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四十八文字の話『ナ』 「仲間」そして日本の為、自ら奴隷となり我が身を売った愛国の人【大伴部博麻】(おおともべのはかま)

皆さん、今回は「大伴部博麻」(おおともべの はかま)と言う「飛鳥時代」の人物について書かせて頂きます。

このお名前、皆さんも聞いた事がないと思う人がかなり多いと思います。実はこの私自身もごく最近までその存在を知らない人物でした。ですが、この方の「生き様」「魂」(たましい)は感動的なほどです。


前もって、この方の成した偉業を簡単に言わせて頂ければ

◯ご自分と同じ様に、当時の中国王朝であった「唐」(とう)によって囚われの身になっていた「四人の日本人」のため、自らを犠牲にして、日本に逃がした事

◯「持統天皇」(じとうてんのう)の時代。この「博麻」は、普通の「一個人」でありながらこの帝より直々に「勅語」(みことのり)を賜った事

⚪「持統天皇」

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◯「愛国」(あいこく)という言葉をご存知だと思いますが、この言葉の語源は、この人物から生まれた事、等々。

では、以下に記します。


◯七世紀の朝鮮半島での出来事

当時、七世紀の頃の日本は、朝鮮半島との交流は勿論の事、中国大陸(当時の王朝は「唐」)とは「遣唐使」(けんとうし)を派遣し、大陸から色んな文物、文化などを吸収し、日本が後に「律令国家」(りつりょうこっか)になるための礎を築こうとしていた時代です。

「蘇我入鹿」(そがのいるか)を討った「乙巳の変」(いっしのへん 645)を経て、「中央集権」「律令国家」を目指しての一連の政治改革である「大化の改新」(たいかのかいしん)を着々と進める後の「天智天皇」(てんぢてんのう 当時はまだ【中大兄皇子】(なかのおおえのおうじ))。

⚪「天智天皇」

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そんな時、朝鮮半島において大事件が起こります。

当時の朝鮮半島は所謂「三国時代」、「高句麗」(こうくり)「百済」(くだら)「新羅」(しらぎ)が互いに凌ぎを削っていた時代です。

⚪当時の朝鮮半島

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その中でも、当時の日本と特に交流が深かった「百済」が斉明天皇六年(660)、「唐」と「新羅」の連合軍から攻められ滅亡します。

亡国「百済」の王族の一部は日本に亡命し、

「どうか我らの国土を回復するため、力を貸してくれないか」

と、中大兄皇子に救いを求めます。

これを受けた皇子。「百済」救済のため大船団を編成し、朝鮮半島に派遣します。


そして朝鮮半島西部側を舞台に 

「日本:百済」連合軍 VS 「唐:新羅」連合軍 

の大戦争が始まります。

これが所謂「白村江の戦い」(はくすきのえのたたかい)です。斉明天皇七年(661)~天智天皇二年(663)の、足掛け三年越しの戦いです。

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◯囚われて「長安」へ

「博麻」は現在の福岡県八女(やめ)市の出身。それまではごく普通の、一般庶民の生活をしてましたが、この「白村江の戦い」ため、徴集され出征します。

ですがご存知の通り、この戦いは、日本側の大敗となりました。一説では日本側の被害人数、実に「一万人」と言われています。当時の「唐」は世界最大の力を持つ国ですから、負けるのは当然だったのかもしれません。

この戦いに従軍していた「博麻」は、唐軍に捕まり捕虜となります。おそらくこの戦いでは他にも相当の数の日本人が囚われた事でしょう。

囚われた「博麻」は唐の都「長安」(ちょうあん)へと連行されます。長安に着くとそのまま収容施設に。

一体何人の方々が収容されたのでしょうかね?

「博麻」と同じ境遇の人達が。


これからどうなるのか? いつ解放されるのか? 生きて帰れるのか?

