見出し画像

ありがとうの儀式。

いつだか、あらゆるものを捨てたいnoteを書いた。
その中からとりあえずできそうなところ、フライパンやら溜まっていたダンボールやら、あとオーブントースターも回収を申し込んだ。

参道家では、今まで使っていたものを有機・無機にかかわらず経年により手放すことを「ありがとうする」と言う。
幼少からそう教わってきて特に疑問もなく今に至るが、生きる上で必然とも言える第三者視点から振り返る時、とてもいいなあと我が家ながら思うのである。

先日、フライパンをありがとうした。
母から譲られた少し深めの黄色の、自分では買わない色の、片手フライパン。
マグロのアラを煮付け、ぎりぎりの水深でゆで卵を作り、そら豆を茹で、あるいは冷凍餃子スープを成し。

愛着のあるものを手放す時、どうしたって一抹の寂しさと手放したくなさがよぎるけれど、そのためらいに踏ん切りをつけるいい言葉だ。
ありがとう、と言いながら袋の中にそっと安置する。そっと口を縛る。
実家ではそこまでしないが、私はそのあと袋ごと抱きしめるまでが一連の儀式である。
例えば穴の空いた靴下であれば、袋ごと抱きしめられはしないので、二枚ひと揃えにしてそっと両手で包み、胸に抱いてありがとうと言ってからゴミ袋へ入れる。

ありがとうの儀式。

多分、何かで記憶を一式まるっと失うまで、己の生活の中にこの儀式は根付いて、続いて、機会があれば伝わっていく。
持つものが増えすぎると脳みその容量が足りなくなって、定期的に何かしら比較的大きなものを捨てなければいけないから、この習慣を根付かせてくれた実家には感謝である。

たとえ物理的なものを入れ替える時ではなくても、学ばなくてはならない新しい価値観や概念に触れた時にも、それを受け入れる時にも通用する、柔らかく強い言葉だ。

今までこの考え方を与えてくれてありがとう。
それに触れた時の、あの新鮮な気持ちを与えてくれてありがとう。

魂に降り積もる、今の今まで培ってきたなにか。
変化はどうしたって必要だけれど、全部を捨てていく必要はなくて、たとえ必要があったとしても、最後はありがとうって言いたい。
たとえ自己の中で完結する、単純な儀式であっても。

ビニール包装紙とか日常的に出る紙ゴミなんかには、この愛着がないので完全無比ではないけれど、そんな必要もないと思っているので。
不完全なまま、寂しさの隙間を埋めるための、ありがとうの儀式の話です。

いただいたサポートは、まとまった金額になり次第、宗谷募金へ流し込みに行きます。ありがとうございます、推しが潤います。