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どうにもできないわけよ

これまでブログなどにその時の気持ちを
書き綴ってきていました。
言葉にすることで自分の頭の中を
整理するとか、確認する意味合いも
ありながら

誰かが参考にしてくれたらいいなという
思いと、自分は今、こんななんですと
誰かに認めて欲しかったのもあったのだと
思います。
認めてもらって安心するというか。

その、承認欲求がね、自分で分かるほど
鼻についてほとほと嫌になってしまって
何もいえなくなってしまっています。

偉そうなことだけど
誰かに影響してしまうのも嫌で。

みんなそれぞれの人生をプログラムして
それを辿っているだけと知ってくると
ああそうだよね、以外の言葉がなくて。
自分の感情をほとばしらせたところで
誰が聞きたいんだろう?って
思ってしまう。

昔はよく、わたしはこんな感じでね
今、こんなでね、って友人にも話して
そんなダメなゆきちゃんも好きだよって
よしよししてもらって安心していた。

そういうことを全くしなくなった。
自分の気持ちも話さない。
話すことに潜んでいるずるさや甘えを
優しい誰かが肯定してくれることを
避けたくなった。

ストイックにしたいわけでもなくて。


なんというか、体験に対して
余計な調味料を足したくない感じです。
ジャッジも共感も肯定も否定も
しなくていいよ、わたしもしないからって
感じなのです。

何も話してなくて連絡も取っていなくて
疎遠になって縁が切れた人ばかり。
前のところで一緒で今も顔を合わせる
人達とさえ前ほど関わらなくなって
います。

あんなに一緒に行きたかったのに。
あんなに仲良くしたかったのに。

出来事や体験を話す時にはどうしても
個人的な見解が入る。
それさえも排除したいのです。
味をつけたくない。
頭で意味付けしたくない。

その時に感情は湧き上がるけれど
それさえどうせ時と共に消えていく
から収まりのいい解釈をしたくない
のです。


ただ、体験して味わって。
そこで腑に落としたことはあります。
自分の中にあった攻撃性や人への優劣
つける部分なんかは認めることが
できたので口に出すこともできました。


過去の嫌なやつだった自分を反省して
います。


これまで色んなところから離れる時に
やってもいない濡れ衣を着せられたり
汚名を着せられることが多々あって
わたしとしては全く覚えがないことを
お前がやったと悪者にされることが
とても悔しくて悲しかったです。


それがエネルギーとして黒いベタついた
鉄板のように喉からハートからお腹まで
硬い重たい鉄板のようにこびりついて
感じられていたのだけれど
それがようやく溶けたようなので
言葉にしています。


それについてはやっていないけれど
そんな風にわたしを悪く言う理由を
作りたいくらいにわたしは失礼で
嫌われたり恨まれたりしていたの
でしょうね。

だからいいわけもしません。

北島さんのところでは全ては悟るための
自分で描いたプログラム通りという
教えです。ただ己の真我に託すのみ。


ただ黙って観ている観照者になり
そしていずれはそれさえも居なくなり
自分1人になり自分も消えてワンネスに
なっていく。

反省はするし今後は
人を攻撃しないように自分の態度に
気をつけようとするけれど
全てプログラム通りでもあるので
したこともされたことも
ただ観るだけにして
拘らないでいたいと思っています。


今、無口なわたしでいることも
おそらく真我の計画通りです。
だからこれでいいかな。


セッションもグループワークも
今後は教えるとかではなく
その人の本来のありのままを
健やかに伸びやかに発揮させる
お手伝いができたらいいなと
思っています。

全部、それがそうであることを
わたしがわたしであることも含めて
許していきたいと思っています。


毎週木曜日21時からののラジオでは
その時の気づきを話しています。
無料ですのでよかったら
聞きにきてください。






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