連載小説【フリーランス】#25:部屋の人質

 蔵石さんが退居したCLOSETは次の主を待っていた。自分の個展の日程が近づいてきたミヤちゃんは準備に集中するためバイトを休んでいる。

 幸代は久々に新しい部屋に足を向けた。ドアを開けると覚えのある匂いに出迎えられたが懐かしさは感じなかった。正和が来た形跡もなかった。

 一通り室内を回るとすぐに手持ち無沙汰になってしまった。しかも今日の幸代はこの部屋のために何かを持ってきてさえいなかった。そのことに気づくとにわかに不安になり、トートバッグを探って、こけしが手に触れた。不意打ちでその顔を覗き込む。こけしに表情を作る隙はなかったはずだ。口の端の微笑みだと思っていたものは不自然な歪みのように見えた。ピカスにもらったときはあんなに軽やかだったはずなのに、いま手の中にあるそれはずっしりと重く感じられる。その重さに耐えられなくて、幸代はリビングの真ん中に、おそるおそるこけしを置いた。裸の窓から西陽を浴びたそれはフローリングの床に濃い長い影を落としている。動きの止まった部屋の中で幸代の腕時計の秒針の音だけが規則正しく響いていた。時限爆弾のようだった。これは人質だ。部屋がこけしを人質に取って、私から何かを奪おうとしている。だけど私は一体これと引き換えに何を要求されているというのか。かつての私は自分の手で完全犯罪をくわだてて成し遂げることもできたのに、今の私ときたら、何というザマだろう。まだ住んでもいないのに、この部屋からもうどこへも行けない気がする。

 幸代は部屋の脅迫に後ずさりながら、トートバッグをつかむと、こけしを置き去りにして逃げた。⏩#26


⏪#24:名前をつけるな
⏪#23:口に出されなかった言葉たち
⏪#22:似ている誰か
⏪#21:同じカテゴリの男
⏪#20:食べた気がしない

#19:私だけのこけし
⏪#18:何もかも似合わない部屋
⏪#17:六畳一間のグランドピアノ
⏪#16:かろうじて戦争ではなく

⏪#15:ユエナは虹の子
⏪#14:白でも黒でもない
⏪#13:ムーンボウの娘
⏪#12:沈丁花の夜
⏪#11:ミスター模範解答
⏪#10:完璧な仏像に似た
⏪#9:割れた風船の中には
⏪#8:マッチ&デートツアー
⏪#7:人生はレディメイド
⏪#6:残されたまばたき
⏪#5:マスゲーム襲来
⏪#4:風の強い日
⏪#3:渋滞のハイウェイ
⏪#2:神々の大量虐殺
⏪#1:夜の教室

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