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パイサーン師タンマヤートラでの説法~「私のもの」ではないからこそ、大切にする~


今年12月1日~8日まで

東北タイのチャイヤプーム県内で行われた

タンマヤートラ(法の巡礼)で

パイサーン師がお話しされた説法が

ネットにアップされましたので

少しずつ翻訳していきます。

今日は6日目の夕べにお話しされた

説法から抜粋してお届けします。

テーマは

「『私のもの』ではないからこそ、大切にする」

です。

この日は、パイサーン師のもうひとつの拠点である

森の寺、マハーワン寺に到着しました。

実はこのマハーワン寺は

タンマヤートラとすごく深い関係にあるのです。

そして提唱された

カムキエン師についてのお話もしてくださっています。

法を学び実践することと

森を守ること。

そのつながりを感じさせてくれる説法です。

。。。。。。。。。。
(2017年12月06日 夕べの読経後の説法より抜粋)

みなさま、ようこそマハーワン寺へ(笑)


この森の寺、マハーワン寺は

タンマヤートラととても深い関係にあります。


18年前、第一回目のタンマヤートラは

ここからスタートしました。


そしてその後も、ある年はタンマヤートラの出発地点だったり

ある年は最終地点だったりして、

よくこの寺を活用しています。


18年前は、この小さなサーラー(お経をあげる本堂のような場所)

しかありませんでした。参加者も少なかったですから

ここで皆集まっておりましたね。


しかし年々参加者が増え、今年はサーラーにも入りきれず

こうして外にゴザを敷いてお経をあげることになりました。


このマハーワン寺の多くの部分が、森です。


森がマハーワン寺の主役なのです。

私たち僧侶やメーチー、在家の方たちなど

修行者である人間は脇役です。

この森の寺に仮住まいをさせてもらっているにすぎません。


主は、森であり、森に生きる動植物の皆さんです。


マハーワン寺も、タンマヤートラを提唱されたカムキエン師が

とても大切にされた場所です。


カムキエン師自身、ご自分の人生のことを振り返って

こうおっしゃっていました。


「私の人生は大きく分けて2つのことを大切にしてきました。

 一つは、「法の修行」であり、

 もう一つは「森を守ること」です。

 そしてこの2つのことは切り離せるものではありません」 と。


カムキエン師が修行を通してみた法。

それは「人」に対するものだけではありませんでした。


法を観ることで、自然が観えてきたのです。


カムキエン師自身、僧侶になる前は

一人の農民でした。

ですから、当時は何の疑問も持たず木を切ったり

森からの恩恵を受けることしか感じられていませんでした。


しかし、法を学び出家をして修行に専念されるにつれて

法=自然の大切さを認識させられたのでした。


もちろん自然だけではなく、その当時

貧しさで苦しむ村人たちの支えとなるべく

寺で幼稚園を始めて子供たちの教育にも従事されました。


カムキエン師の慈悲の気持ちと行動は、

法を学ばれる中でさらに強く磨かれていきました。


法を学べば学ぶほど、真理を知り、自然の大切さを知る。

真理、それは「私のものではない」ということ知ることです。


「私のもの」など、一つとしてありはしないのです。


体も、私のものではありません。

子供も、私のものではありません。

親も、私ものもではありません。


ではなぜ私たちはそれらと関わっていくのでしょうか?


仏教に馴染みのない西洋人の方から、よく

「すべてのものは私のものではない。手放せ、と

 仏教ではよく言うけれど、じゃあなぜ森を守る運動なんて

 するのですか?」

と聞かれることがあります。

森も私のもの、ではないのでしょう? と。

なぜ私のものでもないものを守る活動をするのですか?、とね。

自分のものではないはずの、体や子供や親を大切にせよ、ともいう。

矛盾していますよ、と彼らは話されることがあります。


しかし、手放す、というのは心の執着のことです。

なすべき役割を手放すのではありません。


仏教では心のことだけを教えているのではありません。

なすべきこと、についても教えていますよ。


良きことをなし、悪しきことをしない。

自分と他者を圧迫させるような行いをしないこと。

自分の身の行い、口の行い、意の行いを整えることが大切です。


これは基本中の基本なのです。

そして他者の慈しみ、苦しみを減らす働きをしていく。


心は執着を手放しながら、実際の実践はしっかりと行う。

これは矛盾しないのです。


自らの命を活かしてくれる身の回りのもの、環境に対して

しっかりとケアをすること。


自分の体、子供、親、そして自然もまた

自らの命を活かしてくれるものですから

心を込めて大切にしていくわけです。


「私のものだから、大切にする」のではありません。

「私のものではないから、大切にする」のです。


簡単にたとえてみましょう。

誰かからケータイを借りて、あなたが使っているとします。

ケータイはいずれ持ち主に返さなければなりません。

それをぞんざいに扱って傷をつけたり、損害を与えて返しますか?

自分のものではないからこそ、大切に扱うでしょう?


「自分のものではない」ことが

「そのものを大切にしない」ということとイコールではありません。


自分のものではないものを、ぞんざいに扱う人。

その人に対してあなたは、好感が持てますか?


自分のものではないけれど、大切に扱う人。

その人に対してはどうでしょう?


自分のものではないからこそ

責任を持って使わせてもらう。

それは矛盾しないのです。


私たちが住まわせてもらっている場所、

私たちが生きるのに必要なモノたち。


それらを丁寧に扱い、長持ちさせるように働きかける。

それはタムキット(実際の行ない)として

とても大切なことなのです。


自分の体もそうです。

自分のこの体も、「私のもの」ではありません。

しかしだからこそ適切にケアし

有益な使い方をすることが重要になってくるのです。

。。。。。。。。。。

浦崎感想

「私のもの」などない。

これは、無我の真理を現した言葉ですが

日常生活でついつい忘れがちになってしまいます。


仮なるものを活用させてもらいながら、

私たちは今ある命を生きているのですよね。

それを知らず知らずに

「これは私のもの!!」

と我が生じると、途端に苦しみが生じてしまいます。


私のもの、ではないけれど大切にするという姿勢。


私は最近、日本に一時帰国すると

レンタカーをよく借りるようになったのですが

明らかにレンタカーを運転している方が

車を大切にしよう、という意識が働きます(笑)


もちろん傷をつけたら、お金を払わなくちゃ、、

というプレッシャーがあるからかもしれませんけれど

自分のものだと思うと、

「ちょっとぞんざいに扱っても、大丈夫だろう。。」

と心の甘えが出てきてしまいますね。

自分のものと思うと、新しく買ったばかりの頃は大切にしても

長らく使っているとだんだん雑になってきてしまう。。


私たちは「これは、私のものではない」

と心が定まっている時の方が、

適切で持続的な関係性が保てるような気がします。


カムキエン師も、パイサーン師も

別に「私の森」だから、

森を守る運動をされているわけではないのですよね。

誰のものでもない命を、今ここで大切にする責任がある。

法を学んでいくと、

おのずとそういう心持ちが生じて来られるのだなあ、と

素敵な先人の姿に学ばせてもらっています。


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