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チネーまわりとモーアシビエイサー

念仏エイサーとモーアシビが融合しエイサーが誕生する 

                    

1. はじめに

エイサーの祖形はアンニャたちがもたらした似せ念仏でした。似せ念仏は喧嘩口論が絶えず、衣装も頭巾や帯には絹を使い、絵入りの派手な衣装を着けていました。覆面して門に立ち、指笛を吹いて歌三味線をし、〈異風之躰〉で道路を徘徊し、人の家に押し入るとして取り締まりの対象になっていました。

これは18世紀半ばの行政記録(1733年、及び1758、59年)に残されているものですが、現代のエイサーにそのままつながるものではないように思われます。なぜなら現在のエイサーは、「輪になって素朴な手踊りを踊る簡素なもの」から変化したとされるからです。

戦前のエイサーは今よりずっと簡素なものだった。名護一帯では明治後期から扇や采(ゼー)などの小道具を使う優雅な手踊りが盛んだった。与勝半島地域では昭和以前からパーランクーを使うエイサーが発達していたようだ。しかし、それ以外の多くの地域のエイサーは、戦前までは太鼓もほとんど使わず、地方の歌三線に合わせ、輪になって素朴な手踊りを踊る簡素なものだった。(久万田晋「謡たい踊たい・沖縄芸能の百年(6)」2000.10.5沖縄タイムス夕刊)

似せ念仏自体は本場であった旧首里・旧那覇からは、近代になって姿を消しています。記録された似せ念仏のイメージに近いのは、八重山の盆行事の芸能であるアンガマでしょう。八重山の郷土史家の大田静雄氏は、似せ念仏の記録を読み、「八重山のアンガマ踊りを彷彿させる」と述べています。

覆面をし、歌三味線をしながら人家に押し入るというのは、八重山のアンガマ踊りを彷彿させる。アンガマ踊りの後は、見物人たちによって踏み荒らされた庭、崩れた石垣はまるで台風一過のようであったという。
人家押し入り禁止もそんな状態のためではなかろうか。(大田静男「アンガマ踊り」)

大田氏は、百姓のアンガマと士族のアンガマは異なると述べています。そして士族のアンガマの成立を19世紀から20世紀初頭にかけてであると見ていますから、旧首里・旧那覇から似せ念仏が消えていく時期と八重山でアンガマが成立する時期は、ほぼ同じ時代だといえるでしょう。

翁、媼が登場せず庭先で円陣で踊られるのを百姓のアンガマという。
翁、媼が登場し『無蔵念仏節』をうたい屋内ででのアンガ踊りを士族のアンガマという。
円陣舞踊はなく一、二人で踊られる格調高い踊りで、その踊りが成立するのは十九世紀から二十世紀初頭であり、士族のアンガマ踊りが成立するのもその年代であろう。(大田同前)

それなら現在のエイサーの直接のルーツはどこになるのでしょうか。それは旧首里・旧那覇に近い島尻地方(南部)に残る念仏エイサーだといえます。念仏エイサーはどのような芸能だったのでしょうか。

今回は、エイサーの直接のルーツである念仏エイサーと、近代になって念仏エイサーとモーアシビが融合を遂げたモーアシビエイサーを取り上げて、エイサーの直接のルーツの念仏エイサーと近代に誕生したエイサーについて考えてみたいと思います。

2. 八重瀬町安里に見る念仏エイサー

念仏エイサーがどのようにして現代のエイサーに変貌したのかというイメージは、八重瀬町安里(あさと)に残る「チネー(家庭)まわり」によってつかむことができます。

安里のチネーまわりは古い念仏歌を完璧に残しているというわけではありません。1970年に桃原茂夫氏によって発表された「具志頭村字安里における七月行事」(池宮正治『沖縄の遊行芸:チョンダラーとニンブチャー』所収)によると、安里のチネーまわりには長大な念仏歌謡が五曲も唱えられていたようです。その当時の安里の念仏エイサーは普段着でおこなうものでした。

