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その価値観はどこからきたのか?~能登半島地震に思うこと

腹が立っている。

このnoteも書くのにそうとう時間がかかっている。
簡単に書けるものではなかった。
書いたからといってどうなるわけでも満足するわけでもないけれど、自分のために記しておこうと思って書いている。


お正月に起きた能登半島地震。
わたしは正月早々、原因不明の体調不良で、
起きてから気分が悪く、楽しみにしていたお父さんお手製のお雑煮も食べられなかった。
家族で歩いてお墓参りと初詣に行くのもやっとでなんとか自宅に帰り、一人テレビの部屋で横になっていた。

午後4時6分、緊急地震速報が流れてテレビが珠洲市の映像に切り替わる。
津波の心配はありません、というアナウンスに少し安堵したのも束の間、
すぐまた緊急地震速報が鳴り響き、直後に強い揺れの映像とともに家屋が土煙を上げて崩れるのを見た。
そして「津波警報です!今すぐ逃げてください!」という強いアナウンスが始まった。

東日本大震災の記憶が蘇った人がたくさんいたと思う。
あのときもなす術なく、わたしはテレビを観ていた。

体調が悪いのもあって眠れなくて、一日中テレビをつけていた。
少し寝てはまた目が覚めて、またテレビやツイッターを見ていた。
横になりながら、今、避難しろと言われてもしんどくてすぐに動けないな・・・と思った。
シン・ゴジラでもあったセリフ、
「避難とは、住民に生活を根こそぎ捨てさせることだ」
にめちゃくちゃ共感する。


わたしは能登半島には行ったことがない。
地形的な物理的困難、主要道路の崩壊で支援がむずかしい、
テレビではそう連呼していた。
でもわたしたちの住む愛媛県でもそれは同じだ。
伊方原発があるのは佐田岬半島の根元あたりだ。
伊方原発の近くには、中央構造線活断層が通っている。
原発推進派の中には「活断層はない、よって問題がない」と言っている人もいる。珠洲市の原発誘致で過去に起きていたことと同じだ。

志賀原発はほんとうに大丈夫なんだろうか。

原発があることや、半島の道路が寸断されたことも想定して、佐田岬半島に住むかたの避難計画はフェリーで九州へ行くというのもある。
これにいつも疑問をもっていた。
津波警報が出たらフェリーは使用できるのか?
そもそも港はつかえるのか?

原発から30㎞圏内のわたしたちの町でも、原発リスクがある際の避難計画はほかの市町への移動なのだけれど、道路が寸断されたらその計画はどうなるのか?
何もかも壊れてしまったとき、住民に情報は正確に伝わるのか?
通信インフラが切断されたときはどうなるのか?
想定していた計画が破綻したとき、情報は正確に開示されるだろうか?
不安を煽らないため、パニックを回避するためという目的で、隠されることはないのだろうか?

「ボランティアは今は来ないでください」ってやつも、
日本全国、これだけ大規模災害が毎年起きている中で、
復旧復興支援がボランティア頼りなのをいい加減やめてほしい。
国はきちんと対価を払う仕事として人を動員してほしいし、そのしくみづくりをいい加減やったほうがいいのでは?とずっと言っている。
それプラス、ボランティアにしかできない活動というものがあると思うので、それは大いにやってもらったらいいのではないか。

ボランティアに対しての自己責任論もすごくしんどい。
2018年の西日本豪雨の際、わたしたちのまちが被災して、ひどい被災地にボランティアで入らせてもらった。わたしはそこの隣町に住んでいて、被災程度も軽くて水も出たから、帰ったらお風呂に入れて不自由なかったけれど、遠くから来てくれたボランティアの人たちには本当に頭が下がる思いだった。
泥出しをしていたらおっちゃんが缶ジュースをくれて、ありがたく受けとったことをFacebookに書いたらめちゃくちゃ批判された。
だけどあの場面で、あのおっちゃんから、あの缶ジュースを受けとらない選択肢はわたしにはなかった。


また、能登半島の地域が過疎であり、高齢化が進んでいるということで、
復興は金のムダだとか、都市部に移住すべきだとかいう意見が、
発災後2週間も経たないうちに聞かれるようになった。
わたしは、これに一番腹が立っているのだ。
なぜか。

そもそもなぜ地方は過疎化するのか


地方は過疎化して当たり前、と思っていないだろうか?
なぜそう思うのか、その「当たり前」という感覚の根拠は何だろうか。

地方への眼差しについては前にも少し触れている

もちろん人口減少という自然減の問題はあるけれど、そうじゃない原因についてここでは考えてみたい。

わたしは、国が東京一極集中を改善できないことにあると考えている。

本気でこの「東京一極集中」「地方の過疎化」を国の危機と思えば、対策はいくらでもある。
例えば、農業・漁業・林業などの第一次産業の抜本的改革である。
農業などに対して、補助金が多いというイメージを持っている人は多いだろうが、日本は農業所得の補助率は30~40%程度だと言われている。ヨーロッパは90%を越える国もあるし、あのアメリカでさえ約50%の補助率である。
なぜか。
農業を、食糧の生産という国の基幹産業と捉えているからだ。
国民が飢えては国は成り立たない。日本は先の大戦に負けて、それを思い知っているはずだ。輸入に大きく頼る食糧自給率の低い日本にとって、農業者の支援は必須の課題なのだ。だけれど後継者不足問題一つとっても、真剣に取り組んでいるとは思えない。
何も補助金を上げてくれ、それだけがいい改革だと思っているわけではない。
補助金制度は、結局のところ大規模農家ばかりに手厚く、小さい規模の農業者には措置がないという結果を招くことが多い。それは小規模農家がいなくなってしまうことにつながり、この現実は非常によくないとわたしは考えている。補助金だけではなく、生産物に対しては正当な買い取り価格・販売価格が必要だ。物価が高騰する中、米の価格はほとんど上がっていない。食べものは「安ければいい」のループに入って抜け出せていないままのではないか。
それを下支えしているものは何だろうか。

