「性の商品化」批判と法的介入の根拠について――性的主体構築のメカニズムを問う

以下は私の修士論文「「性の商品化」批判と法的介入の根拠について――性的主体構築のメカニズムを問う」からの抜粋である。全文は各大見出しの下にPDFを置いた。

性の商品化と自己決定

奴隷化と身体への自己決定

性の商品化とは、他者の性、そして身体をモノとして一時所有/使用する/しようとするものであると言うことができる。それは、加藤のいう意味での奴隷化する行為である。これに対して、モノとされているのは他者の身体であって、他者の存在そのものではない。その他者がその身体の使用に同意しているのであれば、奴隷化ではないという反論があり得る。だが、立岩と浅野の指摘によれば、これは当たらず、加藤の主張はその反論そのものの無効を宣言している。だが、加藤はなぜそのように言い得るのか。実は、加藤は上の議論に続けて、「本質的に譲渡の可能性を内蔵する所有という概念は、私の身体が私ではない他人のものになりうるということを認容することによって、すでに私の身体において生きる私という存在そのものを潜在的に脅かしているのではないか」と問い、「身体に関する「自己所有権」から「自己決定権」へと移行すること」を探求の目標とする。

性暴力とモノ化

加藤の言う<奴隷化>を翻案すれば、それは<私>の存在をモノとしての身体、モノそのものに縮減し、それを簒奪するものである。それは、<私の身体>をモノとし、<私の身体>というあり方を破壊するものである。それは<私>と<身体>との間に亀裂を生ぜしめる。それを敷延すれば、暴力とは、<私>の存在をモノとし、破壊することである。そうであるなら、破壊という行為が行われた瞬間に、<私>はモノになっているのであり、またモノとする、モノとして名指すことは、「モノ」というあり方が既に破壊の可能性を含むが故に、それ自身暴力的振る舞いである。

セックス・ワークの両義性

性の商品化が、身体を何らかの形で使用させることであるのならば、自己決定と他者に<私>の存在ではない何かを使用させることは両立可能なのであろうか。言い換えれば、<私の身体>即ち<私>の存在が毀損されず、減らされない――減ったとしても、容易に再生産可能な――仕方で使用させること、モノとされない仕方で使用させることは可能なのであろうか。そして、可能であるとして、その場合の対価性(=モノ化)をどう考えればいいのだろうか。存在の評価(=価格付け)ではなく、生産行為・サービス(=労働者ではなくその労働)の評価ということになるのであろうか。言い換えれば、存在に関しては匿名(=評価の対象としない)でありつつ、生産行為・サービスの担い手としては匿名でなくあり得る(=評価の対象としうる)形の労働があり得るのだろうか。

存在とは、自-他という意味での「個」であると同時に、関係性である。即ち、関係により常に再規定されるものである。存在とは他者との出会いによりその都度開示されるものである。それは、偶発性/未決定性、改変可能性を孕んでいる。これに対して、モノ化する動きである商品化は存在を予め決めてしまうものであり、「緩い自己決定」に反するものであるが、そう考えると、性の商品化はそれ自体として否定されるものであり、逆に言えば、「性の商品化」という言葉が指し示す行為が実は商品化ではなく、上で述べた意味での労働に比することができるのであれば、肯定できるということになる。もっとも、労働にはこの非人間化の契機が含まれているのではあるが。

以上に留意すると、「セックス・ワーク」をこの意味での労働と捉えたとしても、そこに孕まれる両義性あるいは亀裂が浮かび上がってくる。①サービスの評価だけでなく、存在評価を伴う/伴い得る。②性は身体経験であると同時に心的経験であることから、ワーカーにおいては性サービスの切り離し/部分化(の擬制)が求められる。③そこで行われる行為は純粋な身体的/物理的行為(接触)ではなく、心的に他者を必要とするものである。ワーカー-客は他者でありながら、「切り離された/部分化された性サービス=モノ」という意味で、または「ワーカー=モノ化された存在」という意味で他者ではない。④性サービスは演技性(=フィクション性)と生身性(=ノンフィクション性)の微妙なバランスの上に成り立つので、ワーカー-客は疎遠でありつつ親密性を仮想/仮装している。⑤不可能な関係が可能な関係として成り立つ。性的関係は偶発的与件に左右されるのであるが、商品化/貨幣の媒介という契機は偶発的与件として同位に置くことができるのであろうか。そうではなく、暴行、脅迫、権力濫用(例えば、セクシュアルハラスメント)・・・などの不当な手段と同様に考えるべきなのであろうか。⑥ワーカーは川畑智子が論じるように「娼婦ラベル」を貼られることで、一人の端的な存在ではなく、「娼婦存在」となるのではないか。

