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人の幸福について改めて考えてみる。────ゾンビにならなくてもしたい100のこと

幸福への大きな障害とは、あまりにも多くの幸せを期待すぎることだ。
"―ベルナール・フォントネル

幸せを後回しにしてはならない。将来幸せになるのを待ってはならない。幸せになる最高の時期とは常に今である。"―ロイ・T・ベネット

幸福という壮大でとりとめのないテーマについてはあまりみんな言及したがらない。幸福について考える余地もない者と会話しても決着がつかないのでやがて思考を放棄した者が多い────

しかし、幸福についてしっかり考えてみるというのはサピエンスの最重要命題ではないのか?そこでここで改めて議論できるよう私見を展開していく。

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────まてまてサピエンスの最重要命題は子孫繁栄だろう?


就活時に「なんで仕事するの?」と聞かれたし社会人になって就活生に聞いた。その答えは十中八九が生きる為、だ。確かに生きる為には大抵$マネー$が必要となる。

でも生きるだけであれば何も一日の1/3もの時間を費やす必要はない。国民の平均貯蓄額は約2,000万円だ。生きているだけに必要な目の前の消費よりも、よほど多くを持っている。

果たしてこんなに貯蓄をして何に使うというのか?何に対してのこしらえなのか?といささか疑問ではあるが一旦わきに置いておこう。


生きる為だけに仕事をしているとすれば明らかに働きすぎだ、

というのがまず1つ目の主張となる。

これでは生きる為の仕事ではなく仕事の為の生きるではないか。

給料が今のまま据え置きで仕事量が1日1時間となったとしたら、人は余った時間で何を選択するだろうか?相変わらずスマホに釘付けになり爆発的に量産されるコンテンツに忙しなくしているのだろうか。まあ、多分そうだろう。

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長生きガメとその余生


「鶴は千年、カメは万年」と言われるほど、長生きをするイメージのあるカメ、さすがに万年は生きないが、ミドリガメの寿命は平均で40年、ゼニガメはそれよりやや短い15~30年ほどだ。

犬や豚は15年ほど、猫は20年ほど、馬やチンパンジーは30年ほど、ゴリラは40年ほど、比較して人は80年オーバーと倍近く生きる。

食が豊かになり医療が大きく発達したことで人は異次元の寿命を手にいれた。寿命だけではなく重要指標とされる健康寿命も延びた。

近縁のチンパンジーやゴリラを考えると、

『生物として』───子孫繁栄するだけなら───こんなに長生きする必要性は全くもってない。


つまりサピエンスは閻魔様からやたらと長い免罪符を頂いた(手に入れてしまった)ということだ。

では改めて「なぜ仕事をするか?」という問いを考えてみると、仕事とはこの免罪符期間を有意義に過ごす為のツールの1つである、が一番しっくりくる。

つまり仕事というのは、資本主義社会における労働の搾取でも娯楽の換金手段でもない。

旅行だったり、音楽を聴いたり、読書をしたり、家族と団らんしたりすることと同列だ、ということだ。


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人生の余白というキャンパスを人は想像できるか?


性成熟(sexual maturity)とは動物が生殖可能な状態になること。

ヒトなどのように生殖可能になった後も体の成長が続く例もあり、逆にトンボなどでは成虫になった後、一定期間を経過しなければ性的に成熟しない例もある。

例えば、ウシの性成熟期は6-12か月齢であるが繁殖供用開始齢期は14-22か月齢である。

ヒトのメスでは、だいたい18才から40才代前半が成熟期となる。

つまり早くて20代前後、遅くて40代前後には役目は終えることができ、その後【生物としては】お役御免なわけだ。

チンパンジーなどヒトに近縁な種では、老いたメスは若いメスの子育てをサポートしたり組織として繁栄するための役割につく。

人も同じことが言えるだろう。おばあちゃんとして孫の世話をしたりすることには極めて高い効果を持つ。

だがしかし、それに果たして40年という膨大な時間は必要だろうか────


それでは40歳までは重大な役割があり、40歳以降にして初めて人生の余白があるように聞こえるがそうではない。

余白のキャンパスというのは生まれてから死ぬまで常にずっと継続的に色を塗ることができる。

ここで少しヒトとそれ以外の違いについて言及してみたい。

高い知能、言語能力、手先の器用さなど色々あるが、最も焦点を当てたいのは時間軸を把握していることだ。

脈々とつながった文明を残し、写真で空間を切り取ることができるようになった人は過去と現在と未来について思考できるようになった。

特に訓練をしていない犬に「その餌を食べなければ明日には倍あげよう」と言っても必ず今日の目の前の餌を食べる。それは時間軸の把握能力の欠如を表す。

一方で人はこれを理解することができる。過去の状態と現在の状態と未来の状態を比較検討した上で行動を決定することができるのだ。

ということは理論上、未来の自分に対してどのような結果を残すことが意義のあることか?について人は想像することができる。その上で今現在でどういう意志決定をするか決めることができる。理論上は────


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人生の余白というキャンパスに何色を塗るか?


