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四十八文字の話『シ』 「渋沢栄一」と小栗上野介3

その時                 渋沢栄一は、全身から血が引いていくのを 感じていたでしょうね。


血洗島で仲間と武器を集め決起する寸前に、     「どう考えてもこの計画はうまくゆくはずがない」との 冷静な意見が出て中止にしましたが、         既に大量の武器を買い集めたおり、          これらの一件はいずれ全てが露見する、        身内に迷惑をかけられぬ、と血洗島を出て       バラバラに各地へ散って行った経緯があります。

その事を初対面の、それも幕府の    「おサイフ」を管理する        「勘定奉行 小栗上野介」が        すべて承知していたのですから。    


渋沢は冷や汗をかきながらも        

渋沢 「いえ…、それはもう昔の話で…」 

小栗 「何を言ってんだい❗             まだほんの一,二年前の話じゃね~のかい?」     

渋沢  「...........」


暫くして

小栗 「うん、まっ、いいや。冗談だよ。       貴殿のことは十分承知をしている。          貴殿のように志の高い人物が民部(昭武)公を     補佐してくれることは喜ばしいことだ。        一生懸命昭武公のために働いてくれ」と        笑ってその場を収めました。

そして

小栗 「自分が勘定奉行の任にある間は間違いなく   金を送るから心配するな」

ですがその後

小栗 「しかし、幕府の運命についての覚悟だけは   しっかり決めておくことが必要だろうな」

ー「青淵先生演説及談話」より


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その後はどんな会話が交わされたのか         正確な記録がないので分かりません。         ですが「渋沢栄一」は               

『渡米経験(この時の六年前❗)のある   小栗上野介』から、           色んな外国事情、            欧米の「経済」や「産業」事情、     そして「見ておくべきもの❗」、     注意すべき事柄等々を伝授されたかと   思われます。


「おまえさん、折角行くんだから、しっかりマナコを大きく開いて観てきなよ」


渡米当時の写真                   前列右から二人目が小栗上野介

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当時の欧米を直に観て、               いち早く近代化の必要性を悟り            その為に建設した「横須賀造船所(製鉄所)」。

そしてその後、             不幸にも無実の罪で           明治政府に殺されたその「小栗上野介」の 遺志を引き継ぎ、            日本近代化に貢献した「渋沢栄一」。


嘗ては決起に逸り、軽率な行動をしようとしていた   自分の姿を知りつつも               「日ノ本」の未来のため、              自分自身の考え、体験を伝えた「小栗上野介」。

正にこの出会いが、その後の日本の発展に 繋がるではないでしょうか?


そしてもう一人、この「小栗上野介」からの教えを   継承し、「渋沢栄一」と互いに協力し合い、      日本の近代化に貢献した人物がいます。

その御仁、名を「三野村利左衛門」(みのむら りざえもん)と言います。                    

幕末から明治時代にかけて活躍した人物です。     この方、

世間からは「三井財閥の中興の祖❗」と  言われる方です。


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皆さんもご存知の通り、「三井~」と言う企業は    沢山有りますよね。                 それは先程の「中島飛行機」と同じ様に、       戦後GHQによる「財閥解体」において         数多くの企業に分割された企業群です。

そしてこの方、三井財閥の中で抜群の働きをしたのは  勿論ですが、明治六年(1873)に           「第一国立銀行」(現みずほ銀行)を創立し、
その頭取には正にあの「渋沢栄一」を迎えました。   また私立銀行「三井銀行」(現三井住友銀行)、      総合商社「三井物産」なども起こしました。      この方も日本の近代化に貢献した人物ですよ。

ですが皆さん、この方が「三井」に入る前       

どこで?                何をしていたのか?           ご存知ですか?


この御仁、


実は「旗本 小栗家」の          中間(武家奉公人)だったんですよ❗


察するに、この「三野村利左衛門」、         この方が元々持っていたであろう「商才」「才能」を  感じた「小栗上野介」が「三井」に入る様に薦めた   様です。

そして、逆に、身近に仕えていた「小栗上野介」から、 その後の                      「日本近代化」「経済人としての振る舞い」などを   間近にいて習得していた事など            想像には難くない、                 とは思いませんか?