このように考えると、セックス・ワーカーがこれまで述べてきた意味でモノ化されていないと言い難くなる。また、後述するが、ポルノの被写体となることについても同様に考えることができる。だが、これらの契機は、他の労働や行為、例えば、演劇・映画・テレビ・モデル、あるいは介助・介護、接客業、教師などにおいて一つ以上が当てはまると考えられるし、また、②において切り離し/部分化が可能であれば、とりあえずワーカーの自己決定が確保されると言い得るかもしれない。但し、浅野は先に引用した通り、その困難性を指摘する。

そもそも、セックス・ワークが成立することにおいては、性的存在、さらには性的身体として成立させる視線/権力が存在する。だから、「(性的)自己決定」とは、そのように成立させられた存在/身体の自己決定ではなく、その成立の場そのものに対する自己決定と考えることはできないだろうか。つまり、売買春・ポルノという問題設定そのものの拒否の可能性であって、その問題設定を受け入れる時点で、真の意味での自己決定は不可能なのではないかと考えるのである。さらに言い換えれば、性の商品化の場で成立するのは、擬制されて構築された主体ではないか、ということである。性の商品化の場面では、予め存在する主体が自己決定するのではなく、自己決定するものとして事後的に構築される――そう仮定してみることで、ここまでの議論から一つの見取り図が得られるのではないか。

性の商品化における主体の成立/偽装

性の商品化は、その対象となった存在を引き裂く――「商品としての私」と「商品でない私」、「(性的)身体/モノとしての私」と「精神としての私」、「客観としての私」と「主観としての私」、「資源/道具としての私の一部分」と「それを処分/使用する私」。前者を制御し、決定するのは私ではなく、他人(買い手、業者・・・)であるが、その制御、決定は後者を含む私全体に及ぶ。いくら私が前者を切り離そうとしても、他者の視線は私全体を飲み込む。私は常にその視線から逃げつつ、私の一部をその視線に差し出さなければならない。だが、ひとたび危害(妊娠、性感染症、暴力、薬物・・・)が加えられれば、その境界も無化し、私全体を傷つける。その時に、私が差し出していたのは私の一部なのではなく、私の全てであったことが明らかとなる。

そして、「性的自己決定」は決定を行なう主体を前提とするが、その主体は、行為が決定を仮構することによって遡及的に構築されると考えたい。相手の欲望の対象となること、即ち相手の欲望に従う(subject)ことが主体(subject)を成立せしめる。つまり、ある存在を欲望の対象/客体(object)とすることは、その存在を反照的に主体として成立せしめる。それは、あくまでモノとしての/物質化された主体である。これを主体の側から見れば、決定の前、欲望される前に主体として成立していたのではなく、欲望されること、欲望の対象/客体となることで、事後的に主体として構築されるということになる。その主体の欲望は予めあったのではなく、欲望されること(欲望の対象objectとなること)で欲望する者(欲望する主体subject)となる。この者は他人の欲望の担体となる。他者との関係がないところに主体は成立しない。主体が有意となるのは、他者が存在するからである。しかし、他者との関係があるところでは、主体は無限定の存在、絶対の個ではない。主体は他者から認められるという契機を必要とする。それは主体が同時に客体でもあるということである。

売買春において、売り手は十全なる主体としてではなく、性的存在として立ち現われる。それは客体/対象としての性的身体である。それを立ち現われさせるのが性的視線であり、その背後にあるのが性的幻想である。そして、その存在は性的主体として偽装される。彼女の決定は自己決定ではなく、限定された「性的」自己決定である。彼女が性的存在として立ち現われるのは、買い手の欲望、買い手の性的「呼びかけ」によってである。否、売り手が個々の買い手が現われる前に、売り手として自らを提示しているように見える場合でも、彼女は性的幻想が充満した社会の性的呼びかけによって自らを性的主体として構築させられる。