安里村では、祖霊送りの踊りを七月エンサーという。唄はエンサー唄と総称され、その中にメーカタ、念仏(五節)、カチャーシーがあり、全部で七節(ナナフシ)と決まっている。エンサーは十三日〜十五日の夜行なわれ、部落全戸を踊りまわって、精霊をなぐさめ、エンサーウークイをした。
十五日の夜明け前頃、部落旧家の上門(ウィージョウ)、東(アガリー)、ミードンチ(根屋といわれるが、拝所であって人は住んでいない)で、それぞれ七節(ナナフシ)を唄い、解散する。普通の家では、念仏のうちどれか一つをやった。仏壇のない家ではカチャーシーを踊るだけで念仏はやらない。各戸で酒やちょっとした肴が出される。参加者は十七、八歳から三十歳までの男女であった。戦後は娯楽が少なかったせいもあって、既婚者も参加した。子供達はエンサーを見るといって、後からついて歩いた。最近は青年が少ないのでやる人がいなくなり、特に女子は参加しなくなった。
男は手拭(ティハージ)やウーマファー(芭蕉の葉)を鉢巻きにしたり、頭にまきつけたほかは、特別な服装はなかった。楽器はパーランクーと三味線。形態は三味線と地謡(ジーウテー)は四五人で庭の真中に敷物を敷いて坐り、他の人達は囃と手拍子で地謡のまわりを反時計廻りにまわる。
エンサーの練習は、八日頃から始めて、村屋(ムラヤー)(区事務所)の前や十字路(カジマヤー)や馬小屋の天井等で行なわれた。草刈りに行った時に場所を示しあわせ、夕方、門の外から口笛で合図し、よび出した。エンサーの念仏は七月以外の月には唄えなかった。(桃原茂夫「具志頭村字安里における七月行事」)

安里のチネーまわりは、現在でもほぼ上述のように行われます。特別な服装はなく普段着であり、部落全戸を廻り、各家の庭で円陣舞踊を踊ります。各家では酒やちょっとした肴が出されます。

安里のチネーまわりは、旧盆の期間中、深夜から明け方まで続きます。エイサーの青年男女が訪れると、夜中だろうと明け方だろうとどの家でも酒肴が出され、青年男女を接待します。

安里のチネーまわりでは、各家を廻りながら、数カ所のアジマー(四ツ辻)で休憩の酒盛りが行われます。

アジマーというのは異界・他界と現世との出入り口とされていますので、そこでの宴会は死者の霊を降ろす儀式だといえます。アジマーでの宴会により死者の霊が降り、青年男女は死者の霊に変身します。

沖縄の宗教的空間は、ざっくりいうと、山から降りてくる神と海から上陸する神とに大別されます。そして山と海の交わる地点に人間たちの世界があります。死者たちは海の彼方から招かれて上陸し、人間たちのもてなしを受けて再び海に戻っていくのです。

死者たちが人間の世界を訪れてもてなしを受けるというのは、世界に普遍的にみられる宗教の形です。ハローウィンがそうですし、クリスマスも元の形は子供たちが死者の霊になって各家を訪問し、プレゼントを強要するというものでした。死者の霊をもてなすことによって、死者の世界にあった富や幸が人間の世界にもたらされるのです。

太陽の力がもっとも弱くなり、万霊がこの世をみたすと言われる冬のこの季節、ヨーロッパの村々には、かなりな長期間にわたって、死者の霊をあらわす、さまざまな存在が出現した。大きな仮面をかぶっている者たちもいれば、ガラガラ、ヒュンヒュンいう恐ろしい騒音を立てる楽器を手にした若者たちもいれば、隊列を組んで家々を訪ね歩いて、食べ物やお菓子やお金を要求していく子供たちの一群もあった。農村の家族は、この期間の夜は、じっと家の中におとなしく暮らして、仮面や騒音楽器を手にした、若者や子供の一隊がやってきたら、彼らを丁重に迎えて、彼らの望みどおりの贈り物をあたえてやらなければならなかった。そうしなければ、穀物や家畜が、来年になって豊かな収穫や増産をあたえてくれないだろうし、新婚の家庭には子供がさずけられないかもしれないし、家族に不幸がおこってしまうかもしれない、という恐れがあったからである。太陽がかげった冬の村々を、死者の霊の群行がおおいつくした。生者はそうやって訪れてくる死者の霊を、心よく迎えて、手厚い贈り物をあたえて、彼らに気持ちよく去ってもらおうと、さまぎまな手のこんだ祭りをおこなったのである。(中沢新一「幸福の贈与」『サンタクロースの秘密』)