人は時間軸に沿って想像できることがわかったところで、「じゃあ何色を塗ればいいんだ?」に話をスライドさせてみる。

これが現状様々な議論があり、多くの人が路頭に迷っているテーマだ。

身も蓋もない話になってしまうが結論的には各自で考えて、決断するしかないと思っている。そこに何も正解はないからだ。

ただ安心してくれ。それを決断する上で役立つ話は幾つかある。1つは、

心に話しかけることだ。


いまだに多くで学歴社会が残っている。学歴といういわば1測定指標なるもので人を振り分けている。

勉強をさぼった人間は不として排除される。勉強を頑張っていい大学に行った人間はいい会社に入り、給料も多く比較的自由な人生を楽しむことができる。

長い間後者が美徳とされ、いわばエリートコース、花道、幸福への近道として信じられてきたし、今も大部分で信じられている。

だがしかし、勉強をしていて心の底から

「うぉーーーーーーーたのしいーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!」


と思ったことはあるだろうか?私はない。

一方で、道端で子猫を見た時、真っ赤な夕陽を見た時、部活動で勝利をチームで噛み締めた時、映画を見て感動した時、ぎりぎりまで仕事をしてビールの一杯目を飲んだ時、そう感じたいと思ったわけではないが感情が揺さぶられ、涙が出てきたり、鳥肌が立ったような経験は何度かあるだろう。────単なる例なので他にもきっともっとある

それが「脳」ではなく「心」で感じた有意義な経験であり、有意義な時間の過ごし方だ。

そういったイベントで24時間、365日埋め尽くすことができればどうだろう、幸福と呼べる時間にならないだろか。

間違ってはいけないのは、幸福というのは比較的なものではないということだ。世間一般的に描画されるものとは違う。

「毎朝決まった時間に起きないといけない」という負のシチュエーションに対して朝いつまでも寝れることが幸せ:違う

「学生の間ずっと勉強しないといけなかった」という負のシチュエーションに対してyoutubeで動画を見てクスクス笑えることが幸せ:違う


ここで言っているのは、そういった”マシになった”という経験ではない。もっと根源的に理屈抜きで感じる経験を指している。

人間社会に没入する中で後天的に染みついた擬陽性は排除する────夕陽をみて感動しろと親に習った(倣った)か?

24時間が完全にフリーになった時────それがいわば人生のキャンバスの余白だ────君は一体何をするのか?その思考実験により発見するのが一番早い。

そういえば最近人気になっている漫画で「ゾンビになるまでにしたい100のこと」というものがある。

あらすじはこうだ。ブラック企業に勤めていた主人公がゾンビで溢れかえってしまった世界になったことをきっかけに閉塞的な生活から解放され、フリーダムにやりたいことをどんどんやっていくという物語である。

24時間フリーダムなら君は一体何をするだろう?何も出ない場合は危険信号だ。サピエンスとしての生物としての生きる、にとどまってしまっている可能性がある。

学生も、既に仕事をしている人も、現代では多忙で時間を取れない可能性が大きい。とは言え幸福について考えることを後回しにしていてもどこかでもう後戻りができない状態になるだけだ。

ベットで死に際、人が何は思うか?仕事なんてやってても仕方なかった、もっと自分のやりたいことに耳を傾けるべきだった、というのは看護師が患者の最後によく聞く言葉だという。

今が最も若いので、なんとか時間を工面してでも思考して思い当たることは直ぐにするのがいい。

「ゾンビになるまでにしたい100のこと」ならぬ「ゾンビにならなくてもしたい100のこと」ってなわけである。


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んで結局仕事ってなんなのさ?


さて、最初の質問に戻ってきた。結論的には仕事はキャンバスの余白に色を塗る為のツールになる。

(再掲)
つまり仕事というのは、その他の旅行だったり、音楽を聴いたり、読書をしたり、家族と団らんしたりすることと同列、ということになる。

仕事自体が色を塗る行為であり、自らに経験をもたらせ、何色を塗るかのヒントをくれるペースメーカーにもなるということだ。

もう1つツールとしての動きがある。それはお金を稼ぐことだ。

────まてまて冒頭で棄却した意見がなんでここに来て出てくんだ?


そういきりたたないでほしい。

あくまで話の主旨は、自身のキャンバスに何色を塗るのがいいか?ということには変わりはない。

色を塗る時に指定する色────経験であったり、状態────にはお金なんて必要のないものも多いだろう。

それが全てなのであればお金は確かに必要ない。資本主義社会に立脚する以上、生きていくための人として最低限の尊厳を維持するためのお金があればいい。

しかし、中にはお金がなければ実現できないものもあるだろう。家族が大病した時の治療費であったり、海外への渡航費みたいなものだ。

お金がなければその状態がつくれず、その結果キャンバスに色が塗れないのであれば本末転倒である。

先立つものは自身の理想であり、

その必要条件としてお金があるのであれば仕事をしてお金を稼ぐことは幸福への道筋として誤っていない


というのが主張だ。

これが逆転して、なんとなくの仕事に多くの時間を取られ、疲れきったあなたは隙間時間に妥協のつかの間の休息をとるようなことを永遠と続けてみてもきっと幸福には至らない。

そして幸福には至らない人はやがて幸福を探すことを辞め暗中模索のさ中、結婚やマイホームなど前近代的な一般的な幸福論に頼ろうとする。「みんなが言うのだ!そこにもしかするとエデンがあるのだ!」と期待するのだ。

しかし、思考を放棄して、キャンバスへの色塗りを辞退した人間が他人の筆に色を塗りたくっても自分の幸福に繋がることはない。他人の筆は自分の好きな筆の大きなでも形でも色でもない。

思考することから逃げないでしっかり考える。そして発見する。それまでの道のりを地に足つけて歩む。これこそがやはり今も昔も変わらない一番の幸福なのである。

────FIN


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