なぜ、売り手が性的自己決定をなしうる性的主体とならなければならないのか。それは永田が言うように、売買春への参加が売り手の主体的な自己決定であると言うことによって、その行為に伴うリスクを彼女が負うことを強制するためである。言い換えれば、本来買い手が担うべき責任を免除するためである。そのリスクとは望まない妊娠、性感染症、心身の傷・・・などである。「正常な」性的関係であれば、パートナーの、もしくは両者の責任となるべきこれらのリスクが、売買春関係においては売り手が一身に負う。逆に買い手は一切免除され、フリーライダーの自由を得る。それを正当化する、及び/又はその見返りとなるのが対償の授受である。しかし、対償とはそのようなリスクの負担の移転までも包含して設定され、授受されるものであるのであろうか。それは通常は性的「サービス」の対価として認識されているのではないか。むしろ、リスクの負担の移転を正当化しているのは「娼婦ラベル」の効果ではないか。つまり、売り手は「予め」リスクを引き受けた主体として構築されているのである。対償はそれ自身としては性的サービスの対価として授受されるが、事後的にリスクの移転を正当化する「証拠」として作用する。つまり、「対償を受け取るのは娼婦であり、娼婦は予めリスクを引き受けている。相手は娼婦であるのだから買い手はリスクを負う必要はない」と。ここで起こっていることは、娼婦だから対償を受け取るのではなく、対償を受け取ることで娼婦であることを証明するという事態である。

もちろん、買い手の意識ではそのような事態は認識されていない。彼ははじめから売り手を娼婦として、性的存在として眼差し、欲望している。ここに暴力が存在している。つまり、性的存在として眼差されることを拒否できる存在としてあるはずの女が性的存在として眼差され、自己決定という根本的な決定をなしうる存在でなく、性的自己決定という限定された決定のみをなしうる存在へと縮減されてしまう暴力である。

性的存在たる娼婦、性的対象として欲望される娼婦、それはどのような存在であるのか。彼女は生身の身体として存在し、買い手に差し出されているのではない。彼女はまず幻想としてある。身体に幻想がはりつくのではない。幻想が娼婦の身体を構築する。娼婦の身体は欲望されることを欲望する身体として構築される。彼女の欲望は既にして他者(=買い手)の欲望である。

では買い手の欲望はいかなるものなのか。彼の欲望が幻想を作り出すのであろうか。そうではなく、彼の欲望そのものが幻想である。その幻想によって、彼の身体は欲望する身体として構築される。彼は欲望する身体を持つ者として自己同定する。彼の欲望は自らの欲望ではない。彼は常に「汝欲望せよ」と呼びかけられ、それに応えることで自らを構築する。

娼婦の身体も買い手の身体も単に欲望される/欲望する身体として構築されるのではない。それは性別化された身体として構築される。性別化とは、ジェンダー化とセックス化が二重に分かちがたくなされるということである。ジェンダーの前にある生身のセックス(オス/メス)にジェンダー(男性性/女性性)が重ね合わされるのではない。ここで作用しているのは、2つのセックスを決定的なかつ恒久的な差異として表象するジェンダー秩序である。同時に異性愛秩序(それは即ちジェンダー秩序)により、身体は他の性別(セックス/ジェンダー)に欲望するものとして構築される。それは、男/女、能動位置/受動位置、買い手の位置/売り手の位置という主体位置を占めるものとして主体を構築する。売買春はこの秩序を支えとする行為であるが、同時にそれを再生産する。先取りすれば、性的自己決定の前提条件とは、予め押し付けられるセックス/ジェンダー(の役割)を拒否することであり、そうして相対化した地平から相手との関係を結ぶことが性的自己決定の必須の要素となる。

以上は暫定的な結論と呼べるものであるが、何故にこのような主体/身体の構築がなされるのか、なされざるを得ないのか、欲望の源泉は何か、何故「(性的)幻想」が媒介となるのかといった点については、十分に解き明かされたとは言えない。