クリスマスと旧盆は冬と夏の違いがありますが、やっていることはほぼ同じです。死者の霊をもてなし、死者の霊から祝福を授けてもらうのです。アジマーで死者の霊に変身した若者たちは、家々を訪問して歓待を受け、代わりに幸福を授けていくのです。

八重瀬町安里に残る念仏エイサーと現代のエイサーとの共通項は、来訪神祭祀の枠組を残しているという点にあります。シマ(集落)の青年男女が異界=他界の神々に変貌し、神の祝福を各家に授けるという点で構造が類似しているのです。

安里のチネーまわりは古い念仏歌を完璧に残しているというわけではありません。しかしこのチネーまわりには、現代のエイサーを観るようなワクワク感があります。つまりナマの感じがあるのです。

このワクワク感がどこから得られるのでしょうか。

① メンバーが現役の青年会の男女によって構成されていること、
② 深夜から明け方までコミュニティ内のほとんどの家を一軒一軒訪問すること、
③ アジマーで円陣を組むことによって霊的なものを降ろす儀礼を踏んでいること、

などという点に求めることができるでしょう。

これらの要素は、青年男女が神々に変身し、神の祝福を授けるために一軒一軒の家を訪問するという、来訪神祭祀の構造を残すものだといえるからです。

3. アジマーでグソーの人に変身するエイサー

八重瀬町安里の念仏エイサーでは、数カ所のアジマーで、円陣になって新人を歓迎する宴がもたれます。

沖縄でアジマーあるいはカジマヤーと呼ばれる四ツ辻は、異界=他界と現世を結ぶ出入り口と考えられていました。そのアジマーで円陣になって宴を持つことによって、円陣の中に神を降ろします。アジマーでの宴によって、青年男女は世俗の人間から聖なる存在へと変身を遂げていくことになるのです。

カジマヤ祝いの特徴のひとつは、模擬葬式が行われたことである(88歳のトーカチ祝いに行う事例もあるが)。たとえば、死装束をさせて西枕に寝かせ枕飯を供えたり、当人を墓まで連れていったりした。つまり、カジマヤになった人は、いったん象徴的な死を体験する仕組みになっていたのである。そして注目されるのは、カジマヤには、七つの辻(あるいは橋)を通過する儀礼を伴う事例が少なくない、という点である。なぜ辻なのか。これは明らかに、先に述べた辻という場所の特殊性に関係があろう。つまり、人々は辻を、他界や異界との接点あるいはその入り口と考えていた可能性があり、そうであれば、象徴的な死を体験するために辻を通過することには、それなりの意味があったことになる。(赤嶺政信『シマの見る夢』)

このアジマーでの宴は山原(やんばる)のモーアシビエイサーでも見られるものです。本部町瀬底島のモーアシビエイサーを見学に行ったとき、アジマーで休息するエイサーの青年男女を見たことがあります。

深夜に集落内の家々を訪問する途上で、若者たちはアジマーで円陣の形をとって休息していました。次の家を訪問する前に気を溜めていたのです。

アジマーが他界との境界であるのなら、アジマーで円陣を組むことにより、霊的なものが降りてくることになります。そのことによってエイサーの青年男女は、日常性を脱して、シマの来訪神へ変身を遂げることになるのです。

エイサーの青年男女は家々に祝福を授けるので、個別の家々は神々の祝福を受けるとともに、コミュニティとの結びつきを深めることになります。多くの家がエイサーの青年男女の来訪を待っており、どのような深夜であろうと、来訪に応じて家の灯りがつき、酒肴が饗応されます。チネーまわりの青年男女によって、古いシマ社会の記憶が現代に甦るのです。


