SNS・エコチェン時代の行政への「抗議」「要求」への対応について

歴史認識に関わる問題での保守派の「抗議」が効果を持つパターン。行政が受け身に対応→「騒ぎ」になったことへの対処を攻撃されている側に求める→攻撃側の主張に沿った姿勢、論理に変える。これはヘイトスピーチや、ジェンダー関連や性教育への攻撃でも繰り返されてきた。

群馬の森の朝鮮人追悼碑の件でもそうだが、行政が積極的、肯定的に進めてきた施策でこそこういう屈服、転換が起こる。行政事務への支障の回避、責任追及の回避、そういう防衛心理に付け込まれるし、行政トップなどに思い入れがなかったり攻撃側に同調する思想を持っていたりすると転換が促進される。

行政は当初「中立性」の建前で受け身だったり、静観したりしがちだが、ここでまず行政が元々は推進、肯定あるいは容認の立場だった事実が切り離される。それで収まらないと、攻撃側に寄り添うように論理を組み立て直す、「中立性」の建前も「行政の無謬性」の建前も堅持したままに。

ここで根拠にされるのが「事情の変化」だが、それが攻撃側に都合のいい形のストーリーにされる。実質的に「中立性」は放棄されているのだが、客観的に事情が変わったかに提示される。こうやって、どちらの主張が正しいのかの判断を公にすることを回避しつつ、大きな転換がなされる。

しばしば深刻なのは、その転換がなされてしまうと、その転換後の立場が新たな起点になり、前提になってしまうこと。そうして、結果として攻撃側の主張が実現し守られるべきものとなってしまう。これはまさに「慰安婦」「強制連行」などで起こってきたことだし、性教育などでもそう。

これは暇空問題でも同型。そもそも政治的な判断が働いて暇空の住民監査請求が受理されたように見えるが、いずれにせよ、暇空らに対し都は受け身で、積極的に若年被害女性等支援事業と受託団体を守る姿勢を示さず小池知事も前に出なかった。妨害の激化に対処を求められたのは被害者のColaboの側だった。

さらには、補助事業化等の変更で一方的にしわ寄せを受けたのが非のない女性支援団体の側だった。当然この間都の職員も尋常ならざる負担を強いられているのだが、組織としての都庁の防衛が優先されたし、その心理、習性が利用された格好だし、それが暇空らを勢いづけ、持ちこたえさせている。

改めて深刻なのは、歴史認識、ジェンダーあるいは人種・民族差別、LGBTQ+差別、障がい者差別といった問題で行政が積極的な姿勢を示すことが躊躇われ、施策を展開する上でも「言い訳」が伴い、それが被差別者などを傷つけたり不利な状況を作ったりといったことが多く見られること。

首長が積極的な姿勢を示し施策が推進されても、それ故に猛攻撃を受けていたそのトップが変わると(しばしば引きずり降ろされる格好になる)、行政は逆回転しがちだ。しばしば、トップが「行き過ぎていた」という政治的誤りの問題にされ行政の無謬性は守られて。

群馬の森という公共の場に朝鮮人追悼碑があることの意味は以下で書いた。物理的に碑が撤去、破壊されたことは歴史修正に群馬県が加担したに等しいし、開かれた対話を、公論を阻害するもの。でも、それは新たな議論、対話を喚起するもの。閉じさせないこと、終わらせないこと。


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