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映画『サタデー・フィクション』  ロウ・イエ、歴史・フィクション 晏 妮(日本映画大学特任教授)

 11/3(金)全国公開の映画『サタデー・フィクション』につきまして、映画研究者晏 妮先生より寄稿をいただきました。

ロウ・イエ、歴史・フィクション

 『スプリング・フィーバー』が東京国際映画祭で上映された際、『映画芸術』の企画により、ロウ・イエは青山真治と誌上対談を行った。日本に留学し、1945年にシンガポールで憲兵に殺害されたとされる郁達夫が発表した短編小説『春風沈醉の夜』という原題をそのままこの映画のタイトルに使用していることで、二人の対話は映画から文学に及んだ。『パープル・バタフライ』を撮るために、自分に深い影響を与えたイタリアのベルトルッチ監督の推薦で、アンドレ・マルローの『人間の条件』を読み、その後、横光利一の『上海』も読んだが、『人間の条件』より、『上海』が好きだとロウ・イエは語った。
 『パープル・バタフライ』は歴史を題材とするロウ・イエの初映画だった。満洲で知り合い恋に落ちた日本人男性と中国人女性が上海で再会、悲劇の結末を迎えるラブ・サスペンスだ。互いに愛し合っていても、対立する立場に立たされると、最終的に相手を殺すという筋運びは、横光利一の『上海』よりも悲惨な結末が用意された。また主人公のカップルを中心に、ロウ・イエは悲劇に巻き込まれるもう一組のカップルを物語に関わる重要な役柄にして、二重の悲劇へと展開させた。群像劇を得意とするロウ・イエならではの一作だが、その読書歴からインスピレーションを得て映画に結実したと思われる。
 カメラが執拗なほどに人物をクローズアップし、角度を変えながらその顔を見つめるショットを多用している『パープル・バタフライ』。他方、そうした静止画面を激しい移動撮影とリンクさせるアクションシーンを挿入している。しかし、初デジタルカメラで撮った『スプリング・フィーバー』から、ロウ・イエはカメラをより自由に操る傾向が現れる。照明をオートにして、手持ちカメラで一気呵成の長回しに徹底し、臨場感のある映像表現を極めるように進化しつつある。今回のロウ・イエが上海における複雑な歴史に再度挑んだのも、『パープル・バタフライ』で築かれた自らの映像世界を打破しようとした意思があったからではないか。
 劇団が芝居の稽古を繰り返す冒頭のシーン、コミュニストで大女優のユー・ジンはいきなり「秋蘭」という名前で登場した。横光の原作からヒロインの名前を借用した。虹影の原作『上海の死』をどれほど参照したかが不明だが、フランス人諜報部員の引き取った孤児だったユー・ジンは当然マルロー原作にある混血のヒロインを連想させる。
 このように、『パープル・バタフライ』に続き、日中戦争のフィクションを創造/想像したロウ・イエだが、大胆に実在の歴史空間をスクリーンに持ち込んだ。『サタデー・フィクション』の舞台となっている上海租界に位置した「蘭心大劇院」(LYCEUM ライシャム劇場)は戦時から現在まで実在する有名な劇場である。早期の中国現代劇がここに誕生したのみならず、「蘭心」は東西芸術が盛んに交流する公共空間としてもよく知られている。かつて1937年以降、租界を除いて日本に占領された上海では、抗日をストレートに訴える舞台劇と映画製作がともに不可能になった。そうした状況下で、上海にある幾つかの劇団は映画界と連動して創作した「借古諷今」(昔に託つけて現在を諷刺する)の舞台劇を「蘭心大劇院」で公演した。これはれっきとした史実である。
 また『サタデー・フィクション』の描いた歴史時間は誰もが知っている時代であった。第二次上海事変の1937年8月13日から太平洋戦争勃発の1941年12月8日までは「孤島期」と呼ばれた四年間だ。ロウ・イエはその「孤島期」の最後の一週間を物語の時間に設定した。つまり、日本がパールハーバー奇襲後、上海の政治的地図はさらに塗り替えられる前夜の「フィクション」(12月7日も虚構なのか)ということになる。このように、開戦直前の一週間を曜日ごとに追う映画内部の疑似的歴史の時間は西洋によってもたらされた植民地的近代の象徴でもある「蘭心大戯院」という実在した歴史の空間をうまく融合してエキセントリックなストーリーにしている。まして人気女優がスパイであり、彼女の周りに日本軍に逮捕された前夫、恋人だった舞台劇演出家、重慶のスパイである謎の女性ファン、ホテルの外国人支配人、フランス人の義父、日本の海軍少佐など、多彩な人物が配置されているので、観客にワクワクさせないはずはないだろう。
 だが、意表をつくこの話をあえてモノクロで撮影するロウ・イエ。たぶん歴史の質感をより引き出したいためだと思われる。しかし他方、フィクションの一面を強調するかのように、ロウ・イエは舞台で繰り返し行う芝居の稽古と現実との境界線をあえて定めずに、人物に芝居と劇中の現実の間を自由に出入りさせている。一般的に言うメタフィクションの概念を彼は解体することをここで試みたのだ。揺れ動くカメラはつねに複数の人物(エキストラを含める)の異なった動きを長いワンショットに収める一方、オートで撮られた暗い空間でのショット(シーン)からは、人物の顔でさえも判別しにくい。『パープル・バタフライ』のカメラワークに対するロウ・イエ自身の反抗だと思うが、見慣れない観客はどう反応するのだろうか。
 抗日組織があり、対日協力者がおり、日本軍人も複数登場する。相変わらず複雑な人間関係図の様相を呈している本作は、『パープル・バタフライ』の悠長な大写しを思い切って放棄し、個々の人物の感情より、緊張した空気感を不安定なカメラで刻々と観客に伝えることを工夫している。
 これこそが実験性に満ちているロウ・イエの斬新なスパイアクションであるが、英語のタイトル通り、文学と映画を自由に闊歩して出来上がった、ロウ・イエでしか撮れない歴史のフィクションとなっている。本作を観た後は、アン・リーの『ラスト、コーション』に描かれた太平洋戦争勃発後の上海史に、ロウ・イエはいつか挑戦するだろうという期待を膨らませるばかりである。

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