4. モーアシビエイサー

短縮化される念仏

現在見られるエイサーは、念仏の部分が短縮化され、モーアシビの要素が主流となる芸能です。ニンブチャーたちの残した念仏は、親の供養や親孝行が主なテーマでした。

たとえば「継親念仏(ママウヤニンブツ)」では、母を亡くした子が七月七夕の中の十日に母親の霊と会えるという物語であり、母親は子どもによる懇(ねんご)ろな供養を頼むというストーリーで、歌は43番まである長大なものです。

ママウヤ・ニンブツ(継親念仏) 継母の虐待を受けた子供が亡き母親を慕って諸国を巡り歩くうちに一人の老爺に遭い、我が親に会わしてくれというと、老爺はお前の親は間の日には会えない、七月棚機(たなばた)の中の十日に来い、この日はあの世の七つの門が開く時であるから、糸を巻くクラグシをたくさん切り貯えて右の袖にも左の袖にも入れて来てその間から拝めよと教えてくれる。子供は老爺の教うるままに遂に亡き母に会って苦衷を陳べると、母親はそんな事をいわずに家へ帰って茶湯や色々の物の初などを供えよ、私は蜻蛉(あきつ)や蝶に姿を変えて往って受け取ろうと誡めてやる。(宮良当壮「沖縄の人形芝居」1925年)

「長者の流れ(チョンジョンナガリー)」では、七たび栄えてもなお滅び尽くさぬという長者の流れを汲んだ貧しい老夫婦が、三人の嫁を呼び寄せて、今は命も絶え絶えなので、子どもを殺してその血を飲ませてくれと孝心を試します。長男、次男の嫁は拒否しますが、三男の嫁は承諾します。死んだ子の死骸を埋めるために土を掘るとそこから金銀財宝が湧き出してくるという物語で、63番まであります。

チョンジョン・ナガリー(長者の流れ) 七たび衰えてもなお滅び尽くさぬという長者の血の流れを汲んだ貧しい老夫婦が、三人の嫁を呼び寄せて、長者の徳を授けるべき者を選定するというのが本篇の骨子である。即ち老夫がいうには、この長者の親父も年老いて今は命絶え絶えである。お前たちの子供を殺してその血を飲ませてくれと。すると大嫁と仲嫁とは、お年のせいでお父さんは気が狂われたのか、それとも物好きなのか、子供は咲き誇る花であるから殺す訳にはいかない、寄る年波が長過ぎるのであるといってはね付ける。ところが末嫁は子供は産み代えても抱かれる、親は再び拝まれぬといって承知する。
 それから長者の翁は、お前の子供を埋むべき所は、長者屋敷の三本小松の中の木の蔭であると教えてくれる。末嫁は犠牲の子の遺骸を葬るために、右手に鍬を携え、左手で棺を抱いて悲しく出掛ける。ところがあに図らんやその墓穴を掘るために打ち下ろす鍬の先で金銀のいっぱい詰まった手箱を掘り出す。そして長者になる。(宮良同前)

これらの念仏歌は、現在のエイサー歌に痕跡として残っています。たとえばエイサーでよく唄われる《仲順流り節》の一番目の歌詞「七月七夕 中ぬ十日」は《継親念仏》の一節であり、二番目の歌詞「仲順流りや 七流り」は《長者の流れ》の一節となっています。

つまり現在のエイサー唄の《仲順(ちゅんじゅん)流れ(ながり)》は、《継親念仏》と《長者の流れ》という二つの念仏節が含まれているということになります。

《仲順流れ》を歌うことにより、《継親念仏》と《長者の流れ》という二つの長大な念仏歌を歌ったことになるのです。

エイサーの生成

モーアシビは明治30年代以降に顕著になる風俗改良運動によって取り締まりの対象となります。娘宿(後述)の残存していた中北部では、モーアシビは娘宿やアジマーなどの公開的な場でおこなわれていたため、風俗改良運動の標的となりました。

