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映画『ハウス・オブ・グッチ』レビュー

【パトリツィアは何のためにマウリツィオを殺めたのか?】

 仕立ての良いヘリンボーンのツイードジャケットを羽織った男がカフェから立ち上がり、自転車に乗ってどこかへと向かう。ついた先で自転車を門衛に預けて建物の中に入ろうとしたところで誰かに呼び止められる。

 リドリー・スコット監督の映画『ハウス・オブ・グッチ』の冒頭に流れるこのシーンから浮かぶさまざまなズレがグッチというブランドに起こった紆余曲折であり、その渦中にあったマウリツィオ・グッチという人物の毀誉褒貶ぶりをうかがわせる。

 門衛が何も聞かずに自転車を預かるのなら、男は結構な地位にある人物だということだ。ヘリンボーンジャケットの仕立ての良さが、そうした身分を裏打ちする。だったらどうしてフェラーリやランボルギーニといった高給車ではなく自転車に乗っていたのか。明るいうちから秘書も付けずに一人でカフェで寛いでいたのか。そんな想像が冒頭のシーンからだけでも浮かぶ。

 エグゼクティブでありながらも空虚な存在。金持ちでありながら社会的な落伍者。世界的ブランドのグッチを創設したグッチオ・グッチの孫でありながら、落剥の身となっていくマウリツィオの生涯が、そこから繰り広げられる『ハウス・オブ・グッチ』という映画の中に描かれていく。

 主役となるのはマウリツィオではなく、彼を誘惑して結婚し一時のグッチに君臨した“女帝”のパトリツィア・レッジアーニという女性だ。父親が経営するダンプカーやトラックを使う運送会社で働きながら、夜は盛り場に出て男性を物色していた時に、あまり場に馴染んでいなさそうな青年を見かけた。

 それがマウリツィオ。グッチオ・グッチの息子として生まれた兄弟のうち、弟のアルド・グッチの一人息子として育ったが、父親の後を継いでブランドをもり立てる気持ちはなく、弁護士を目指して勉強していた。そのマウリツィオに近づいたパトリツィアは彼との結婚を画策する。

 もっとも、マウリツィオの父はパトリツィアを認めず伯父のロドルフォからも彼女は金目当てだと言われたマウリツィオは家を出て、パトリツィアの父親の会社で働き始める。屈強な男たちに混じって車体を洗い、昼休みにはラグビーに興じる庶民ぶりがマウリツィオの人の良さを感じさせる。やがて子も出来て幸せな家庭が築き上げれようとしていた時、アルドが亡くなりマウリツィオは跡継ぎとならざるを得なくなる。

 そこにパトリツィアが介入して物語が大きく動き始める。

 印象ではレディー・ガガ演じるパトリツィアはただ金だけが目当てでマウリツィオに近づき、結婚を迫り子を得た挙げ句にマウリツィオをそそのかし、伯父のロドルフォに取り入って経営の中枢へと入り込んだように見られている。たしかにマウリツィオとともにグッチへと入ったパトリツィアは豪勢なファッションをまとい、豪華な家に住んで何不自由な暮らしをするようになる。

 けれどもただ強欲なだけだったのか。グッチオ・グッチが生み出しロドルフォとアルドが育てたグッチというブランドの価値を信じ、よりもり立てようとしただけではなかったのか。後にパトリツィアはマウリツィオの殺害をマフィアに依頼し、実行させた罪を問われて有罪となり刑務所に収監される。映画ではその理由が、パトリツィアの他に女性を好きになったマウリツィオに腹を立て、愛していると散々言っても聞き入れられないことから、転じて憎しみを燃やし殺害したような雰囲気で描かれている。

 どうして愛しているのに殺すのか。よりを戻したいのなら殺すのは浮気相手の方ではないのか。そこが少し引っかかった激情が怒りをよんで場当たりに暗殺を依頼してしまったといった解釈ができない訳ではないが、それでもやはり愛情が高じ過ぎての憎しみと捉えるのは難しかった。だからパトリツィアを上昇志向の権化であり、ブランドの崇拝者として描ききってそのためにマウリツィオと付き合い、グッチというブランドを手に入れたのに奪われたこと、そしてマウリツィオがあっさりと失ってしまった憤ったとして欲しかった。

 それくらいブランドとは価値があるものだと思わせて欲しかった。

 マウリツィオはパトリツィアを別れたあと、ランボルギーニのような高級車を買いあさる一方、経営には凡庸でグッチの経営を傾かせた果てにアラブ資本に株を売り飛ばす。アメリカ人のトム・フォードをデザイナーとして迎え入れて新しい時流に乗る道は作ったものの、建て直しには至らずグッチはグッチ家の手を離れ、今はルイ・ヴィトンなどと同じグループの所属するブランドのひとつとして、世界にその名を響かせている。

 ブランドは永遠であり、人は名も残らないというこの命題を、冒頭でのブランドを失ったマウリツィオの落剥ぶりから、呼び止められて打たれる帰結までを描くことで感じさせる映画、それが『ハウス・オブ・グッチ』だ。

 役者では、マウリツィオを演じたアダム・ドライバーが好青年からにわか実業家となり放蕩の果てにすべてを失うまでを演じきって、あらためてその高い演技力を見せてくれた。厳格なアルドを演じたアル・パチーノに、家業をのばすためなら日本語も覚えるロドルフォを演じたジェレミー・アイアンズも良かったが、最高はやはりジャレッド・レノ。パオロ・グッチというハゲで太った無能がまさかジャレッド・レノだったとは、後から聞いても信じられない変貌ぶりを見せてくれた。

 そしてレディー・ガガ。肉体と表情を駆使してマウリツィオに近づく妖艶さから妻として夫を支え事業を伸ばそうとする強さから母親として娘を護ろうとする健気さまでを全身で演じてのけた。歌姫でありながら歌を封じて演技に努めてもしっかりとこなすところがアメリカのエンターテイナーの凄さというものなのかもしれない。(タニグチリウイチ)

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