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映画『東京2020オリンピック SIDE:B』レビュー

【B面とは東京オリンピックを見て撮り切って歌った河瀬直美総監督だ】

 A面が選手なら、B面は裏方だというのが普通一般の考え方だとしたら、クリエイターの思考はそれを軽々と超越し、易々と裏切ってとてつもないところへと着地させる。

 2021年に行われた東京オリンピックを公式に記録した河瀬直美総監督によるドキュメンタリー映画『東京2020オリンピック SIDE:B』のことだ。

 いや、ドキュメンタリー映画とこの作品を定義すること自体が、普通一般の考えに囚われていることかもしれない。なぜなら『東京2020オリンピック SIDE:B』がB面としてとらえて描いていたのは、東京オリンピックというもの全体を客観的に俯瞰する視線とは正反対の、東京オリンピックというものを記録する映画監督として撮影し、インタビューし、編集して音もつけて作品として世に送り出した河瀬直美総監督、その人だからだ。

 『東京2020オリンピック SIDE:A』は、東京へと来てオリンピックに参加したアスリートたちが、どのような思いを持ってオリンピックと向き合い、実際に参加してどのような競技を見せたかを追い続けた。そんな選手たちを見守るコーチや、東京オリンピック・パラリンピック大会組織委員会なり日本オリンピック委員会なりといった組織を引っ張る人たちを中心に取り上げ、オリンピックファミリーといったものの像を浮かび上がらせた。

 『東京2020オリンピック SIDE:B』はだから、そうした選手を支えるボランティアであり、選手村で接遇にあたる人たちであり、反対活動に取り組む市民でありといった周辺を主に取り上げるものと思われていた。たしかにそういった部分はあった。けれども、『東京2020オリンピック SIDE:A』と同じ様に、南スーダンから来た選手たちが前橋市に早くから入り、どのような練習に取り組んで来たかを追い、バドミントンが盛んな福島県でアスリートを支えた先生の思いを伝え、大学でひとりで練習に励む水泳の選手とコーチの心情を浮かび上がらせてもいた。

 東京オリンピック・パラリンピック大会組織委員会の森喜朗会長が、舌禍を理由に退任へと追い込まれた件を追った映像も、国際オリンピック委員会のバッハ会長が、東京都庁を訪れた際、拡声器で叫ぶ反対派の1人に叫ばないで言いたいことを言ってくれと語りかけ、反対派がそれに応じず叫び続ける場面を追いかけた映像も、東京オリンピック全体を俯瞰するA面と同様と言えば言える。違っているのは、そうした俯瞰的な視線を細かく切り取って、そこに河瀬直美総監督ならではの“ストーリー”を作ろうとしているように見えたところだ。

 東京オリンピック・パラリンピック大会組織委員会の森喜朗会長も、武藤敏郎事務総長も、日本オリンピック委員会の山下泰裕会長も、開会式と閉会式の総合統括を任された狂言師の野村萬斎も、後を引き継ぐことになってそして途中で降板したCMディレクターの佐々木宏も、開会式で演技を見せた歌舞伎役者の市川海老蔵も、歴史学者のエマニュエル・トッドも、あの天才的IT大臣として知られるオードリー・タンですらも発言は細かく切り刻まれて一部だけが抜き取られ、全体の流れを構成するパーツとして使われている。

 そうやって構成された映像は、例えば野村萬斎と佐々木宏が並んで会見した場面では、一家言を持つクリエイターばかりだった演出家たちの個性をあからさまに非難し、CMは文化や芸術に劣らないといった具合にCM界出身であることを誇らしげに語る佐々木宏の言葉に、実に癒やそうな表情を見せる野村萬斎の映像を重ねてみせた。実際にそういった非難の心情が野村萬斎にあったのだとしても、言葉を選び映像を並べることによって河瀬直美総監督が抱いている心情を、そこに乗せたのだとも見て取れる。

 インタビューの途中に聞こえてくる質問者らしい女性の声が河瀬直美総監督のものだとするなら、それがほとんど聞かれなかった『東京2020オリンピック SIDE:A』とは違って、あまりにも分量が多いように感じられたのも、何かの主張だったと見るべきだろう。

 自分が撮影に携わって自分が話しを引きだし、自分が構成して自分が流れを作ったのだという主張。ラストに国立競技場内にあったように映されていたデジタル時計を一気に100年分進め、未来の子供たちに東京オリンピックの思い出を聞いたという体でソフトボールが金をとった、女子バスケットボールが銀をとったといった記録を語らせ、それくらいしか伝えられていないような雰囲気を醸し出そうとした作為。すべてが河瀬直美総監督の色に染められていた。

 極めつけが、エンディングに流れた河瀬直美監督による作詞と作曲がなされた「Whispers of time」という楽曲だ。その歌声が、『東京2020オリンピック SIDE:B』の端々に、インタビュアーとして聞かれた声と同じものだとするならば、河瀬直美総監督による歌唱といった可能性も浮上する。当初は『東京2020オリンピック SIDE:A』と同じ藤井風による楽曲が使われる予定だったものを取りやめて、違う楽曲を使ったところに何か作為があった結果がそれならば、自ずと作為のベクトルも見えてくる。

 河瀬直美総監督。それが『東京2020オリンピック SIDE:B』が描くB面のすべてだ。河瀬直美総監督が東京オリンピックをどのように俯瞰したかを見せた映像がA面なら、東京オリンピックを俯瞰する河瀬直美監督を見せた映像がB面なのだ。

 オリンピックを取材する河瀬直美総監督。オリンピックを考える河瀬直美総監督。オリンピックを伝える河瀬直美総監督。そしてオリンピックを歌う河瀬直美総監督をとらえ、映し出した映画として『東京2020オリンピック SIDE:B』は存在した。それを国際オリンピック委員会からの依頼を受け、堂々と作り出してしまえる凄みは、ベルリン五輪を映画にしたレニ・リーフェンシュタールも、1964年の東京オリンピックで映画を撮った市川崑も持ち得なかったものだ。

 そこに対する嫌悪はない。あるとしたら、東京オリンピックの開会式に演出家として招かれ、そして降ろされた振り付け家のMIKIKOが映画の中で語っていた、何もないという言葉そのままの虚無感か。どれほどの時間と資金をかけ、それほどの虚無感を作り出した映像作家の未来に、贈る言葉も無言、それだけだ。(タニグチリウイチ)

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