そんな中「博麻」はその収容施設で「四人の日本人」と知り合います。

ですが彼らは「捕虜」などではなく、以前から唐の都「長安」に滞在していた「遣唐使」達、日本から正式に派遣された留学生達でした。日本と唐が戦争状態になったために囚われの身となっていました。


◯四人の仲間

この「四人の遣唐使」と「博麻」。

ここで皆さん、想像してみて下さい。

単なる一平民で、そして、たまたま駆り出された戦で捕虜になり長安に連れて来られた「博麻」。

一方、日本の朝廷から派遣され、既に長安で暮らしていた「遣唐使」達。彼らは日本から選抜されてやってきた人達です。


🌕所謂「遣唐使」、一体どの様な人達が選ばれていたのか、皆さんご存知でしょうか?私も確たる確証があるわけではないですが、想像するに、「遣唐使」に選ばれるのは、その人達の出自や家柄、学識などが考慮されていただろうと思われます。後の平安時代、「遣唐使」として入唐した「伝教大師」(でんぎょうだいし 最澄【さいちょう】)や、「弘法大師」(こうぼうだいし 空海【くうかい】)  のお二人も実はかなりの「家柄の高い」家系だった様です。「博麻」が出会ったこの時の四人も、全員朝廷から賜った「姓」(かばね)を持つ人達でした。


おそらく何事もなく、戦争など起きずに平穏に日本で暮らしていたのなら、決して「出会う事などない」「顔を会わすことなどない」間柄だった事でしょう。

そんな出会いです。


⚪「遣唐使」図

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🌕出会った「四人の遣唐使」

⚪「土師富杼」(はじのほど) 姓は「連」(むらじ)

飛鳥時代の豪族。「土師」(はじ)氏は所謂「出雲族」です。平安時代になり「菅原道真」(すがわらのみちざね)公を輩出した「菅原一族」、鎌倉時代初期の幕府政所(まんどころ)別当(べっとう: 長官)だった有力官僚「大江広元」(おおえのひろもと)の「大江一族」、中国地方の戦国大名「毛利元就」(もうりもとなり)から江戸時代~幕末~明治時代以降も続く「毛利一族」ら、歴史上に名を残す幾多の名族の「祖先」に当たります。

⚪「氷老」(ひのおゆ) 姓は「連」

飛鳥時代の豪族。「氷」(ひ)氏は「氷室」(ひむろ)の氷を扱っていた一族。古代氏族「物部」(もののべ)氏の一派とされています。

⚪「筑紫薩夜麻」(つくしのさちやま) 姓は「君」(きみ) 

飛鳥時代の豪族。「地名 【この場合は九州の筑紫】」を名字とする場合の多くは、その地方の実力者です。また「君」(きみ)という姓は、当時の地方長官である「国造」(こくぞう)クラスの方に賜られるものです。

⚪「弓削元実児」(ゆげのもとさねこ) 姓は「連」

「弓削」氏も古代氏族「物部」氏の一派と言われています。奈良時代の高僧「弓削道鏡」(ゆげのどうきょう)の先祖筋かと思われます。

四人とも立派な「姓」を持つ、由緒有る家系の方々です。


◯決断❗

全くの偶然で知り合った「四人の遣唐使」と「博麻」。

ですが時も経てば

「お前、どこの生まれだ?」

「妻、子はおるのか?」

「故郷では何を?」

そんな他愛のない、日常の会話を重ねていけば、互いの隙間は埋まっていった事でしょうね。


長安で出会ってから実に六年間。

この五人の間には、ある種の「奇妙な❗平穏な時間」が流れて行きました。ですが転機が訪れます。ある日どこからか、故郷に関する重要な情報が耳に入りました。


「おい、唐が本格的に日本に攻め込むらしいぞ!」

「え❗」

「ホントか? ならば早く、早くこの事を日本に伝えねば」


五人は集まって故郷の危機を何とかせねば❗、と話し合います。

ですが、今現在の自分たちは囚られの身。何にも手立てが有りません。たとえ仮にここを出られたとしても、唐の都「長安」は、中国大陸の中でも中々の内陸部に位置しています。ですからそこから海岸線の港に出るまでが大変。更にその先、海の向こうの日本に行くための渡航費など有るわけないです。

⚪「長安」の位置と「遣唐使」航路図 (「ジャパンナレッジ.com」より)

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海を隔てた自分達の故郷が正に「風前の灯」、当時の世界大国「唐」が本腰を入れて攻め込めば、「白村江の戦い」どころではなく、日本がどんな事になるか?

