水の記憶 後半
「すみません、僕、人の顔をあまり覚えられないんです。どこかでお会いしたんでしたっけ」
相手に不快な印象を与えないよう配慮した様子に、祥子はますます慌てた。
「もしかして、この間一緒に調査に行った学生さんですか?」
「違います、あの、この間、一年前くらい、夏の暑い日に、講演されてましたよね。森林内の水循環をテーマに。あのとき会場にいたんです。だから、あの時の方かなと思って、ついじっと見てしまったんです。失礼しました」
祥子はしどろもどろになりながら、どうにか返答した。
「ああ、あの時の。つまらない話で、すみませんでしたね」
「いえ、とてもきれいな写真ばかりで。感動しました」
「ああいう写真、好きなんですか?」
「はい、どれもこれも、水がどうやったら一番きれいに見えるか、考え抜いて撮られたもののような気がして。感心してしまいました」
言ってしまってから、「感心した」なんて偉そうだったと思い、うつむいた。
「特に考えて撮ったわけではありません。僕にはただ、わかるんです」
祥子は驚いて顔を上げた。彼の表情からは、特に何も読み取れそうにない。
「今日の展示も、実は僕が陰でお手伝いしているんです。あの写真が気に入ってもらえたのなら、こちらも気に入ってもらえたんじゃないかと思うのですが」
「はい、とても」
祥子は力強く首を縦に振った。
「でも」
「なんでしょう?」
「なんだか、私、よくわからないんです。とても心惹かれるんですけど、なんなんだろうって思ってしまって。考えても仕方ないのかもしれませんが」
祥子は聞いていいのかどうか迷ったが、聞いてみることにした。
「水の起源って、けっきょく何なんですか?」
彼は五秒ほど何かを考えているようだった。
「よかったら、お茶でもしませんか」
二人は会場と同じビルにある、喫茶店に入った。
「あの、私、なんて言っていいかわからないんですけど、すごいなと思いながら、どうすごいかきちんと説明できなくて、すみません」
「いいんですよ。気に入っていただけたのなら、それでいいんです」
彼は涼し気な笑みを浮かべた。
「さっき、『ただわかる』って言われていたのは……」
彼は不思議そうに祥子を見る。
「ああ、写真のことですか?」
祥子はこくんとうなずいた。
「僕は、かつて水だったんです」
この人何言ってるんだろうという思いと、それなら納得できるという気持ちが、同時に沸き起こる。
「信じて欲しいとか、そんなことを言うつもりはありません。夢物語だとでも思って聞いてもらって構いません。ただ、あなたがあれらの写真に興味があるなら、お話してもいいかなと思ったもので。
僕は、ここに生まれてくる前までは、ずっと水として、地球上をぐるぐる回っていたんです。川にいたり、湖にとどまってみたり、海に出て、そしてまた蒸発して、空の上で雲となり、地上に降りてきて……。そういうことを、ずっと繰り返してきたんです。数えるのも無意味なくらい長い間、ずっとそうしてきたんです」
「飽きなかったんですか?」
「どうだったのかな。水だったとき、自分が何を思っていたのかは、もうよく覚えていないんですよ」
祥子はコーヒーを一口飲んだ。コーヒーの味を確かめたかったわけではなく、話を飲み込むのに少し時間が欲しかったのだ。
「先生は、そうやって、水だったことを、川にいたときのこととか、海にいたときのこととか、誰かに飲み込まれたとか、全部覚えているんですか?」
「それは、なんとも言いようがありませんね。記憶にあったとしても、全部思い出せるわけじゃない。あまりにも膨大な時間ですから」
祥子はとりあえず頷いてみせたが、話を理解したからではなかった。
彼はそれを、話し続けてよいという合図として受け取ったようだった。
「思えば僕は、物心ついたときからずっと、水のことをよく知っていたんです。子供のころ、家族で出かけるときには、必ず水のあるところを希望していました。海だったり、川だったり、湖だったり、湧き水の出る山だったり。僕は、そういうところで水に触れてじっとしていることを、こよなく愛する子供でした。
ある程度大きくなって、高校生になったころだったか、僕は自分が水については、ずいぶんみんなが知らないことを知っていることに気づいたんです。図書室に置いてある本をちょっと見て、どんなことが書いてあるかだいたい予想がついたりだとか、予想できないことでも、一度読めばあらかた内容が読み込めてしまったりだとか。
