トム・ヒドルストンに会った話

 わたしは本当にトム・ヒドルストンと会ったのだろうか。
 記憶が全く無い。
 驚くほどに何も無い。
 手元にある写真を見ても合成だとしか思えない。
 いい匂いがした、とか、言葉を交わした、とか、触れた手が暖かかった、とか、彼の選んだ音楽が流れていた、とか言っている人がたくさんいるのに、そんな覚えは微塵もない。無だ。

 いや、さすがに全く何も無いと言うのは誇張である。画面で見るよりずっと細い体躯に、隣へ移動する時に交わした瞳の周りに消えてしまいそうな儚い青さ。去年の経験を踏まえ、撮影の際にカメラの存在を無視してトムヒだけを見つめることにしたのだが、その永遠にも感じた数秒で見た彼の完璧な横顔の、尋常ではない鼻の高さに、絡まってるんじゃないかというくらいモジャモジャしたヒゲとその光に透けてちょっと赤毛っぽく見えた色。
 これだけ覚えていれば充分だろうと思われるかもしれないが、これでも実感がないのだ。

 やっぱりヒゲなんだと思う。

 ロキを初めて見て好きになってから六年以上、そこからトムヒ本人のファンになってからは四年くらい経った。この期間のどの時点でもトムヒはここまでヒゲを生やしていない。何というか、いくらヒゲ面のトムヒに慣れてきたとは言え、わたしが今まで慣れ親しんできた「トムヒ」とは、やはり別人に近いのである。彼はわたしが何年もずっと好きだったトムヒではなくて、この年数分きちんと歳を重ねたトムヒ第二形態だったのだ。

 でも多分これで良かった。周りからは「もしヒゲがなかったら生きては帰ってきていない」と何人にも言われたし、わたし自身もそう思う。

 でも、と更に思う。わたしは彼の外見だけが好きなだけではない。演技も性格も思慮深さも、あんなに完璧な人間はいないと真剣に思っている。ヒゲが生えていようがなかろうが彼が幸せなら正直どうでもいいし、歳を取れば取るほど魅力的になっていっているとすら思う。では何ゆえ彼との邂逅が信じられないのだろう。

 これに関しては、言葉なんじゃないかと思う。
 人間生きていれば肩がぶつかることもあるし、偶然手が触れることもある。体の接触というのはよほど親密なものでない限り、大したことではない。けれど言葉は、相手を認識して発せられるから、唯一である。そして、わたしは推しを初めて目にした時には声すら出せない。もう前に二度経験しているから確実だ。つまり、いくらトムヒとの思い出を振り返ったところで、そこに言葉が介在していない限り、わたしが彼に会った事実を現実と受け入れる日は来ないのである。

 この目でトムヒの存在を確認した今のわたしなら、機会さえあれば次こそ何か言えるはずだ。その時まで、トム・ヒドルストンは画面の向こうの手の届かないプリンス・チャーミングとして、わたしの中で君臨し続けるのである。

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