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【SNK】千両屋【侍魂】

 ゲームを通して歴史の豆知識をお送りするお馴染みのシリーズ、今回は『サムライスピリッツ』の千両狂死郎と歌舞伎について。……お馴染み? お馴染みか? まあいいや。

 歌舞伎の歴史うんぬんについてはWikiを見てもらうとして(丸投げ)、歌舞伎が今でいうお芝居の形になったのは、日本史でいうところの元禄年間の頃といわれている。浮世絵などに描かれるような人気のある役者たちも多かったが、彼らの社会的地位は決して高くなかった。
 現代でも歌舞伎の公演中に、「よっ! 成田屋!」だの「高麗屋!」だのといったかけ声が飛ぶことがあるが、これは、歌舞伎役者の多くが、役者とは別に、名目上、何かしらの商売をしていたことに起因する(といわれている)。
 江戸時代、通りに面した立地のいい場所に屋敷を構えることを許されているのは商人だけだった。一方、もともと社会的身分の低かった役者たちは、裏路地やせまい横丁などに居を構えて暮らしていたのだが、民衆に観劇の習慣が定着し、それにつれて役者たちの羽振りがよくなってくると、やはりもっといいところに住みたいと思うのが人情というもの。
 そのため、人気のある役者たちは、白粉などをあきなう副業を始めて、そうした大通りに屋敷を構えるようになった。その際に使われた商家としての屋号が、やがて役者そのものを指す呼び方として定着したのである。
 ぼくが二次創作などで覇王丸に狂死郎のことを「よう、千両屋!」などと呼ばせるのは、要するにこうした歌舞伎界の慣習を表現しているのである。

 また、江戸時代には人々の移動が制限されており、関所を通過するのはかなりハードルの高い行動だった。たとえば凶状持ち(手配状)が出回っている牙神幻十郎あたりは確実に関所を通れない。関所をスムーズに通過する、いい換えれば番所での取り調べを受けずに関所を通過するためには、ちゃんとしたところが発行した通行手形が必要なのだが、歌舞伎役者の場合、手形は必要ない。役者をはじめとした芸事にたずさわる者は、その場で一芸を披露できれば関所を通してもらえるのが通例だったのである。
 だから狂死郎とその一座は、基本的に役所で止められることはなく、ほぼ日本全国どこへでも行けた。実際にゲームのキャラストーリーなどでも、狂死郎は一座の者たちを引き連れて肥前や京へ巡業に出かけている。
 ちなみに覇王丸も、手形がない時には、河豚毒を投げ上げて鞘でキャッチする大道芸を披露して関所を通過していたのであろう。

 狂死郎たちが活躍した1700年代の終わり頃には、歌舞伎の舞台につきものの花道や奈落、迫り、廻り舞台といったハード的な舞台装置はほぼ完成していた。
 ソフト面でいえば、『義経千本桜』などのいわゆる三大歌舞伎や『東海道四谷怪談』、『娘道成寺』といった、現代でも知名度の高い作品は出揃っており、狂死郎が得意とする『暫』や『景清』もすでに成立している。反面、俗にいう歌舞伎十八番はまだ決まってない。

 とまあつらつらとそれらしいことを述べてきたが、ぼく自身はふつうの歌舞伎を観たことがない(コクーン歌舞伎やいのうえ歌舞伎は観たことあるけどな)。

いつ見ても汎用性の高いポカン顔である。

 あ、ないィ!

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