大学に入って、水の生まれるところへもっと行きたいと思った。山に関する学問がいいと思い、この分野を選んだんです。そこでも僕は、水理学だとか水文学だとかは、授業を全くきかなくても既に理解できました。もともと勤勉ではないので他の教科は全然できなかったけれども、そうして水に関する知識を求め続けていました」
彼は少し話過ぎたと思ったのか、祥子がなにか話すまで待つ素振りを見せる。
「先生は、全然日焼けしないんですね」
「それも不思議に思っていたんですが、普通の人よりも肌の水分が多いみたいなんですよね。だから、冬になっても肌荒れとは無縁なんです」
声を出して笑う気にはなれなかったが、とりあえず少し微笑んでみた。
「水になる前は、どこにいたんですか?」
「宇宙にいたようです」
「宇宙にいたときのことも覚えているんですか?」
「たまに夢にみているような気はするのですが、起きたら大抵忘れているので、きちんとお話することは難しいですね」
「その前は」
「それ以上古いことは、全然わからないんです。きっとそのあたりが始まりなんでしょう」
水の起源、と頭の中でつぶやいてみる。
「先生は、いつから自分が水だったと思うようになったんですか?」
「先週くらいからです」
「ずいぶん急ですね。今までも、たまに水だったころの記憶がよみがえっていたんでしょう? つじつまが合わなくないですか?」
「今までは、単に妄想だと思っていたんです。でも、その記憶は本当のことだったんだって、それがわかったのは最近ということです」
祥子は視線で、話の先を促した。
「来月、僕は三十三歳になります」
自分よりも十歳以上年上だったのか、と意外に思う。
「この体は、三十三年以上は持たないんです」
「誰がそんなこと決めたんですか」
「生まれたときから、決まっていたんです」
祥子は静かに首を横に振った。彼は、なだめるような優しい目をした。
「もちろん、そんなことずっと知っていたら、安心して生きていられません。だからこうして、直前になると思い出すように準備されていたんだと思います」
彼はいったん言葉を区切った。何を言うべきか、窓の向こうを探しているようだった。
「信じろというほうが無理ですよね。ただ、誰かに話したいと思ったんです。ついていけないからやめて欲しいというのであれば、話題を変えましょう」
「いえ、聞きたいです」
彼はそっと頷いた。
「多分、僕は来月にはもうここにはいない」
「……」
「でも、そういうのは全部僕の幻想で、何も起こらないかもしれない。ただ僕が最近寝不足で過労気味だから、おかしなことを考えているだけなのかもしれない。信じる信じないは自由です。強制するつもりはありません」
「なんで私にそんな話を」
「僕にもよくわかりません。誰にも言うつもりはなかった。言っても頭がおかしいと思われるだけだから。でも、きっと消えていく前に、誰かに言ってみたかったんだ。それにあなたは、僕の写真を気に入ってくれたから」
彼の表情が、一瞬ささやかな風を受けた水面のように揺らいだ気がした。
「身近な人には、こんな話できないですからね。あっという間に噂が広まるでしょうし、心配されたり、騒がれたり、そういうのに巻き込まれたくないですから」
椅子を引く大きな音がした。隣の席のカップルが、席を立ったのだった。
「あの、先生は都心にはよく来られるんですか?」
「はい、月に何回かは。普段住んでいるのが田舎なので、休日はたまに都会に来たくなるんです」
「じゃあ一月後、来月の第三土曜日、ここで待ち合わせしましょう」
「生きていたらね」
「悪い冗談はやめて下さい」
二人のコーヒーカップはかなり前に空になっていた。いつの間にか、外には順番待ちの列ができていた。
「そろそろ出ましょう」
彼は、伝票を手に取ると立ち上がった。
一月後の第三土曜日、祥子は祈るような思いでその店へ行った。待ち合わせの時間の三十分前に店に入り、コーヒーを三杯お替りしたが、彼はやってこなかった。
あの時と同じ席に座り、一月前の会話を思い出していた。
厚い窓ガラスの外の音など聞こえるわけはないのに、何か音がした気がして外を見ると、雨が降り始めたところだった。
彼を待つ間、彼女は無言で雨を見続けていた。
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