みんな頭を悩まし、「何か良い案はないのか?」と考えますが「妙案」などすぐには浮かびません。

そんな時間が刻々と過ぎ、暗澹たる思いが込み上げてきた頃、「博麻」が突然、トンデモナイ❗事を言い始めます。


◯将来の日本のため

「私が、私が、【この身】を売ります。この地で奴隷となります。そして、それで得たお金をあなた方四人の帰国資金にして下さい。是非とも日本に帰って下さい」


そんな言葉を突然聞いた四人。


「あっ?、何だって‼️、お前、何を言っているのだ?」
「正気か?、そんな事、出来るわけないだろう❗」


それもそうです。出会ってから実に六年間、苦楽を共にしてきた【仲間】なんですから‼️

「長安」で出会った最初の頃は、先程も述べた様に日本の地では出会う事などない「身分の差」が有る者同士。当初の雰囲気はギクシャクしていたかもしれません。

ですが、時が経った今現在は「仲間」「友」なんです。そんな信頼の有る「仲間」から、突然そんな事を言われたって到底受け入れる事など出来るわけがありません。


ですが「博麻」はこう続けます。

「いいえ、このままではいけません。誰かが伝えねばならないのです❗何とかしなければならないんです❗ だとすれば、たまたま戦いに駆り出されて、その戦いに負け捕虜になった私の様な者よりも、あなた方四人の様に、国家から正式に【遣唐使】として選ばれてこの地に派遣され、将来を嘱望されているあなた方が帰国すべきなんです。それがきっと、将来の日本の為に成るはずです❗」




「………」

「ちょっと待ってくれよ。何故? 何故なんだ? お前❗どうして、こんな時に……さっきまで日本に帰る時はご一緒にお供します、と言っていたではないか❗ な~、共に帰ろうや~」


ですが他に妙案など有りません。どんなに、どんなに頭を巡らせても。

そして「博麻」はこの後、自身が言った言葉通り、身を売り「奴隷」となります。

それで、その身を売ったお金で、四人の遣唐使は無事に翌年日本に帰還します。天智天皇十年(671)の事です。


◯国家としての礎

福岡の大宰府に着いた四人。彼らからの報告を聞き危機感を持っであろう「天智天皇」。

早速、「唐」からの攻勢に対する防御策を実施します。

九州や瀬戸内海沿岸、畿内各地に「砦」(古代山城)を築きます。

⚪岡山県 鬼ノ城

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⚪山口県 石城山神籠石(いわきさんこうごいし)

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⚪福岡県 鹿毛馬神籠石(かけのうまこうごいし)

300px-鹿毛馬_神籠石_列石

⚪福岡県 御所ヶ谷神籠石(ごしょがたにこうごいし)

300px-御所ヶ谷神籠石_

これは自国防御のための、今では当たり前である「国土防衛」の施策です。これを実施した出来たのは、帰国した「四人の遣唐使」の情報がキッカケだったのかもしれません。


◯そして「博麻」の帰国

「一緒に日本に行かないか?」

長安で奴隷の身に落としていた「博麻」は、ある日、以前からの知り合いであった朝鮮「新羅」(しらぎ)の役人から声を掛けられます。


もう戦争は終わっています。日本と唐、新羅は友好国です。

「今度、本国からの命令で【外交使節】の一員として日本に赴く事になったんだ。それでその命令を受けたんだが、その時、ふ~っと何故か?、お前の事を思い出したんだよ。戦争なんてもう既に終わっている。どうだ、お前にその気が有るのなら、一緒の船に乗せてやるぞ❗」


