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「溢れ出るなにか」嬉野さんの言葉の切れはし#342

ホーチミン市のホテルに到着した時、藤やんと大泉洋の胸の中から、なんだか訳のわからないものが堰を切って一時に溢れ出てきたはずなのよ。だから溢れ出た涙が止められなかった。
ーー嬉野雅道

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泣くという行為があるでしょう。
あれはね。
必ずしも悲しいから泣きたくなるのではないということを、
年配者のぼくは知っています。
悲しくなくたって、人は泣くんです。
ただまぁ、泣いているうちに悲しくはなるけれど。
泣くという行為。
あれは、ぼくら人に与えられた表現なのだと思います。
ぼくはね、ぼくは、そう思うんです。
うちの番組でね、もう5年も前のことだけど、
ベトナムをカブで縦断したことがあったけど、
あの時、ゴールのホーチミン市のホテルに到着して、
藤やんも大泉洋も、
好い年をした大人が、堪えきれずに泣いていました。
あれは悲しいから泣いていたんじゃないと、今ぼくは確信を持って思います。
あの時、あのふたりの胸の中から、なんだか訳のわからないものが堰を切って一時に溢れ出てきたはずなのよ。だから溢れ出た涙が止められなかった。
だからあの時、
なんで今、こんなに涙が出るのか。
その訳が一番分からず当惑していたのは、大泣きしていた当の本人だったとぼくは思う。
そんな時の涙はね、
堪えようとしても堪え切れるものではないのよ。
でも、その行為に、外から見守るぼくらも共感して、また泣いてしまうんです。
かれらの涙の真の意味は分からないままに。
そういうふうにね、
他人の境遇に強く共感することが、
ぼくら人には出来るということです。それが人の持つ能力というものです。
それは、けしてあの二人だけのことではなくて、
ぼくや、みんなの話です。
泣きたい時は、人それぞれにある。
ーー嬉野雅道(水曜どうでしょうディレクター)

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