ポルノのもたらすもの

ポルノはどのような効果を持つと考えられるのか、あるいはどのような結果を引き起こすと考えられるのか。第一に、ポルノが(演技ではない)レイプなどの直接的暴力の描写である場合がある。この時、ポルノ製作そのものが暴力による傷を倍化させる行為となるとともに、製作されたポルノは被写体に対して以下に示すような発話内行為及び発話媒介行為として作用する。第二に、発話内行為的に作用する場合がある。ポルノ製作もポルノそのものも被写体がモノ/客体/従属位置を占めることを強制する行為となる。第三に、発話媒介行為的に作用する場合がある。これは女[1]に対する性的まなざし、即ち、女をモノ/客体/従属位置に置く秩序・価値観を(再)生産するものである。また、ポルノで描写された行為が模倣され、現実に女を侵害する行為を結果したり、現実に行われている侵害を正当化する役割を果たしたりする。この点で、売買春とポルノが分かちがたく結び付いていることが分かる。ポルノは売買春を肯定し、上で述べたような自己決定の主体の擬装的構築に寄与する。逆にポルノで描写された行為が売買春において実現する。上の秩序・価値観は男(描写者の位置に同一化する者。以下同じ)、女(被写体の位置に同一化する者。以下同じ)双方に作用する。女にとっては、女である自分が直接侵害されたという意味だけでなく、男がそのまなざしを獲得し、女/自分をそのようにまなざしていることを認識/想像するという苦痛の経験を伴う。それには特定のポルノを女が見る必要はない。ポルノが存在すること、それを男性が見ていることを知っているだけで十分である。

さらに、ポルノを見ることが欲望の主体を遡及的に構築する。欲望の主体があるから、主体が欲望するからポルノを見るのではない。そして、ポルノを見ることの背景には弱さ・受動性の否認・抑圧がある。自らが望む状況に自らを(幻想の中で)置くことで、支配の感覚を獲得する。ここでは他者の弱さへの想像力も断ち切られている。ポルノがあることで主体が構築されるというのは、その主体構築の過程で、その不可欠の要素として弱さが否認・抑圧されているということである。そして、ポルノでは、現実において不可能な支配が幻想において可能になる。ポルノはその現実性をもたらすものでなければならない。それは、現実には不可能なことであるが可能な現実である、ということである。同時に、その落差が欲望を構築する。

性的主体構築のメカニズム

「鏡像段階」と主体の成立

ラカンの鏡像段階論を彼の想像界・象徴界・現実界の議論に接続させつつ、筆者なりに翻案、再構築すると以下のようになる。生まれたばかりの乳児は今だ主体としての、ひとまとまりの自己としての意識を持っておらず、自らの身体をそれとして認識していない。また、例えば、指をしゃぶっていても、口で感じる感覚と指で感じる感覚はそれぞれ独立のものであり、関連付けられて認識されていないであろう。外界との境界もあいまいであり、他者の認識も――翻って自己の認識も――なく、自他は未分化の状態にある。空腹の不快さから泣き、それに応えて母乳やミルクが与えられるという因果関係、自らの泣き声が自らの欲求の表明であるという事実は明確に意識されていないであろう。乳首を噛むという行為は母乳を得るためになされる意識的な行為として行われている訳ではない。その状態から、「鏡像段階」を経ることによって、乳児は外化された像に自己を同一化することによって主体となっていく。

但し、筆者は、確かに乳児は鏡に映った自分の姿を見て喜ぶことは事実であるが、上で示したラカンのストーリーは寓話として読むべきであると考える。つまり、外界との関連付け、外界の分節化が、自らの行為と他者からの応答の中でその因果関係が認知できるようになっていく中で、可能になっていく。また、自らの身体を動かすことと、それによって得られる感覚や目にする動きがつながっていくことで、身体のまとまりを認識できるようになっていく。肌の接触や匂いで親しんでいた母親らが、ひとまとまりの身体、存在として認知できるようになっていく。即ち、自己認識はある瞬間に突如として達せられるのではなく、以上のような過程を経る中で獲得されていくと考える方がよい。とはいえ、それが内発的、自発的になされるのではなく、外界、他者との接触の中で、また自らの身体を視覚で外面から認識していく中で、鏡に映る自己の像として、他者の似姿として、自らの姿を想像していくことによって認識していくのである。つまり、彼/女は自らを外部に投影することで、言い換えれば、外部からの視線に想像的に同一化することで、自己認識を獲得する。それは既にして、疎外された自己イメージであり、自らの内に無/欠如を抱えこむことである。

