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#26 南部藩下屋敷その後

 東京駅近くの総合商業施設KITTE内にあるインターメディアテクで開催中の特別展示「都市―エドキリエズ―」を見てきた。展示されていた各種江戸切絵図の中に文久元年(1861)「東都麻布之絵図」があり、盛岡藩下屋敷を示す「南部美濃守」がど真ん中に描かれていた。盛岡藩南部家の歴代藩主で美濃守に叙されたのは第14代南部利剛しかいない。最後の藩主ではないが、利剛の代に黒船来航、明治維新、戊辰戦争があり、幕末の動乱の表舞台に立たされた。
 盛岡藩下屋敷は、現在の東京都港区麻布周辺にあり、南部坂の地名が残されている。明治29年(1896)に有栖川宮家御用地となったが、大正2年(1913)、有栖川宮威仁親王が薨去されると男系嫡子のいない有栖川宮家は断絶となり、その祭祀を引き継いだ大正天皇第三皇子光宮宣仁親王に有栖川宮の旧称である高松宮の称号が贈られ、邸宅もすべて引き継がれた。高松宮宣仁親王は、児童福祉に深い関心を寄せていたとされ、有栖川宮威仁親王の20周忌にあたる昭和9年(1934)、当地を東京市に賜与し、記念公園として一般開放されたのである。昭和50年(1975)には東京都から港区に移管され、現在は区立公園(有栖川宮記念公園)になっている。公園内に東京都立中央図書館があるため、筆者は何回も訪れたが、威仁親王の異母兄である東征大総督、有栖川宮熾仁親王の騎馬像(大熊氏廣作)が建つ。これは元々、明治36年(1903)に千代田区三宅坂に建立されたものだが、昭和37年(1962)に所縁の当公園に移設された。ちなみに、庭園内はかなり比高差がある。
 なお、前述の江戸切絵図をよく見ると、「南部美濃守」の道を挟んだ向かい側に「南部遠江守」と見える。これは盛岡藩支藩の一つ八戸藩下屋敷(麻布一本松屋敷)であり、絵図にある天真寺(臨済宗大徳寺派)は現在もほぼ動いていない。当時の藩主は第9代(最後の藩主)南部信順であったが、実は信順は薩摩藩島津家の出身であり、薩摩藩第8代藩主島津重豪の十四男として生まれた。特に重豪の曽孫である島津斉彬とは親交が篤く、お由羅騒動では幕府とともに斉彬擁立に尽力している。また、斉彬・天璋院(篤姫)とともに日蓮宗富士門流大石寺(現在の日蓮正宗)に帰依したことでも知られる。
 戊辰戦争では、盛岡藩・七戸藩とともに奥羽越列藩同盟に参加したが、その出自から常に動向を疑われており、野辺地戦争では盛岡藩兵と協力して弘前藩・黒石藩の侵攻を撃退している。と同時に早くに新政府側に寝返った久保田藩と連携し、新政府側との連絡も欠かさなかった。

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