更にこの方、                    明治政府に不穏な動き(小栗を捕縛する)が有る事を    いち早く「小栗上野介」に伝えたり、         また斬首された後のご遺族のお世話などをしています。 (四十八文字の話『サ』「最後の将軍」と小栗上野介1 を 是非参照して下さい) 

このお二人、「渋沢栄一」「三野村利左衛門」の    その後の活躍。                   そして「日本近代化」に大いなる貢献した      「小栗上野介」。                  

とても残業な事に❗                 今回の大河ドラマには登場しませんが         (っと思っていましたが、昨夜(6/13)の放送で、     武田真治さんが演じてましたね。           正直、ちょっと驚きました。)        


皆さん、もうそろそろ『小栗上野介の再評価‼️』が   されても良い時期だとは思いませんか‼️



※ 追記です 

大河ドラマの新キャストが発表されましたが、     この「三野村利左衛門」を「イッセー尾形」さんが   演じるそうです。                  中々面白い配役かと!、思いました。         これからの大河、楽しみとなりました。 


⚪「安積艮斎」の私塾


さて、キャストの話から少し逸れますが。       

江戸時代後期に                   岩代国二本松藩(現在の福島県郡山市)出身の儒学者に   「安積艮斎」(あさか ごんさい)と言う方がおりました。

この方、現在では余り世ノ中に知られていませんが、  幕末の時代を代表する「かなりの方」です。

江戸に出て、苦学しながら私塾を開きます。      やがて著作本が評判を呼び、             段々名が知られる様になります。

ご出身である二本松藩の藩校教授、          そして、江戸幕府直轄の最高教学機関である      「昌平坂学問所」(しょうへいざかがくもんじょ)の    教授方にもなります。


昌平坂学問所                    (現在は、「お茶の水」駅近くにある「湯島聖堂」)

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嘉永六年にやって来たペリー提督。    その時に渡された「アメリカ国書」の   翻訳や、                また同じ頃北海道に来た         ロシアのプチャーチンの「ロシア国書」に 対する返書の起草などを担当した程❗の  人物です。


安積艮斎 像

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それ程の方ですので                 この方の私塾には多くの人達が学びました。


それら主な門人の名を上げると

長州で松下村塾を開いた              「吉田松陰」(よしだ しょういん)           奇兵隊創始者                   「高杉晋作」(たかすぎ しんさく) 

新撰組結成のきっかけを作った策士          「清河八郎」(きよかわ はちろう) 

会津藩主松平容保公の側近             「秋月悌次郎」(あきづき ていじろう)

「日本近代郵便の父」前島密             (まえじま ひそか 今回大河ドラマでは、        三浦誠己さんが演じますね)


一円切手 前島密

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など、その後の日本で大活躍する人達です。


で、その名だたる門人の中に、            のちに「三野村利左衛門」が             再興した「三井財閥」の               ライバルとなる「三菱財閥」の創始者、        「岩崎弥太郎」(いわさき やたろう)がいます。     (今回の大河ドラマでは、中村芝かん、前の三代目橋之介さんが演じますね。)



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で、何故ここで、                  これらの「安積艮斎」私塾の話を           しているのかと言うと                先程、まだまだ世に名を知れず            苦学をしていた時代に、              「安積艮斎」が私塾を開いた、と           記させて頂きました。 

その私塾「見山楼」は                神田駿河台に作られました。


そして、その場所が「旗本 小栗家」屋敷の 敷地内の一角でした❗。



どうして旗本の屋敷に、武士でもない人物が      私塾を開く事となったのか?             はっきりとした事は分かりません。


ですが、私が思うに、          私の子供の時期、            学校の授業で教わった          窮屈な身分制度「士農工商」などは、   実は、当時においては、         以外にさほどのものでもなく、      ましてや、               神田駿河台のような下町の気風、雰囲気に おいては、               あまり問題にならなかったのかも     しれませんね。


歌川国芳 「東所名所 するがだひ」

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それで、こんな出逢いがあったため          幼少時代の「小栗上野介」も             この「見山楼」で学びました。            (なんせ自分の家!、ですからね) 

           

「小栗上野介」と                  のちに「三菱財閥」を起こした「岩崎弥太郎」との   奇妙な「ご縁」の話でした。



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