見出し画像

外資系コンサルタントに憧れて......

私は1978年2月に愛媛県で生まれました。祖父は農業を営んでいて、田んぼや畑に囲まれた一軒家で育ちました。家には、同じ市内でもめずらしい、薪でお湯をわかす五右衛門風呂と汲み取り式の便所がありました。もっとも近い無人駅に行くのですら徒歩で30分はかかる田舎で、人気のアニメを放映する広島ホームというチャンネルが我が家では観られませんでした。

小学校6年生のときに父親の転勤をきっかけに大阪に引っ越しました。駅前には、それまでテレビのコマーシャルでしか観られなかったハンバーガー店があり、デパートや家電量販店でいろいろな買い物ができ、歩いて行けるところにはコンビニまであり、子ども心にも「都会ってすごいな」と感動しました。

阪急電車で20分ほどの梅田駅から歩いていける、旭屋書店が私のお気に入りでした。参考やコーナーの書棚には、通信添削のZ会のカタログでしか見たことがない教材がずらりと並んでいました。8階建ての店内を行き来しながら、田舎にはないものが都会では手に入ることや、世の中にあるものごとを体系立てて知ることの楽しさをこのころに覚えた気がします。

その後も、大学を卒業するまで大阪で過ごしました。心理学を学ぼうと入学した人間科学部では、アフォーダンスという認知科学の理論を卒論のテーマに選びます。大学の授業は卒業に足る程度にとどめ、研究室に足を運ぶことも少なく、大半の時間は軽音学部でのバンド活動やアルバイトに明け暮れていました。焼き鳥チェーン店でホールや洗い場の仕事もしましたが、家庭教師や個人指導の塾講師、模擬試験の採点などのほうが楽しく気軽にやれました。

大学3年の終わりころから徐々に就職のことを意識するようになり、学部を卒業したOBの説明会をきっかけに、コンサルティングの仕事に興味をもちます。一つの会社で長い期間をかけて決まった業務を担当するイメージのあった事業会社に比べて、複数のクライアントを相手にさまざまなプロジェクトを通じて課題の解決に携わる姿を知的に感じ、外資系のコンサルタントに憧れるようになりました。

当時は、採用の応募には紙の履歴書やエントリーシートを郵送するのが主流でした。新しいものに興味のあった私は、率先して就職活動にインターネットを使いました。「ジョブウェブ」や「わいがや」などのメーリングリストで業界や企業の情報を得て、自分でもホームページや掲示板を使って受けたセミナーや面接を通じて考えていたことを発信しました。

外資系企業の説明会や面接は東京だけで開催されることが多く、上京するたびに印刷した地図を片手に慣れないオフィス街を歩きまわりました。「いったい、大阪のキタとミナミに相当する繁華街が山手線の中にいくつあるんだろう?」、と驚きながら、大都市であることを肌で感じました。

縁あって入社を決めた外資系のコンサルティング会社は、入る前に英会話スクールに通わせてくれたり、同じ年の中で入社する時期を選ぶことができたり、フロリダでのプログラミング研修があったりと、私が知的な仕事をできるようになるのに必要なすべてが揃っているように感じ、期待に胸を膨らませていました。ところが、憧れの自分がすぐ手の届くところにいるという期待は、はかない夢だったと思い知らされるのです。

この記事は、倉園佳三さん・佐々木正悟さん主催「書き上げ塾 第九期」を受講して書いたものです。マガジン形式で更新していきます。

次記事はこちら


サポート頂いたお金は、人が情熱や才能を発揮し輝くお手伝いをするのに使わせて頂きます。