として返してもらえる事が多かった。それは両想いというものだった。

けれどここでも私の短所が顔を出す。

あれだけ好きだったはずの人の事が、何故か生理的に受け付けられなくなってしまうのだ。私の事を見つめる目も、私の名前を呼ぶ声も、私の肩に優しく置かれた手も、好きだったはずの人にまつわる全ての事がとにかく駄目になってしまう。

実はサークルを辞めた理由のひとつがこれだった。好きだった先輩に振り向いてもらえた事で、先輩の事が生理的に受け付けられなくなってしまった。もう二度と顔を見たくないとまで思ってしまった。「ちょうど居心地も悪くなってきたところだ、これなら一石二鳥だ」と思い辞めたのだった。一部の人にはなかなか理解してもらえない感覚だと思う。

のちに私はこれが''蛙化現象''という名の付くものであると知る事になる。


私だって当たり前のように人間関係を構築し継続したいし、恋愛だってしてみたい。親友だと言える友達や、彼氏と呼べる存在が欲しい。

けれど誰かに必要とされたり愛されていると1ミリでも感じ取ってしまうと、それを心が許さないのだ。

必要とされたいのに、愛されたいのに、どうにもこうにも愛され方が分からない。自分に向く優しい目線や愛情を上手く受け取れないのだった。

どうやらこれは自分に自信が無い事が原因らしい。

愛される前に自分の事を愛しなさいという綺麗事だと思い避け続けてきた課題が、今私の目の前に立ちはだかっている。

私の行く手を阻むこの大きな命題を避けて通る事が出来れば良いものを、これに関しては回り道をする事もハードルのように飛び越える事も出来ない。ただ正攻法でしか解決する事が出来ないという現実に、私はひたすら茫然とするしか無かった。


なかなか肉のつかない上半身と相半するように、卵のように丸っこい顔と肉のついた下半身。胃下垂のせいで、食後は妊婦かと見間違えるほどに出るこのお腹を撫でる。愛着の湧かないこの身体。

愛され方が分からない私は、今はまだ鏡に映るこの人間を、瞬きもせずに見つめる事しか出来ない。


ちょっとした備忘録。

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