しかし、これで「私」という主体が成立する訳ではない。「私」として社会的に存在するためには、社会的に了解可能な存在となるためには言語の獲得、即ち象徴界への参入が必要である。「私」として発話でき、その発話が「私」のものとして了解されなければ、その存在は人として存在していることにはならない。そして、それは無から自らの言葉を紡ぎ出すことではなく、そこに存在する言語/象徴界の法(Law, La Loi, 掟)に従うことである。その法に従うことで、「私」は自らの存在を分節し、確認することができ、他者に認めさせることができるのであり、自らの欲望を可視化し、その充足を求めることができるのである。

だが、そのような「私」、そしてその欲望とは一体何であるのか。それはあくまで、言語/象徴界の法に従って、分節、表象されたものであり、「私」そのもの、欲望そのものではなく、シニフィアンによる代理表象である。それはシニフィアンとして、他のシニフィアンとの関係においてのみ有意なものでしかない。それは、生の現実――というものがあるとして――に届くことはなく、現実はシニフィアンとして表象されることでしか得られない。そもそも、「生の現実」がそのようにしか表現され得ないということは、それが言語/象徴界の外にあるということではなく、そのようなものとして既に言語/象徴界の内部に組み込まれて、シニフィアンとして物質化/具現化(materialize)されているということである。だから、言語/象徴界の法に従うということは、シニフィアンによる代理表象で無/欠如を埋める絶望的な営為である。

では、何故にして、そのような言語/象徴界に参入し、その法に従わなければならないのか。それに答えるためには、「禁止」について考える必要がある。生まれた子どもが一定の間は自らの欲求が欲しいままに充足されることを求める。しかし、それはいずれ禁止に直面する。満足を断念し、あるいは延期することが必要となる。あるいは、それを別のもので代替し、または禁止から満足を引き出すことを覚えなければならなくなる。なお、この禁止は自他の間に楔を打つ、切れ目を生じさせることでもあり、上で述べた「鏡像段階」を構成する必須の要素であると考えられる。

さて、この禁止は欠如感をもたらし、その欠如を埋めたいという念を起こさせ、その埋め方を学習することを余儀なくさせる。それは、欠如を抱えた自らの存在を回復し、自己確認することを求めることであり、そこに欲望が生まれる。しかし、その欲望は自らの内から生まれるものではない。それは他者との関係の中で、他者の欲望を模倣することによって生まれるものである。それは、同時に他者に欲望されることの欲望である。これは、言い換えれば、想像的になされることであり、言語的に表象されて初めて達成可能なものとなる。だからこそ、言語/象徴界に参入せざるを得ないのである。

だが、上に述べたようにそれはシニフィアンによる代理表象としての欲望である。それ故、欲望は満足させることが二重に不可能なものとなっている。即ち、それは他者の欲望であるため、そしてその代理表象であるためである。だから、欲望は擬似的な満足は得られても、決して満足されることはない。そして、欲望は自らの内に抱えた無/欠如を埋めるために、常に生まれなければならないのであり、それは内在的欲求・欲望と区別できない形でそれを偽装する。

 他者の認識もここまで述べてきたことから導かれる。他者もまた想像的に得られたイメージであり、シニフィアンによる代理表象によってのみ認識可能となる。それ故、他者は幻想を通じてのみ到達可能であり――到達可能という幻想を得られるだけであり――、根本的には到達不可能なものである。

主体化/従属化(subjection)と固着/愛着(attachment)

「鏡像段階」のプロセスにおいて、否それ以前から、子どもは権力の下にあり、それによって主体化/隷属化するのであり、それを通じて固着/愛着の形成が繰り返される。そして、前節で述べた通り、欲望は主体化/従属化によって主体が抱える無/欠如を埋めることを絶望的に希求するのであるから、固着/愛着はその欲望とともにある。

主体は何よりも言語学的カテゴリーである。このことは、前節で述べたことを確認するものであるが、さらに、言語/象徴界への参入が自発的なものでないことを示している。だが、主体化/隷属化は可能性の地平でもある。

「呼びかけ」の原理

ここまで見てきた主体化/従属化において、それはまさに権力の働きであることが明らかになった。では、権力はどのようにして働くのであろうか。バトラーが着目し、展開したアルチュセールの「呼びかけ」の原理がそれを説明するように思える。これは、法の呼びかけに振り向くとき、その振り向く行為によって主体が生まれるというものである。アルチュセールは、通りで警官が「おい、お前、そこのお前のことだ」と呼びかけ、呼びかけられた個人が振り向く場面を設定して、それによって彼は主体となると論じ、この寓話から、イデオロギーが「諸個人の間から主体を《徴募》し(イデオロギーは諸個人のすべてを徴募する)、また諸個人を主体に《変える》(イデオロギーは諸個人のすべてを変える)ようややり方で《作動》し、《機能》している」ことを説明していく。だが、バトラーはなぜ振り向くのかを問う。