風俗改良運動 廃藩置県以降、本土に同化する、させるために行われた沖縄固有の文化撤廃・改変の動き。義務教育における標準語励行とともに明治十年代にその胎動はみられ、明治三十年代以降顕著になった。1888年(明治21)の師範学校生による男子の結髪の断髪、96年の首里女学校での久場ツル主導による琉装から和装への転換、和名への改名などは、「沖縄人は日本人である」と考えた沖縄出身の有識者に先導された。他方、99年のハジチ(入墨)の禁止、翌年の毛遊び(モウアシビ)禁止を狙った男女の風紀取締りの実施などは、法に基づき強制的に実施された。(…)風俗改良の動きは、学校が取り組みを強化したこともあり、一種の善行として個々の村落に受容された。風俗改良会が各地に組織化され、年中行事や冠婚葬祭の改善、男女の夜遊びの禁止、国旗掲揚、夜学会の設立などが行われた。また、この運動が特に女性を対象とし、女子の貞操を守り、良妻賢母を育成することが志されたことは、1906年の警察による那覇のユタ取り締まりや、翌年の娼妓外出禁止規則の公布にも間接的に示される。風俗改良を目指す一連の動きは、第二次世界大戦終戦に至るまで継続した。(加賀谷真梨『沖縄民俗辞典』)

モーアシビを禁じられた青年男女は、モーアシビに代わるものとして念仏エイサーを発見しました。モーアシビの代わりに、ニンブチャー=チョンダラーたちの演じていた念仏エイサーを演じるようになったのです。

しかし未婚の青年男女はシンプルに念仏エイサーを演じたのではありませんでした。来訪神祭祀として念仏エイサーを演じたのです。なぜならモーアシビは来訪神祭祀の原型とも呼べるものであったからです。

そのため念仏エイサーは、たやすくエイサーに変貌して行きました。それはモーアシビと融合した新しい芸能の誕生でした。

娘宿とエイサー生成の謎

長大な念仏歌を短縮しモーアシビと融合させたエイサーは、近代に沖縄島中北部で生成しました。

なぜ旧首里・旧那覇ではなく、あるいは南部ではなく、中北部でエイサーが生成したのでしょうか。その謎を解く鍵は、ヤガマヤーと呼ばれる娘宿の存続にあったといえます。

ヤガマヤーというのは沖縄島中北部とその周辺島嶼にあった娘宿のことで、ユーナビヤ、ブーナビヤともいいます。ヤガマは小屋という意味です。ユーナビは夜業(よなべ)のことをいいます。ブーナビのブーは苧麻(ちょま)糸のことで、糸紡ぎの作業のことをいいます。

気のあった娘たちが一定の場所に集まり、糸紡ぎなどの夜なべをしました。そこへ若者たちが遊びに来て、その場でモーアシビをしたり、アジマーやモー(原野)に場所を移してモーアシビをしました。そのような娘宿は大正年間まで残っていたということです。

中北部とは異なり沖縄島南部では、近世末期か近代初期に娘宿は消滅し、その痕跡は残っていなかったようです。沖縄県史には、南部では明治・大正時代を通してモーアシビは盛んだったが、娘宿があったという話は聞かないと記されています。

沖縄本島の南部島尻地方には、若者宿や娘宿があったということを聞かない。そのかわり、モウアシビという若い男女の夜遊びは、明治・大正の時代を通して盛んであった。(『沖縄県史「民俗1」』)

明治・大正時代というのは念仏エイサーがエイサーに変貌する時期です。エイサーが生成するその時期に、南部では娘宿が残されていなかったのです。

エイサーがモーアシビから生まれたものだとしたら、南部でエイサーが生成しなかった理由がわかりません。南部と中北部の違いは、モーアシビの有無ではなく、娘宿の有無にあったのだとおもわれます。

エイサーは念仏エイサーとモーアシビが融合した芸能だといえるのですが、モーアシビだけでエイサーは生成しなかったのだといえます。娘宿というトポスがあることによって、エイサーは生成したのです。

トポス  「人文・社会科学では、ニュートン物理学的な均質空間とは区別される、濃密な意味(象徴)を帯びた空間を表現するのにギリシャ語に由来するトポスという概念を使う」(赤嶺政信『シマの見る夢』)

なぜ娘宿でのモーアシビによってエイサーが生成したのでしょうか。それは娘宿が霊的なトポスであったためだとおもわれます。娘宿は、来訪神祭祀における聖域と同じく霊的なトポスとしての機能をもっていたのです。

