「汀(みぎわ)にて」(元にした作品:大手拓次 蛇の花嫁 より ほのあをき貝)

  ほのあをき貝
ほのあをき貝をもて
わがただよへる心を をさめよ
らうたけし ほのあをき貝をもて
わがかなしみを をさめよ

大手拓次 ほのあをき貝


「忘れ貝を知っていますか」
「さあ」
「悲しいことを忘れるそうです」
「本当にあるの」
「僕の手の中に」
「何を忘れたいの」
「いいえ、これはあなたへ」
「わたし?」
「僕を忘れてください」

 をんなの髪はかぜに靡いて男を絡めとる。
 お願いだから離して欲しいと男は泣く。
「忘れてください。忘れてください。僕はあなたを幸せに出来ないから」
 髪はますます縛り上げる
 ご存じだろうか、をんなの髪ほど頑丈な鎖のないことを
 
「お金がないから?地位がないから?それとも醜いからかしら」
 をんなはわらいながら訊く
 実に愉しそうに
 男を揶揄う以上の愉悦がこの世にあるものかと。
 男はぼろぼろと泣いているのに
「そんなもの飲み込んでしまいなさい」
 をんなは男の唇をきつく塞いだ
 男はゴクリと何かを飲み込んだ
 をんなは晴れやかに微笑う
 
「さ、気が済んだ?あなたは毎日泣き言をいうのねぇ。裸ん坊でいいのよ。身ひとつでいらっしゃい。どうにでもなるの。正体なんてなぁんにもないのよ、人間には」
 男はぽかんと惚けた口を開けて蒼い息を吐いた。
 をんなは砂浜を歩き始める
 男はぽつぽつとついてゆく
 哀しみの足跡は波に紛れて
 何処か遠くへ流されていった

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