また、第一次産業は環境面でも大切な産業だ。
田んぼは水量の調整も兼ねているし、林業は山の保全の意味も持つ。
漁業も気候変動を肌で感じる仕事だろう。
人間にできることは「採る」「捕る」だけではなく、
次の「採る」「捕る」のために「育てる」「守る」の観点からの行動も必要だ。
第一次産業はそれをおしえてくれる仕事だ。
そこに対しての国の財政出動はそうとう必要だと思う。

第一次産業が「食べていける職業」になり、従事したいと思う人が増えれば、それは地方に人口が増えることを意味するだろう。

また、わたしも農作業に従事する中で、
田んぼの畦や石垣を直したり、水路を補修したりする行程を経験して、
土木のすごさ・その必要性を痛感した。
土木に従事する人を増やすのも喫緊の課題だ。
重機を扱える人を増やすための支援策やバックアップ、土木に対してのイメージアップなども、国策としてできることは山ほどあるはずだ。

さらに、介護や医療、保育や教育など、地域を選ばず絶対に必要な仕事の基本給を上げることで、地方であろうとなかろうと、安定した暮らしが期待できる人が増えるはずだ。
わたしたちはコロナを経て、これらの仕事の重要性を思い知ったはず。
それなのに一時的な給与アップやわずかなベースアップしか行われていない。
一方ITや広告関連などは成長産業と位置付けられて高い給料が叶い、良いイメージがたくさんの人の中にあるのではないか。
電気が止まったら、通信が止まったらできない仕事の方を崇めて、
食べものをつくる人、鉄塔を建てる仕事の人がいないなんて、ちゃんちゃらおかしいのではないか。

これらはすべて、国が無策だったせいだとわたしは思っている。
農業が食べていける仕事だったら?
介護や保育が月40~50万もらえる仕事だったら?
地域医療がきちんと守られていたら?
土木の仕事の地位や保障が充実していたら?
地方に残る人・地方で暮らす人は自然と増えていくのではないか。

人が増えれば、今地方が抱えている問題の中で、解決することがたくさんある。
人がいない、金がない、という理由で、必要なことまで削られ、奪われている。わたしたち地方のまちの切実な問題だ。

地方の多くの人やまちは、贅沢せず、あるもので暮らし、節電やリサイクルに励み、助け合って暮らしているのに、
都会から押しつけられた発電所が壊れれば住めなくなり、
ゴミの埋め立てを強要され、
山を崩して風車やメガソーラーが建てられる。
それらを引き受けるのは、自活できずに都会のお荷物になっているという植え付けられた劣等感と、金だ。

人間同士の交流で考えたら最悪だ。
そんな友だちいらんだろ。

地方でつくられた電気で生活し、
地方で育ったり捕ったりしたものを食べ、
地方の文化の民芸を利用・使用している都会の人が声高に言う。
「過疎の地域なんて復興してもムダだよ」

田舎は人間関係が濃いからしんどい、都会はつながりが希薄だから楽に生きられるとかいう言説も大嫌いだ。
確かに田舎は助け合って生活しなければならないことがたくさんある。
共助の役割を強く求められる。
公の予算が切られ、施策が収縮し、助け合わないと成り立たないからだ。
だけど田舎にだって、人付き合いがしんどいけど都会には出られない人はいる。
逆に都会にだって、もっと人とつながって生きたいなあと思っている人はいるだろう。
人が増えれば・人が減れば、自分の生きたいように生きられることだってできるのに。
なーーーーーんにもしてない。
それがこの国の姿勢だ。
移住定住促進事業とか、地域おこし協力隊とか、交流人口関係人口とか、
そんなんにお金つかって、ぬるいこと言ってる場合じゃないんだよマジで。

つくられた価値観で、評論家気取りで地方を論じてくれるなよ。



能登半島は行ったことないけれど、自分たちのまちと同じように暮らしている人がたくさんいるだろうと想像したとき、
自分のまわりのおっちゃんやおばちゃんの顔が浮かんでくる。
何度も何度も苦難を乗り越えてきたであろうそのおっちゃんおばちゃんたちが、今度はもう立ち上がれんかもな・・・と感じていると想像したら、やり切れない。
自然と涙が出てくるよ。
どんな困難に遭ったとしても、なんとかなる、がんばろう、と思える社会であってほしい。
社会はそれを支える存在であってほしい。
それなのに。

コスパ・コスパ言ってきた結果が、こうやって露わになる。
失ったら取り返しがつかないものが地方にはたくさんあるのに、その価値に気づきもしないで、スマホやパソコンの中にある価値観に浸かった人たちが社会をつくった結果だろう。
そしてそれを良しとしてきたわたしたちの結果だろう。

これをもろに受けるのは、また、地方に住むわたしたちだ。
住めなくなった地域には、発電所が並び、廃棄物が埋め立てられるのだろうか。
それを決めるのは都会に住む人間なのだろうか。
それとも現状の苦しさに疲れてあきらめてしまった、劣等感にまみれたわたしたちなのだろうか。











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