娘宿はアシャギ(離れ座敷)で行われることが多かったのですが、このアシャギと来訪神祭祀を行う神アシャギは、同一の構造を持つものでした。アシャギは貴人の接待用の座敷で、モーアシビの若者たちは貴人としてアシャギを訪問します。それは神が神アシャギを訪問するのと同一の行動です。

アシャギ 離れ座敷のこと。アシャゲ、アサギ、メーヌヤー(前の屋)ともいう。ふつう母屋の一番座に縁または雨端(あまはじ)で接続されている。一、二室からなり、便所などもついている。沖縄の地方の富裕な民家にあって、首里王府時代、王府から来訪の貴族や士族などの接客用として使用された。(嵩原安一郎『沖縄大百科事典』)
神アシャギ 村々において神を招請して祭祀をおこなう場所。(…)沖縄本島では神アサギ、神サギ、奄美諸島では神アシャゲと称される。また、神アシャギを殿(トゥン)という地域もあり、神女が神アシャギに入ることを「殿ヌブイ(のぼり)」と称している村々があって、呼称からしても祭祀内容からしても、両者は異名同義と思われる。(…)建物は、四方壁のない四柱造りの竹茅葺き(今ではコンクリート建物に変化)で、沖縄国頭地方では軒がごく低く、奄美諸島では軒が高い。(仲松弥秀『沖縄大百科事典』)

モーアシビは来訪神祭祀と同じ構造をもつもので、来訪する神が妻問い(=妻問婚。婚姻の一種で、夫が妻の下に通う婚姻の形態のこと。招婿婚ともいう)するという形を踏まえるものでした。

来訪神祭祀では、神を迎え、もてなし、別れ遊びをします。娘宿は、神を迎え、もてなす聖域と同じ構造を持つトポスであったため、娘宿でのモーアシビは、新しい芸能を生み出す母胎となったのです。

娘宿では未婚の娘たちが集まって夜なべ仕事をしていました。そこに青年たちが合流し、モーアシビが行われます。娘宿で行われる、あるいは娘宿から場所を変えるとしても、若者たちが合流して行われるモーアシビの最大の特徴は、配偶者選択にありました。それは親決め婚ではなく、若者仲間のなかで承認される配偶者選択でした。

娘宿のない南部のモーアシビには、当事者による配偶者の選択が少なく、結婚相手は親決め婚であったようです。

昭和初頭に沖縄の婚姻調査をした奥野彦六郎によると、沖縄島南部の糸満では、1850年代から60年代にかけて配偶者の選択が当人たち同士から親決めに変化していました。

奥野は島尻郡(南部)の糸満で当時八十歳の老婦人から聞き取りをしています。それによると、彼女の親の世代の配偶者選択は自由であったが彼女の姉の世代から親決め婚に変化したということです。

奥野の沖縄滞在は1925から27年にかけてのことなので、その当時八十歳の老婦人の出生は1840年代ということになります。その女性のモーアシビする年代のことですから、1850年代から60年代にかけてのことになります。

〔島尻地方糸満〕 自分等(兼城かね、当時八〇歳)の親の代は糸満内なら私通は自由であった。それが姉の時分から堅くなったのである。別段村方から達しがあったわけではないが、ちょうど自分より五つ位年上の女がある男と通じたのを親戚の者等が打つといって棒を持って出かけたので、夜になって他地方に逃げた事件があり、自然に他の者もいましめたりしてやかましくなり堅くなった。自分等の頃から女はともかく親まかせで、男も大抵同様であるが、中には本人で望んで親を通じてもらい受けた者もあった。(奥野彦六郎『沖縄婚姻史』)

おそらく配偶者の選択が親決めになった時期に、南部で娘宿が消滅していったのかもしれません。娘宿というトポスが失われていたので、南部では念仏エイサーがエイサーに変貌する契機がなかったのだといえます。

なぜ娘宿でのモーアシビによってエイサーが生成したのでしょうか。その答えの一つとして、娘宿でのモーアシビは公開性の高いものであったことがあげられます。

もう一つの答えとして、娘宿でのモーアシビは通い婚の様式に則(のっと)るものであり、日本・沖縄の古層の文化である来訪神祭祀に基づくものであったことがあげられます。


念仏エイサーの需要と姿を消したニンブチャーたち

風俗改良運動は明治民法の公布(1898)以降に顕著になります。明治民法が目指したものは、日本の家制度の近代における再構築でした。つまり先祖代々という家意識が前提となるものです。

