連載小説【フリーランス】#24:名前をつけるな
「それでね」
その夜の帰り、幸代は遅番上がりのピカスをつかまえた。このまま真っ直ぐ家に帰りたくなかった。さっきの余韻をもう少しだけ引きずっていたかった。時刻は日付けを回ったばかり。今はまだ自分の中に残っている炎も一晩寝たら絶対に消えてしまう。完全に消えてしまう前に、それがあった事実を、現実のアルバムに残しておきたい。でも心の火をスマホのカメラで撮ることはできない。無論、一眼レフでも。こういうときは誰か証人を見つけるしかない。
メッセージアプリで正和のアカウントを開く。勤め先の社屋前で自社キャラクターと一緒に撮ったスーツ姿のアイコンが目に飛び込んできた。ちょっと遅いかもしれない。こんな時間だから、着信に気づけば心配して出てはくれるだろうが、その期待に応える種類の話ではない。何と言って切り出すべきか。
こんばんは、寝てた?
うん、まあ。どうした?
あのね、いまうちのライブイベントが終わって帰りなんだけど。ほら、前に話した、シンガーソングライターのピアニスト
うん
大成功だったよ。すっごい面白かった! お客さんも盛り上がったし、こんなに楽しかったの久しぶり。仕掛けも上手くいってね……
それで?
それで、嬉しかったから忘れないうちにマサ君にも言いたいなって。それだけ
悪いけど続きはまたでいい? 明日出張だから早いんだ
あ、ごめんわかった。もう切るね。おやすみ
おやすみ
シミュレーションすればするほどスマホの画面をタップする指がためらった。これでは三分も持ちそうにない。せっかくの熱い気持ちもたった十行にサクッと要約されてしまう。今夜のことをそんなふうにざっくりとまとめて最後に謝ったりしたくない。大体こんなシミュレーションをしている時点で終わってる。
やめた。通りすがりぐらいの人のほうがいい。自慢したいわけではないし、布教活動をしたいわけでもないし、共感も批判も助言も求めてない。ただ言いたいだけなのだから。何でもかんでも件名をつけたりプレゼンしたりエピソードトークにしてしまうなんて勿体ない。
それでピカスを誘った。
「ああ、まだ今日の続きなのに。今を失うのが怖くて、今日が昨日になることを、明日になる前に考えちゃった自分がうらめしい」
いつもの公園に着いて、二人はピカスのコンビニで買ったビールを開けた。
「動画とかないの?」
「撮ったけど、動画はただの動画だから。それ以上でもそれ以下でもない。そうじゃなくて、私が言いたいのは、曲とその前後も含めた大きな物語のことなの」
ここで幸代は両手を大きく広げた。
「曲が生まれるまでの物語、曲を作った蔵石さんの物語、曲を聴いたお客さんたちの物語、それを目撃した私の物語。曲と出会った人の数だけ物語があって、それぞれがその物語の主人公になるの。この話を聞いた瞬間からピカスの物語も始まってるんだよ」
「それで、新曲はできたの?」
「うん。いや、ううん」
先をうながすようにピカスが首をかしげる。
「その曲は永遠に完成しない」
「ボツってこと?」
「違う、わざと完成させなかったの。もちろん原型になるオリジナルバージョンはできたよ。でもその曲はね、これからもライブでしか演奏しないんだって。演奏する場所とか聴く人との関係によって、どんなふうにもアレンジできるように、余白を残してある。だから完成形というのは存在しなくて、会場とお客さんが変われば、曲の結末もそのたびに変わるの」
「今日の幸代は楽しそうだね」
「だって楽しいもん」
楽しいと口にすることがこんなに楽しいなんて知らなかった。口にしただけもっと楽しくなるみたいだ。楽しい、楽しい、楽しい。
「そうだ、これ、幸代にあげるよ」
ピカスはリュックからいつかと同じこけしを取り出した。
「え、どうして?」
「なんとなく、幸代が持っていたほうがいい気がする」
「いいの?」
「うん、今の僕にはもう必要ないから」
「ありがとう」
幸代のものになったこけしの顔は、やっぱり自分と似ているように見えたが、この前よりも心なしか楽しそうな気もする。見つめ合う幸代とこけしの2ショットにピカスの声が重なった。
「ちゃんと名前をつけてね。絶対に人に言っちゃダメだよ」
それから間もなくだった。ピカスと急に連絡が取れなくなったのは。コンビニで見かけなくなり、送ったSNSのメッセージにもレスが返って来なくなり、いくらたっても既読の二文字すら現れることは二度となかった。幸代は何か気に触ることでも言っただろうかと、自分の送った文面を何度も読み返してみたものの、最後に送ったメッセージはただその日のバイト終わりの予定を聞いているだけで、吹き出しの中は二行にも満たない。それでもブロックされたのではないかとか、ブロックされたかどうかを確かめる方法だとか、そんなワードでスマホの検索履歴が埋め尽くされた一日もなくはなかったけれど、調べ疲れて寝る頃には、せっかく知った方法で確かめようという気力もなくなっていた。
こうなるともうこちらからはどうしようもない。SNSなんてそんなもの、それだけのつながり。わかっていたつもりだけれど、いざそうなってみると、寂しいという思いは拭えなかった。この先どれだけピカスのことを覚えていられるだろうか。そんな思いをするぐらいなら、ピカスと過ごした短い時間などなかったほうがよかったのだろうか。それともそんな出会いにも何かしらの意味を見出して大事にするべきなのか。どんなに儚くて細いつながりだったとしても?
沈丁花の季節は過ぎ去り、残り香さえ跡形もなく消えていた。そして手元にこけしだけが残った。名前は思い浮かばなかった。⏩#25
⏪#23:口に出されなかった言葉たち
⏪#22:似ている誰か
⏪#21:同じカテゴリの男
⏪#20:食べた気がしない
⏪#19:私だけのこけし
⏪#18:何もかも似合わない部屋
⏪#17:六畳一間のグランドピアノ
⏪#16:かろうじて戦争ではなく
⏪#15:ユエナは虹の子
⏪#14:白でも黒でもない
⏪#13:ムーンボウの娘
⏪#12:沈丁花の夜
⏪#11:ミスター模範解答
⏪#10:完璧な仏像に似た
⏪#9:割れた風船の中には
⏪#8:マッチ&デートツアー
⏪#7:人生はレディメイド
⏪#6:残されたまばたき
⏪#5:マスゲーム襲来
⏪#4:風の強い日
⏪#3:渋滞のハイウェイ
⏪#2:神々の大量虐殺
⏪#1:夜の教室
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