もはやスペックさえもかなわない

資本主義が隅々まで行き届いたこの国で暮らしていると、
いわゆるスペックの高い人は間違いなく優位性を有している。

この『スペック』という言葉の意味内容は、
男性と女性では多少異なるのかもしれない。

ただ、私は女性としてどうしても言いたい。

ハイスペックな男性は、
相対的にedgeを有しているから、
当然ながら異性にモテるだろう。

しかし、
スペックをも凌駕する個人の本質的魅力に接したとき、
私は一瞬にして女になってしまう。

正確には、女性であることを自然と思い出してしまう。

社会生活に疲弊し、
女性的魅力が不活化したときでさえ、
瞬く間にトキメキが体中をかけめぐる。
光の速さで恋をするのだ。

それは男性のスペックに対してではない。
他ならぬ本質的魅力に対してだ。

本質的魅力とは、普遍的魅力とも言えるだろう。

どんな時代、どんな国に生まれても、
人のこころを鷲掴みにする魅力。

根元的な無条件の魅力。

言語化してしまうのがもったいないほど、
あたたかい魅力。

この本質的魅力は、
芸術品のようなもので、
その芸術を解する感性を持つ者を魅了する。

だから、誰にでもあるものなのだ。

ただ、人によって芸術の感性が異なるだけ。

自分の感性に合う芸術に共鳴するのだ。

スペックが社会的産物であるなら、
本質的魅力は宇宙の産物だろう。

偶然的必然によって与えられた自分だけの魅力。
それは、まさにこの宇宙の宝物。

だから、そう。
私は思うのだ。

スペックは2次的なもの。
個人のもつ圧倒的な魅力の前では、
ほとんど無力だ。