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#5 安藤(安東)氏小史

 津軽地方に拠った安藤(安東)氏の梗概をもう少し詳しく書きたい。なお、ここでは通説に従って、鎌倉時代~室町時代中期までを安藤氏、それ以降を安東氏と表記する。
 安藤(安東)氏の家伝は様々あるが、鎌倉時代の安藤氏は、執権北条氏の得宗被官、御内人として蝦夷沙汰職に任じられており、北方交易を実質的に管理したものと考えられている。鎌倉幕府滅亡の引き金とも言われた安藤氏の内訌「蝦夷大乱、津軽大乱」では、津軽西浜の安藤太郎家と外ヶ浜の安藤五郎家の嫡流争いに蝦夷の蜂起が加わり、乱を鎮められない北条政権の権威失墜が明らかとなった。南北朝時代の動向は定かでないが、もともと安藤氏の勢力圏とされていた現在の下北半島にあたる糠部郡宇曾利郷には、大塔宮護良親王の後裔を称する北部王家新田氏、津軽田舎郡の浪岡には、陸奥国司北畠顕家の後裔を称する浪岡御所北畠氏が入部しており、南朝方優勢の状況にあった。
 室町時代中期までの安藤氏は、津軽平野の藤崎と津軽半島の十三湊に本拠地を置いているが、嫡流は下国家と称して津軽地方と渡島(北海道南部)、庶流は上国家を称して出羽秋田郡を支配している。蝦夷管領は下国家が継承した。
 安藤氏の凋落は、15世紀半ば、南部氏により攻められ、下国家が津軽を追われ、渡島に逃れたことに始まる。なお、かかる南部氏とは、北朝方であった三戸南部氏であろうと想定されており、南部宗家は根城南部氏(南部二郎家)から三戸南部氏(南部彦三郎家)に替わっていたとされる。下北半島では北部王家新田氏が家臣であった蠣崎氏により謀殺され(蠣崎蔵人の乱)、蠣崎氏は根城南部氏により征伐されている。このような動乱の背景には、足利将軍家の権威失墜があり、嘉吉の変、享徳の乱、応仁の乱を経て、世は戦国時代へと突入する。
 下国安藤氏は、たびたび津軽を奪回しようとするが、ついには嫡流当主が断絶してしまい、庶流であった潮潟安藤政季が南部氏の傀儡として下国家当主となり、下北半島田名部に入る。しかし、結局は安藤政季も南部氏に叛き、渡島へ逃れることになる。
 下国安藤政季はその後、上国家の誘いに乗って出羽河北郡の葛西氏を滅ぼし、檜山を本拠地とする。このときより、下国家は檜山安東氏、上国家は湊安東氏と呼ばれるようになる。政季は最後は家臣に殺され、激動の人生に幕を下ろすが、子孫の安東愛季は戦国大名として上下安東氏を統一し、その子安東実季は秋田氏に改名し、近世大名となった。

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