講座工房サンジチャー

講座工房サンジチャーは、講義や講座の経験から生まれた工房です。わたしひとりのではなく、…

講座工房サンジチャー

講座工房サンジチャーは、講義や講座の経験から生まれた工房です。わたしひとりのではなく、わたしたちのでつくられる何か生み出せられたらと考えています。

マガジン

  • 南波照間通信

    南波照間島は架空の島です。南波照間通信は1985年、1993年、1995年、1996年に発行した家族のミニコミです。4号で終わっています。断捨離せずに残っていたので、デジタル化してみました。 :::::::::: 波照間というのは「果てのうるま(島)」とされている。南波照間はその果ての島のさらに南にあるとされた幻の島。過酷な人頭税の時代、南波照間を目指して漕ぎ去った人々がいたという。

最近の記事

ストップ!下流化する日本社会とシマ社会の消滅

    • シマ社会を開く

      シマ社会を開く 共同店、公民館、祭りはコモンズを形成する 1. シマ社会の基本構造シマ社会というのは沖縄における自然村*をいう。日本におけるムラも自然村で、ユイとユイマール、頼母子講と模合などのように、シマとムラはとてもよく似た社会構造を持っている。 シマとムラが決定的に異なるのは、ムラと比べてシマが、 ①広域の宗教的ネットワークに組み込まれていなかった ②近代以前には土地の私的所有権が確立されていなかった という点にある。この違いが沖縄の社会を理解するためのキ

      • 南波照間通信 No.4 1996. 9.16.

        すべてが終わり、すべてが始まった具志堅 邦子 すべてが終わり、すべてが始まった。 ただいま、私はワーカホリックです。「仕事」が、わたしのアイデンティティになっています。「すべてが終わり、そして、始まった」私は、何処に行こうとしているのだろうか。こんな問いなんて、二十代で処理しておきべきことだはずなのに。今頃、どかんときてしまったものだから、混乱しています。 三月まで私の「仕事」だった高校教師のことが、どっかにふっとんでしまいました。前回の流れからすると、「邦子のハイス

        • 南波照間通信 No.3 1995.8.29.

          邦子のハイスクール放浪記①具志堅 邦子 残暑お見舞い申し上げます。と、同時にほんとに長い間ご無沙汰しています。『南波照間通信第3号』です。又の名は『はるかなくにの風便り』といいます。ごたごたしていますが、実は第1号は、一九八五年、第2号は一九九三年の発行の家族通信なのです。 前回はいつだったっけと第2号を読みなおして、ヒエー(心の叫び声)、わたしはあの、続きを書かなければと思うと、気が遠くなってしまっています。まだ、二年しか経っていないのに…。あの時の精神状態から、まるで

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        • 南波照間通信
          4本

        記事

          南波照間通信 No.2 1993.1.5.

          九三年はじめに はじめて 邦子は 家族 しはじめた 九二年は、”中古文学”にどっぷり嵌まってしまって、気がついたら、十二単を着ていた〜というのはウソですが…… 平成時代に平安時代をヨンでいると、つまらないモラルとか価値観などがふっとび、この世のはかなさにまださすらう我が身の愚かさを恥じ、入水しようケツイし、宮古島・池間島・伊良部島・多良間島・石垣島と幼い娘を道連れに八泊九日の島流れの旅をしたのですが、あまりの海の美しさに、投げ出す身の贅肉が環境汚染しそうで、思い止どまり、

          南波照間通信 No.2 1993.1.5.

          南波照間通信 No.1 1985.12.7.

          畑のはなし——①オオゴマダラ(新聞蝶)に誘われて ほとんど偶然に私の父が畑を買うことになった。その父のメモの中に「運天寺原(うんてんてらばる)三八〇番地、二十六坪」というのがあった。私が冗談に「二十六坪くらいなら私たちが週末に遊ぶにはいい。 それくらいの土地の広さを楽しんで所有してみたい」と言ったのが事の始まりである。 現場は、源為朝が「運を天にまかす」 と言って流れついたという伝説をもつ寺窟(テラガマ)のそばである。琉球松の雑木林があり、そこを二・三十メートル程奥に入

          南波照間通信 No.1 1985.12.7.

          エイサーにおける沖縄らしさ

          1. 伴奏楽器だった太鼓が踊り出した締太鼓型エイサーエイサーというと、テレビや新聞、雑誌などのマスメディアでは、大太鼓や締太鼓を勇壮に打ち鳴らす姿が好んで描かれます。そのため大太鼓や締め太鼓を激しく打ち鳴らすエイサーが、エイサーらしいエイサーとしてイメージされることが多いのではないでしょうか。 しかし、このようなエイサーは締太鼓型エイサーとでも名づけられるもので、かつてはそれほど一般的なものではありませんでした。 エイサーの古い形は念仏エイサーであり、それが明治・大正

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          エイサーにおける沖縄らしさ

          パーランクー型エイサーの謎

          はじめにパーランクー型エイサーは見る者に深い感動を与えます。その感動は、静と動のコントラストとそれを包み込むヴァイオレンスの激しさによるものでしょう。それは青年たちの厳しい抑制と荒々しいエネルギーのなかで調和させています。 青年たちは肉体の極限までを静かに耐え抜きます。これはシマにおける成人への通過儀礼ではないでしょうか。通過儀礼の過酷さと厳しい抑制のなかに、シマ社会の人びとがつくりだした美学が込められているようにおもわれます。いったい誰がこのような構成を創り出したのでしょ

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          パーランクー型エイサーの謎

          チネーまわりとモーアシビエイサー

          念仏エイサーとモーアシビが融合しエイサーが誕生する                       1. はじめにエイサーの祖形はアンニャたちがもたらした似せ念仏でした。似せ念仏は喧嘩口論が絶えず、衣装も頭巾や帯には絹を使い、絵入りの派手な衣装を着けていました。覆面して門に立ち、指笛を吹いて歌三味線をし、〈異風之躰〉で道路を徘徊し、人の家に押し入るとして取り締まりの対象になっていました。 これは18世紀半ばの行政記録(1733年、及び1758、59年)に残されているものです

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          チネーまわりとモーアシビエイサー

          チョンダラーとは何者なのか

          1. はじめにエイサーの祖形は「似せ(にーせー)念仏」であるとされています。似せ念仏の「似せ」はニーセー(若衆)のことで、「念仏」は仏教的な唱える念仏ではなく芸能としての念仏踊(ねんぶつおどり)をいうものです。 念仏踊は念仏や和讃(わさん)を唱えながら、鉦(かね)、太鼓、瓢(ふくべ)などをたたいて踊る民俗芸能で、踊念仏(おどりねんぶつ)ともいわれています。平安時代から始まったとされ、鎌倉時代になって、諸国を遊行(ゆぎょう)し踊念仏を広める芸能集団が現われ、民衆に広まります。

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