主体は、遡及的にしか語ることのできない前史から法に服従しており、主体は法への服従によって生まれるが、先に見たように主体は言語学的カテゴリーであるのだから、法以前の主体も、法の外の主体もあり得ない。主体は常に既に法に服従しているのである。

主体にとって、主体化/従属化以前には自己意識としても存在しない。だが、我々は主体化/従属化以前の存在を見、指示することができる。実は、この振る舞いが主体化/従属化以前にその限界を画しているのではないか。つまり、我々は、生まれた子を名付け、彼/彼女に呼びかけ、欲望を持つ主体として扱う。即ち、赤ん坊を言語/象徴界に組み入れ、その法に服従させる。そもそも、胎児の段階、命名前の段階からその存在は一個の存在として呼びかけられる。権利の、独立のという意味ではないにせよ、既にこの存在は主体として構築されている。

だが、我々の振る舞い、そこで行使する権力もまた我々の主体に起源を設定することはできない。我々の権力は服従により獲得されたものであり、我々が行使された権力を反復するものである。我々がこの存在に呼びかけるのは、そう呼びかけることが法によって条件付けられているからである。但し、行為体の概念はこの反復が別様になされる可能性、我々が条件付けられている法を攪乱する可能性を示している。

また、我々は呼びかけを、その存在を様々なカテゴリーに属させるながら行なう。そこにおいて、男/女という性別カテゴリーは基本的と/本質的とみなされる。

性別の「規制的な規範」とその物質化/具現化(materialization)

性別(セックス)は予め存在する主体が身に付けるものではなく、主体即ち話す「私」は性別(セックス)を引き受けるプロセスを経ることによって構築されるのであって、異性愛の命令が言説の手段を用いて、一定の性別化されたアイデンティティの形成を可能にし、他のアイデンティティの形成を予め排除/否認する。主体化/隷属化以前に性別(セックス)はない。「ジェンダー関係のマトリクスは「人間」の出現の前にある」。そして、我々が赤ん坊を性別カテゴリーに同一化させて呼びかけるのも、赤ん坊が予め持つ性別(セックス)を「発見」するということではなく、規制的な規範、法を引用、反復するパフォーマティブな行為である。

以上のような理解は、身体の物質性は言説の効果でしかない、「単に一揃いのシニフィアンに還元できる言語学的効果でしかない」と主張するものではない。そうではなく、物質の概念を「場所又は表面としてではなく、私たちが物質と呼ぶところの境界、固定性及び表面の効果を生み出すために、時を越えて安定させる物質化/具現化のプロセス」と捉えることである。「言語を用いて、物質性を言語の外部に措定することは、依然として、その物質性を措定することであり、そのように措定された物質性は、この措定するということをその構成条件として保持する」のであり、「記号以前のものとして措定された身体は、常に以前として措定されるか、指示される」。そのような指示は、「あらゆる指示作用以前に見出だすと主張する身体の範囲を定め、輪郭付ける故に、産出的、構成的であって、さらにはパフォーマティブであるさえと言えるかもしれない」のである。

性別(セックス)の構築は、不安定要因を生み出しつつ、規範の反復によって繰り返されるのである

性の商品化への法的介入の根拠

 生殖イデオロギー

セクシュアリティは性別分割を前提として構築されるが、セクシュアリティは性別分割の規範を引用、反復する故に、反転して、その規範を再生産、強化することになる。その規範は「正しい」セクシュアリティであり、それは異性愛である。異性愛秩序は同性愛を構成的外部として構築し、排除・抑圧することによって成立、維持される。しかし、外部は常に内部に回帰し、脅威となる。そのため、この排除・抑圧は繰り返し行われなければならず、それによって異性愛秩序は強化される。さらに、あるのは「正しい」異性愛、即ち婚姻内膣内性交のみであり、それ以外の行為も排除・抑圧される。但し、その排除・抑圧は明確な禁止としてなされるのではない。婚姻内膣内性交を頂点、目的として、それ以外の行為を周縁化・無害化することによって、婚姻内膣内性交の位置を揺るがせない形で法が編成される。法においては禁止行為から限定的認容というヒエラルキーに性行為が位置付けられる。

