親として子として(雑感)

誰しも、自分なりの色眼鏡をかけて世界を見ているものだ。透明で客観的な眼鏡など存在していない。誰の眼鏡にも色がついている。真に客観的な歴史観が存在しないのと同じように。歴史上のいくつかの出来事を選択しそれらを並べた時点で、すでに恣意性が生まれている。生きるということはすなわち自分色の眼鏡で世界を見るということだ。

noteのたくさんの記事は、色とりどりの眼鏡から見た、様々に切り取られた世界の一面を味わわせてくれる貴重な窓だ。


子どもからみた親への眼差し。親からみた子どもへの眼差し。
このテーマに対する思いが、僕の中で少しずつ積もって来たように感じている。

親に対して「本当は親にこうしてもらいたかった」とか、「こうしてもらったのが嬉しかったんだ」とかいう思い。

子に対して「だから、子どもにこうしてあげたい」とか、「こうはしたくない」とかいう思い。あるいは、「自分のことでいっぱいでそれほど心を向けられない」ということも。「思いはあっても、行動が伴わないんだ」ということも。

親と子の間にあるつながりと連鎖は、まっすぐなものもあれば、複雑に絡まったり歪んだりしているものもある。また、そこには時代や経済状況やタイミングや病やいろんなものが圧倒的な力で介入している。

親の眼鏡も、子の眼鏡も、違う色をしている。目的と行動と結果は一つながりではない。「こうしてあげたい」と思って「こうした」ことがまさか「そんなふうに受け取られているとは思わなかった」ということはたくさんある。

そういうものなんだろう。自分の思いや言葉や行動も、伝えたいと思った通りには伝わっていない。そして僕が感じてきたものも、もしかしたら感じ取っている僕の方が間違っていたのかもしれない。じゃあ、話して答え合わせをしたらと言って、本当の気持ちなんて簡単にわかる?自分の気持ちすらわかっていないのに。

同じ世界に生きて、同じ景色を見ているのに、違う世界を見ているということがある。それは親子でも、夫婦でも。ましてや他人ならなおさら。

僕は何をいちばん伝えたいだろうか。何を遺したいだろうか。何を共有したいだろうか。

顔を撫でて、頬を合わせて、手を握って、抱きしめて「あなたと一緒にいることが嬉しいんだ」という気持ちだけは、伝えたいかな。大切な人には。
ぬくもりというのは、言葉を超えて、身体の記憶に残る気がするから。

その他は、付け足そうとするとどんどん欲張りになっていくのが怖い。「こうしてあげたい」「ああしてやりたい」「これを伝えたい」やればやるほど怖い。その他を追い求めていくうちに、一番伝えたかったものが伝わらなくなっていきそうなのが怖い。怖がっても仕方ないのだけれど。

「健康で、笑顔でいてくれたらそれでいい」
そんなありきたりな言葉も、なんだかしみじみとした、深い願いだなぁと思う。

人の気持ちなんてわからないものだ。ようやくわかった気がしたころには人生の幕は閉じてしまうんじゃないだろうか。そういう意味では順繰りなのかもしれない。気が付くころには終わっちゃう。
あの人の気持ちもこの人の気持ちも、僕に届かないまま。そして僕の気持ちも伝わらないまま。
寂しいかな?うーん、伝わらないことを寂しいというなら、寂しいのはデフォルトだ。

だから、分かり合えていると感じたならそれは奇跡のようなことだ。それも双方がそう感じているのなら、素晴らしく美しい瞬間だ。寂しさを知っているからこそ、なおさら有り難く。


…そして、こんなことを考えているのもまた一つの、僕の色眼鏡。

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