連載小説【フリーランス】#19:私だけのこけし

 あれからバイト上がりのピカスとはたびたび一緒に帰るようになっていて、ときには二人の家に向かう途中にある公園で、仕事終わりの一杯のビール缶をかたむけることもあった。

「それ何?」

 ベンチの上で半開きになったピカスのリュックの中に小型の木彫りの人形がのぞけた。それは台座のないオスカー像のような形をしていて、本体に彫られた装飾に合わせて鮮やかな塗料で色づけされている。ピカスは幸代の目線を追って人形を手に取った。

「これ?」
「うん。あなたの?」
「そうだよ。これはね、僕の生まれ育った村に代々伝わるものなんだ。だいたい一家に一つはあって、お守りでもあり、分身でもあると言うのかな」

 ピカスがオスカー像のように片手で足元をつかんで差し出したそれを、幸代は自分の手に受け取った。思ったよりも軽い。木肌には彫刻がほどこされているけれど、表面は磨きこまれて艶やかに鈍く光っている。木のぬくもりが手の形になって染み込んできた。

「これを持っていても、黙って何もしなければただの人形で、何の役にも立たないんだ。毒にも薬にもならない。ただ、持ち主が何か行動すれば、そのパワーを受けて後押ししてくれる。その人のパワーがポジティブなものならいい方向に、ネガティブなものなら悪い方向にね。つまりは持ち主をうつす鏡で、生かすも殺すも持ち主にかかっているんだ」
「ふーん」

 人形の顔面を親指の腹で撫でてみる。尖った鼻先と突き出た唇がちくちくと皮膚に引っかかって、くすぐったいような、ツボを刺激されるような、かすかな痛みを感じる。何度も繰り返し撫でているうち、古いシーンが蘇ってきた。

「私ね、中学の頃、完全犯罪をやったことがあるの」
「幸代が?」
「そう」
「凶悪なやつ?」
「めちゃくちゃ凶悪」

 クールだね、とピカスが笑い、幸代は言葉を続ける代わりにビールを一口含んだ。喉を塞いでいた記憶のふたが、苦い泡と一緒に溶けていく。 

「クラスに気に入らない奴がいて。どうしても許せなかった」
「そんなに嫌いだったんだ」
「そいつが一人いるだけで、それ以外の人は居場所がなくなっちゃうの」
「その人ケンカが強かったの?」
「全然。力で人を傷つけたりはしない」
「すごく頭がよくてみんなをバカにしてたとか」
「ううん、成績は中くらい。スポーツもべつに得意じゃなかった」
「わかった、いじめっ子だ」
「いじめよりもっとひどいかも」
「何をされたの?」
「何も。ただ同じクラスにいただだけ。どちらかというと地味で、目立たない子」
「わからないな。何が気に入らなかったのか」
「そいつ自身は目立たないけど、気がつくとみんな服装とか髪型とか意見とかそいつに合わせてて、ちょっとでも違うことすると追い出されちゃうの」
「幸代も追い出されたの?」
「その前に手を打った」
「どうやって?」
「バラバラにして、捨てた」
「えっ」

 ふいに幸代は両手で人形の足をつかむと、頭の上から勢いよく地面に向かって両足の間を振り降ろした。が、ベンチの足元に届くすれすれ、あと数センチのところで、人形の顔面は寸止めになった。

「でももうそいつがどんな顔をしてたのかも思い出せない」

 身を起こして手の中の人形を見つめる。ピカスは幸代の爆弾発言がジョークなのかどうかうかがっているようだったが、それ以上深掘りはしてこなかった。

「幸代は今、その人形の顔がどんなふうに見える?」
「うーん、たとえば? ヒントが欲しいな」
「美しいとか、醜いとか、誰かに似てる、とか」
「私、かな。私の顔」
「そうか。今の幸代は自分と向き合っているんだね」

 エキゾチックなカラーで彩られた立体的な顔立ちは幸代とは似ても似つかない。にもかかわらず、幸代にはそれが自分にしか見えなかった。くっきりとラインを引かれ、鮮やかに彩色された目、眉、鼻、唇。これが私なのだろうか。じっと見続けているうちに、それぞれのパーツの輪郭がぐにゃぐにゃと歪んで、ゲシュタルト崩壊のように溶けてきた。

「その人形はね、持っている人の心の状態によって、顔が変わるんだ」
「気まぐれだね」
「そう。楽しい日は笑ってるかもしれないし、悲しい日は泣いてるかもしれない。あなた次第で違う顔にもなるんだよ」

 もう一度人形に目を落とした。木の肌に彫り込まれた顔は口の端にかすかな笑みをたたえている。ように見える。だけかもしれない。粘土彫刻の顔は一度彫ったら変えられないと思っていたけど、これは常に変わり続けるというのだから。

「ピカスにはどう見えてる?」
「知らない人。見たこともない顔。未知の生物。きっとこれから出会うのかも」

 人形はピカスの手に戻った。

「もし自分にとってこの人形の役目が終わったと思ったら、誰かほかの人にあげてもいいんだ」
「あなたは誰にもらったの?」
「僕のお姉ちゃん。彼女は結婚して家を出たんだけど、僕が日本に来ることになって、そのときにくれたんだ」

 ピカスは人形をリュックにしまい、幸代は缶に残ったビールを最後まで飲み干した。

「この人形をもらった人は、自分だけの名前をつけるんだよ。でもそれは誰にも言っちゃダメ」
「どうして?」
「他の人に名前を知られたら、自分にとってのパワーはなくなっちゃうんだ」
 
 だからピカスはその人形の名前を教えてくれなかった。幸代の前でもただ「人形」とだけ呼んでいた。でもそれは人形というよりこけしの質感とフォルムに似ていたので、幸代は心の中でひそかに「こけし」と呼ぶようになった。⏩#20


⏪#18:何もかも似合わない部屋
⏪#17:六畳一間のグランドピアノ
⏪#16:かろうじて戦争ではなく

⏪#15:ユエナは虹の子
⏪#14:白でも黒でもない
⏪#13:ムーンボウの娘
⏪#12:沈丁花の夜
⏪#11:ミスター模範解答
⏪#10:完璧な仏像に似た
⏪#9:割れた風船の中には
⏪#8:マッチ&デートツアー
⏪#7:人生はレディメイド
⏪#6:残されたまばたき
⏪#5:マスゲーム襲来
⏪#4:風の強い日
⏪#3:渋滞のハイウェイ
⏪#2:神々の大量虐殺
⏪#1:夜の教室

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