しかし、「正しい」セクシュアリティ、「正しい」異性愛は決して存在しなかった。それは遡及的に構築された始源であり、法は引用され、反復されることで法になった。法とはなかったものをあったことにする謂いであり、法は逸脱を排除・抑圧することによってのみ成立・維持される。法は排除・抑圧したものの存在によってしかその正当性を証すことができない。それ故、法は常に逸脱を生産する。

そして、法はその法を引き受ける者のみを主体として、了解可能な存在として構築するのであり、主体を作り出し、まさにそのことによって正当性を獲得する。逆に言えば、その法の下で主体となることを拒否することのうちに反抗の契機が生まれる。それは、法を攪乱的、転倒的に引用、反復し、法を別の仕方で領有すること、法の意味をズラすことである。そのような引用、反復によって構築される主体は、元の法の下で構築される主体とは別様のものとなる。バトラーの「行為体」の概念はその可能性を示すものである。

上で性別分割をセクシュアリティの前提として措定したが、バトラーに拠って明らかになったように、それは本質ではなく、構築物である。そして、性別(セックス)の背後には、性別(セックス)が二つでなければならないことの背後には、生殖が隠れている。生殖という目的がなければ、性別分割の有意性は崩れる。しかし、ここまで見てきたように、性別(セックス)が本質として措定され、その引用によって生殖が説明されるという転倒が起こる。だから、生殖について考えなければならない。まず区別しなければならないのは、本能としての生殖欲と構築された生殖欲である。否、本能としての生殖欲もバトラーの指摘を敷延すれば、言語に汚染され、言語の内部に措定されるものであるから、既にして本能それ自体を指示するものではない。だから、本能として語られる生殖欲、生殖行為もそのように象徴化されたものである。ここで重要なのは、生殖行為が生殖行為として見出されたことである。言い換えれば、自然/本能に強制された行為と子産みという結果との間に因果関係が見出されたのである。ここに至って、身体を性別化する契機が生まれる。生殖が見出されたことで、性別化された身体も見出されたのであるが、それは遡及的に構築された始原である。これがセクシュアリティへの離陸の地点であり、法に書き込まれている。

そして、性別の契機がそうであるが故に、性別化された主体の欲望は異性愛の性的欲望として生み出されることになるのである。フロイトは、幼児の性は倒錯的であり、性的興奮はあらゆる身体器官から引き出されるが、それが成長の過程で、男の場合は亀頭、女の場合はクリトリスから膣の入口へと置かれるようになると論じるが、これは、竹村和子が指摘するように生殖イデオロギーの目的論でしかない。この性別(セックス)という「規制的な理想」は、性別化する身体を構築し、同時にその欲望を制御することによって、その規範を強化するのである。そして、主体は、水路付けられた性的欲望を持つ身体として、幻想的に同一化し、欲望する他者を幻想において求める。

性行為は身体において起こる、身体行為ではある。しかし、それが性的であるためには、性的幻想を必要とする。その幻想において、他者が性的主体/身体が構築される。先に述べたように、生の他者/身体は到達不可能であり、到達可能であるのはあくまで幻想としての/における他者、幻想としての/における身体のみである。かくして、性行為は身体的行為であると同時に精神的行為である。そこにおいては、身体が自他の境界として構築されるとともに、その境界が超えられるという二重の作用が起こる。愛としての性であれば、身体は愛情/交歓の場として構築される。浮遊に耐えられない精神が身体という構築された、確実なものに思える物質に依拠すること、にも関わらず、身体という境界で自他が分かたれていることに苦しむこと、愛としての性にはそのような分裂、不可能性が付き纏い、それ故に、幻想が求められるではないだろうか。