土地の私的所有の概念が未熟であった沖縄の民衆層に、先祖代々という家意識が成立するのは、大きなジャンプが必要とされました。

土地整理事業(1899-1903)によって土地の私的所有権が確立され、明治民法によって家制度が法的に確立されることによって、沖縄においても家意識が急速に確立されていくことになります。

日本の家制度を代替したのは、沖縄における位牌継承慣行でした。位牌継承慣行は、明治民法の公布以降に本格的な民衆化を果たしていくことになります。そして位牌継承慣行の民衆化によって、祖先供養の念仏エイサーも需要を増大させていくことになるのです。

ところが念仏エイサーを演じていたニンブチャー=チョンダラーたちは、沖縄社会の近代化とともに急速に社会の表面から姿を消していきます。

念仏エイサーの需要が高まるなかで、その担い手であったニンブチャー=チョンダラーたちは姿を消し、ちょうど同じ時期にモーアシビの青年男女は表立ってモーアシビをすることができなくなっていくのです。おそらくそのような社会の激変の中で、モーアシビの青年男女はエイサーを創り出していったのです。

念仏歌は基本的に物語歌謡であったので、長大な歌詞を歌うものでした。その長大な念仏歌謡を思い切り短縮化することによって、念仏エイサーにモーアシビの要素が盛り込まれることになります。

短縮化した祖先供養の念仏を唱えることによって、モーアシビの青年男女は再び公衆の面前でモーアシビを踊ることが可能になったのです。

念仏エイサーとモーアシビが融合し、エイサーが誕生する

念仏エイサーがモーアシビの青年男女に担われることによって、エイサーの内容に劇的な変化が発生します。それは、次のような変化です。

① 祖先供養に加え豊穣予祝の意義を帯びたこと
② 歌謡が念仏歌謡の痕跡だけを残しモーアシビ歌謡に代わったこと
③ 未婚の青年男女による〈歌垣〉の要素を濃くしたこと

この変化は、エイサーが祖先供養という形式を踏まえながらも、来訪神祭祀(豊穣予祝)や歌垣(モーアシビ)の構造の上に成立するものであることを表しています。

つまり祖先供養という位牌祭祀の形式を踏まえながらも、シマ社会に豊穣をもたらす来訪神祭祀としての構造は、揺るがなかったということです。

ニンブチャー=チョンダラーたちの芸能であった念仏は、近代化のなかで消滅していきます。またシマ社会の芸能の源泉であったモーアシビも、近代化のなかで同じく消滅していきます。しかし念仏エイサー とモーアシビが、近代化のなかで絶妙な融合を果たし、まったく新しいエイサーという芸能を誕生させたのだともいえるのです。

むしろ念仏エイサーもモーアシビも消滅したのではなく、エイサーのなかで再構築され、近代的な芸能として蘇生を果たしたといえるのではないでしょうか。

エイサーは沖縄の近現代の社会的大激変のなかで誕生した芸能だといえます。古い社会から新しい社会に変わるとき、エイサーという芸能を生み出すことで、沖縄の民衆は激動の時代を乗り切ったのです。

エイサーは沖縄の古層の文化である来訪神祭祀を現代社会に再構築した芸能です。エイサーの青年男女を持つことにより、沖縄のシマ社会は自らの神々を手離すことなく、現代に蘇らせることに成功したのだといえます。古層の神々の祝福はエイサーの青年男女によってシマにもたらされることになったのです。

念仏エイサーとモーアシビが融合してできたモーアシビエイサーは、現在では沖縄島北部の名護市、本部町、今帰仁村に散在して残る状態となっていますが、かつては沖縄島の中北部に幅広く分布するエイサーでした。

今帰仁村仲宗根モーアシビエイサー4

モーアシビエイサーは沖縄の古層の文化に根差すため、シマ社会の構造を根強くもっているエイサーとなっています。

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