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なってみないとわからない、だけどそれを越えたいと願いながら

人間ってほんとに弱い生きものだ。
たとえば手の指どれか一本ケガして使えなくなってはじめて、毎日の生活の中での手の指の活躍を知る。
普段はその恩恵・ありがたさに気づけない。

だからだれかの不便さとか苦しさとか、自分が経験したことのないものは、ほんとうにはわからない。

自分がなってみないとわからないのだ。

でも全部を経験することなんてできない。
しなくてもいい。

だからって、
わからないことイコール自分とは関係ないこと、として生きていくのはちがう気がする。
人間は弱い生きものだからこそ、
分かち合いながら生きていく生きものなんじゃないかなあ。
だからわたしたちには「考える」「想像する」ということができる力があるんじゃないかなあ。

よく「相手の気持ちになって考えましょう」と小学校のときに言われた。
それがほんとうにできたらめちゃくちゃいい。
でもきっとできない。
その人になることはできないし、その人のきもちはその人のものだから。

その人がどう思うか、ほんとうのところは聞かないとわからないだろう。
聞いてもわからないかもしれない。
でもその人が自分のきもちを話したいかどうかも実はわからない。
わたしが知りたいからといって聞いていいかもわからない。

それくらい、人って複雑だと思う。

今のを読んで、「めんどくせー」と思った?
でもそれって自分の中にもあるよね。
結局自分もめんどくさいんだから人だってめんどくさいよね。
だからめんどくさいことはぜんぜん悪いことじゃない。


わたしが結婚して3年目のとき、お義父さんが筋萎縮性側索硬化症(ALS)という病気を発症した。
自分がまだ29歳で、仕事もしていて、いろいろこれからってときに、
県の保健師さんに「奥さんは仕事を辞めて完全看護ね」って言われたとき、
最初のケアマネさんに「家族は家で看たくない様子」とケアプランに書かれたとき、
親戚に「孫でもできれば病気なんて治るんじゃないの」と言われたとき、
受け入れてくれるショートステイがぜんぜん見つからないとき、
やっと見つかったショートステイで熱が出たから帰させるって電話があったとき、
市役所で「難病の窓口は市じゃないから。保健所に行って」と言われたとき、
あのときの目の前の色が黒くなるかんじ。

だけどなによりつらかっただろうなお義父さん。
どんなに想像しても、わかるなんて言えない。

お義父さんはやさしい人で、
わたしたちに迷惑かけたくないというきもちがそのまま寿命につながってしまったような、
病気が分かってから一年も経たずにあっという間に亡くなってしまった。

わたしの場合、元配偶者が介護のプロで協力的だったし、介護の「いつ終わるかわからない」という出口の見えない苦しみも、期間が短かったので大したことはなかった。
少しの間だけど介護を経験させてもらえたことは、
自分だけの人生をえらそうに生きてきたわたしに、
お義父さんが身をもって伝えてくれたことなんじゃないか、と後になってみると思う。
後になってみると。
でもそのときはぜんぜん思えなかった。

いよいよ筋力が落ちてしまい入院して、
飲み込む力も弱くなって、ゼリーみたいに加工したお茶を口に運んでいるとき、
もう何話しているかも聞き取れなくなりつつある中で、
「熱いお茶が飲みたい。買ってきて」
と言われた。
誤嚥してしまうからだめなんよ、と言うわたしのことを睨んで、
「お茶でも紅茶でもなんでもいい、熱いのが飲みたい。どうして買ってきてくれんの。」
と言ったお義父さんの、あのときの声とあのときの顔を今も忘れることができない。
それからほんとうにしばらくして亡くなってしまった。

ああ、熱いお茶飲ませてあげたかったなあ、と今でも思いながらお茶を供えている。


わたしは手話サークルに入っていて、聴覚障害のことや手話のことも学習しながらすこし携わっている。
始めてからもう何年も経つけど、それでも聴覚に障害があるかたのほんとうのきもちをわかることができないなと思う。知れば知るほどそう思う。

でも、わかることはできなくても、わかりたい、と強く願っている。
わかりたい、と思いながらやっている。
わかりたい、と思うことも傲慢だろうとわかっているけどそれでも。


わたしは自分自身が被差別部落の出身ということで人権学習に携わることもあるんだけど、
わかろうとそばにいてくれる、被差別ではない立場の人の存在に救われてきたし、救われ続けていると実感している。
わたしのきもちが100%わかる人なんてこの世にいないだろうけど、
わかろうとしてくれる人はいる。
ほんとうにうれしいことだ。
そんな人がいてくれるからがんばることができる。


わたしの気持ちなんてわからないでしょ、
って言いたいことはこの世の中にあふれまくっているけど、
わかろうとしてくれる人は必ずいる。

言葉の通じない動物と生きることも、わたしにとってはとても大きい。

実家のくろまい 何考えているかわからない

なってみないとわからないことをわかりたいと願い、
あなたにはわからない、というその壁を越えるために、
あなたにはわからない、と言われてもあきらめずに、
気持ちを話してもいいかな、と思ってもらえる、
そんな人になりたいな。

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