それで晴れて帰国の途についた「博麻」。

帰国したのは持統天皇四年(690)、長安に来て以来、実に三十年振りの事でした。


◯国を愛(おも)う心、「愛国」の勅語(みことのり)


日本に着いた「新羅」の外交使節に対し、いつもの様に朝廷は最高の歓迎の催しを行います。

時は「持統天皇」の御代。そして、例の新羅の使節役人は「持統天皇」に、正にこの時、「例の事情」を伝えます。


「自身の身を奴隷にしてまで自分の仲間を、そして日本の事を愛(おも)っていた人物をお連れしました。」


あの戦いの裏で起こっていた「これら一連の事情」を聞いた「持統天皇」。この経緯をお聞きなったその時のお気持ちはどうであったのでしょうか?

面会を許した「持統天皇」は「博麻」に対し、こんな「勅語」(みことのり)を賜ります。

⚪『朕、その尊朝愛国、己を売りて忠を顕すことを嘉(よみ)す』

(私は、お前が朝廷を尊び、国を愛【おも】い、己を売ってまで忠誠を示した事を嬉しく思います。)


⚪「持統天皇」 (作「里中満智子」 講談社漫画文庫「天上の虹」より)

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勿論これだけなどはなく、官位やその他の破格の褒美を賜り、孫三代までその身分が保証されました。


戦争で長安に連れていかれて三十年、やっと苦労が報われましたね。

ですが皆さん、この時の「持統天皇」が賜った「勅語」。実はこれ、有史以来の、長い日本の歴史の中で、「時の天皇」が直接「一個人」に対し下賜した唯一の出来事なんですよ。

また、「勅語」の一節、「国を愛(おも)い」の部分、これが「愛国」(あいこく)と言う言葉の語源ともなります。



◯後書き(私の思い)

皆さん、この「大伴部博麻」という人物、知っていましたかね。冒頭でも述べた通り、私も含め殆どの方々はご存知ないのではと想います。

それは何故だと思います?

それは「学校」で教わる事がなかったからでしょうね。

確かに冷静に考えれば、この「博麻」と言う人物、これと言った「歴史的な業績」を残したわけでは有りません。だから「歴史」の授業、「歴史の教科書」に載っていないのは、一応理解出来るとしても、せめて「道徳」の授業では是非とも教えてくれよ~‼️、と言うのが私の気持ちです。


「戦前の教科書」には載っていた事、ご存知でしょうか?


ですが、終戦後にやってきたGHQ(アメリカ占領軍)による厳しい「思想統制」、戦前まで一般民衆の普通の家庭で読まれていた書籍に対する、徹底的な「焚書」(ふんしょ)の嵐の中、この方「大伴部博麻」という存在は「日本の歴史」から抹殺されてしまったのです。


🌕幕末の時代、再度やって来る「ペリー黒船艦隊」の防御のため、僅か六ヶ月で江戸湾に七つの大砲を載せるための「人工の島」である【お台場】を築いたり、太古から世界中で流行っていた伝染病「天然痘」(てんねんとう)を防ぐための「種痘」(しゅとう)を日本で初めて自分の領民に実施したり、そして今や世界遺産にもなっている伊豆の「韮山反射炉」(にらやまはんしゃろ)を作った、韮山代官「江川英龍」(えがわひでたつ)も、この戦後の「焚書」の時期に日本の書物から消された人物です。

⚪韮山代官「江川英龍」

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時の政府、行政を動かすのは「並大抵ではない」事は、十分に解ります。


だからやはり❗デスネ😋、今現在でも、この日本の歴史の下に埋もれている「偉人」達を見つけ出し、そしてこういった「ブログ」等を使ってその人物を世に広めるのは、僭越ですが、「自分たちの役割なのかな~」、と思いました。そして、『正にそうすべきだ』と、どなたから教えられた気がする次第です😁



⚪福岡県八女市ホームページ



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