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#3 南部と津軽(中)

 津軽地方とは、近世(江戸時代)における津軽藩の領域を基本としており、南部地方とは南部藩の北側領域を指す。津軽藩は弘前藩津軽家であり、南部藩は盛岡藩南部家であるように、青森県内の南部地方は、津軽に奪われた、あるいは併合されたとの感覚が強い。県庁所在地も青森市であるため、南部の人からすれば常に主導権を握られ、追いやられてきたとの感覚もあるのだろう。ちなみに、青森県は明治以後の廃藩置県で成立した弘前県(旧津軽藩)を主体に出来上がったため、当初、県庁所在地も弘前にすべきとの意見が強かったそうだが、南部地方も取り込むためには弘前はあまりに西に寄りすぎていたばかりでなく、当時すでに陸運・海運の要衝となり始めていた青森湊(現青森市)が相応しいとの判断があったのだろう。明治以前の青森は、寂しい一漁村であったとの俗説もいまだ根強いようだが、実際には現在の青森駅周辺に相当する善知鳥村よりも、やや東側に位置する堤川河口周辺が中世以来、青森湊の中心である堤(包)宿であり、城館(堤浦古舘)が築かれるなど政治経済の拠点であったことが窺われる。
 ところで、歴史的な話をすれば、津軽家を興した津軽(大浦)為信は、元々南部一族の久慈氏の出自であり、南部氏による津軽経営の一翼を担っていたものが、戦国時代に南部宗家から独立し、豊臣政権下において所領を安堵されたことに始まる。大浦氏が拠った大浦館は、津軽平野の西部にあたり、南部氏による津軽支配の拠点の一つであった。浅瀬石城・田舎館城の千徳氏、大光寺城の大光寺氏、石川城の石川氏もみな南部一族である。前述の堤浦の館には、これも南部一族の堤弾正光康が入部したという伝承がある。
このため、南部氏から見れば津軽氏は、戦国時代末期に主家を裏切り、領地を掠め取った憎き存在ということになり、実際に大浦為信は武勇ばかりでなく様々な調略や謀略を駆使して、津軽地方を手に入れている。
 しかし、津軽地方の歴史を通観すれば、南部氏による津軽支配とは15世紀後半~16世紀後半までの100年ちょっとの話であり、力で奪い取った土地を、力で奪われたと見ることもできる。そもそも中世とは、近世のような君臣関係を基軸に据えた封建制度ではなく、本領安堵という土地支配を基軸とした時代であり、宗家とは主君ではなく、緩やかな同族連合の盟主に過ぎないことを忘れてはならない。特に戦国末期は、南部一族の内紛が絶えず、大浦氏ばかりでなく、九戸氏や八戸氏(根城南部氏)、七戸氏などは初めから自らを独立勢力と考えていた節がある。

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