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アルルの女 5

「あの話って、本当に、一貫してフレデリの葛藤だけを書いてる気がするんだよね。女の人の反応は全然書かれてないの、舞台に登場すらしないし。

 彼が、勝手に好きになって、振り回されてるだけなの。実は相手は人間ではなくて、人形だったって説があっても、ああそうかって思っちゃいそうなくらい。

 結婚して欲しいって言われたら応じるし、断られても文句を言うでもないし、昔の男に誘われたら駆け落ちしちゃうし。容姿が優れてるってこと以外に、その人にはなにがあったんだろうね。

 たぶん、フレデリが自分に恋い焦がれて自殺したって聞いても、その人、特にショックも受けなかったんじゃないかな。かわいそうだけど、そんな気がする」

 窓の外で、腕を組んでにこにこしながら歩くカップルが何組も通り過ぎていく。日本ではそれほど目にしない風景に思われる。

 一人で生きていくことが難しい国では、恋に敗れても落ち込んでいるひまなんてなくて、何度でも相手を見つけ続けなければいけないのだろう。フレデリがいた文化がどういったものだったのか詳しく知らないが、彼はこういうところにいても、その中で要領よくやっていける人ではなかったのだろう。

 もしくは、一人の人のことだけを思って死んでしまうような人は、ケーキばかり食べていてほかの食べ物は受けつけないような人であるのかもしれない。それではやはり、長生きはできない。それとこれとは別でしょうと言われそうだが、つきつめて考えると結局はそういうことなのではないか。

 自分は幸せな気持ちしか受けつけられませんと、外部からやってくるものを頑なに拒む人は、やはりどこかずるいのだ。幸せを得るためには、それに見合った不幸せも受け入れなければいけないのが筋ではないか。だいたい普通の人は、なにもないところから、少しずつ努力して、徐々になにかを得ていくものだ。なにもしていないくせに、偶然降ってきた幸せのかけらが手をすり抜けて消えてしまったからと言って、もう生きていたって仕方ないなんて、彼は彼で何者かに弄ばれた被害者なのかもしれないが、それではあまりに身勝手だ。

 青野君が、そろそろ出たそうな気配を漂わせ始めたのに気づいて、慌ててコーヒーをもう一杯頼む。手元になにかあれば、よほど特別な事情がない限り、私を一人置いて出ることはない。彼はよくも悪くもそういう人だ。

 こうして、どうでもいい時間をだらだら引き延ばしても、ますます私の印象が悪くなるだけだとわかっていても、そうせざるを得ない。少しでもいい人のまま記憶に残りたいなんて、今となっては、そんなことはどうでもいい。

 普段はもう少し客足があるので、そういうときだったらお店に気を使って「そろそろ出よう」と言えるのだろうけど、今日に限って店内はがらがらだ。私が定期的に注文するので、おかみさんもにこにこして、いつまでも私たちの滞在を歓迎しますと言わんばかりだ。

 にこにこできないのは青野君だけで、そんな彼の様子を目の前に、私はここに居続けることをやめられない。そうは言っても、五時くらいが限界だろう。残りはあと三十分を切っている。さすがに、そのころになったら彼は、新たな注文をしようとする私に「ラストオーダーの時間だな」とでも言うのだろう。彼のほうから出ることを促される前に、私から言い出さなければいけない。そうしないことには、今日がいつも通りに終わってくれない気がする。

「続きは?」

「続き?」

「まだなんか言い足りないじゃないか?」

「ないことはないけど、なんかわかんなくなってきたかも……。また今度にするね」

 今度なんてない。こうして私たちが一緒にいるのは見知らぬ外国にいるからであって、日本に戻ってお互いが普段いる場所に戻れば、もうこうしてお茶を飲むこともないだろう。そう言えばとりあえず収まりがつくので、そう言ったまでだった。

 口に出すつもりはないものの、一人続きを考える。フレデリは、やはり生きるべきだった。女性に、ほかの男との過去があったことがいたたまれなくて、そんな心の狭い自分のことも許せなくて、でも新たな一歩を踏み出そうという振りだけはしていた。女が昔の恋人と駆け落ちしたことを知って、もう完全に失ったのだと知って改めて、自分の思いは自分ではどうにもできないほどになっていたことがわかったが、もう遅かった――、そのことも含めて、逃げださず全てに立ち向かってこそ、彼女のことを全部愛したと言えたのではないか。代わりに違う女性と結婚し、だましだましそこそこの家庭を築いて、ある程度まで長生きして、どこか偽物のような人生を全うしてでも借りを返してこそ、なにもかもが、それこそ、オセロの黒が全部白に変わるように、寿命が尽きるころにはすべて報われたのではないだろうか。

 彼にはそこまでしてみてほしかった。全世界に向けて「自分にとってはあの恋が全てだった。今となっては抜け殻同然だとしても、これが俺の生きざまなのだ」と宣言してほしかった。

 どこまで行けるか、試してほしかった。そういう物語だったら、私の好きなあの曲は生まれなかったかもしれないにせよ。


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