売買春における性的主体の構築

 売買春においては、女が売る性的主体として、男が買う性的主体として構築されている。ここではニ重の――かつ分かちがたい――構築が確認できる。第1に、それぞれが性別化された身体として主体化/隷属化されていること、第2に、売る位置/買う位置を占める性的主体として構築されていることである。それは、予め存在する女の主体/身体が売る位置を占めるということではない。売る性的主体として構築されることは同時に女の性的身体を構築する。女の主体、売る主体は別様に指示され得るが、相互に含み合っている。男の場合も同様である。この構築において性別の規範が引用、反復されているが、それは売る位置/買う位置の規範でもある。そして、引用、反復されることで、女/男のカテゴリーも、売る位置/買う位置のカテゴリーも同時に強化される。女は法に服従することで女/売る位置に同一化する主体として構築されるが、彼女は同時に男からも呼びかけられている。男がその呼びかけを行ない得るのは、彼もまた法に服従することで男/買う位置に同一化する主体として構築され、それによって呼びかける力を獲得するからである。そして、呼びかけることのできる行為体として、男は責任を引き受けなければならない。しかし、行為体の理論によれば、女も法からの呼びかけを、また男からの呼びかけを攪乱的に引用し得る行為体となるのではなかったか。だが、沈殿した歴史を持つ慣習の力がここで働いていることを見ることはたやすい。また、自己決定する性的主体として女が構築されることは、確かに、法のズラした引用であり、抵抗であるのかもしれない。しかし、それは女/売る位置というカテゴリーそのものを揺るがすには至らず、むしろ、自己決定というパフォーマティブが十分な力を行使し得なかったということであり、その攪乱の結果が逆説的に返ってきたということなのではないだろうか。

発話と行為

バトラーは「暗黙の検閲」という考え方を提示している。即ち、いかなる発話も暗黙の検閲を通るのであり、その検閲が認められる発話と認められないものとを区別する。検閲はその両者の区別を設けることで、発話を認めるものである。これは予めの排除と理解されるもので、話され得ないものを生み出すことを通じて言説体制を生み出す。

バトラーが国家的な規制に反対するのは、国家の恣意を危惧するためだけではない。発話と意味との間の亀裂から、可能性が開かれるからである。国家の発話は二重の意味で"act"(行為/法律)である。バトラーが、「国家が侮蔑発言を生み出す」と言うのは、国家の発話行為が発話の意味を決定してしまうという意味である。それは発話の再定義を不可能にすることであり、行為体は出現し得ない。

バトラーの議論は説得的ではある。侮蔑的な発話に対して、その意味を再定義し、再領有することで抵抗していくという戦略、行為体の可能性を開いておくという戦略は十分に意味のあるものであるだろう。だが、それが楽観的に響くことも事実である。果たしてその戦略はポルノに対抗する上で有効なのであろうか。

確かに、バトラーのように捉えることで浮かび上がってくるポイントはいくつかある。第1に、ポルノの法的規制を国家に委ねることは、ポルノの範囲を国家が決定することになるが、それは被写体が被害者/客体の位置にいることを認定、決定することになる。それによって、その位置に被写体を固定化することで、抵抗の契機を失わせ、傷をもたらす/深めることになるかもしれない。また、それに止まらず、女というカテゴリーをその位置に固定化することになるかもしれないし、ポルノの発するメッセージの意味を決定することにもなろう。このことは、売買春の規制についても同様に言えることかもしれない。第2に、「産出的な法」というフーコー的観点からすれば、ポルノの禁止はその外部に欲望を生み出すのみならず、禁止されている対象への欲望を一層駆り立てることになるかもしれない。第3に、バトラーが指摘する通り、それがレズビアン/ゲイの性表現のパフォーマティヴィティに対して否定的に作用する恐れもある。あるいは、差別を告発したり、教育的目的を持ったりする素材への波及も懸念されるであろう。

だが、これらは本当に意味のある問題設定なのだろうか。

ポルノの攪乱困難性

ポルノは単純に現実を映し出すものではなく、幻想を媒介とするものである。だが、先に見たように、性別の規制的な規範が性別化された主体/身体を構築し、幻想を生み出すのであれば、そして、その幻想が人間の性の核心にあるのであれば、ポルノはまさに人間の性において中心的な位置を占める。というよりも、むしろ、加藤秀一が「近代的な<性>システム」において「<性>とはすなわちポルノグラフィなのである」と主張することをさらに超える意味で、「人間の性とはすなわちポルノグラフィなのである」と言い得るかもしれない。なぜなら、法の引用において生み出されているのは幻想だけではなく、他の性的主体/身体への、というよりもそれを構築する性的まなざしだからである。

そして、ポルノもまた、無からの創造/想像ではなく、法の引用、反復により生み出されるものであり、法がポルノを条件づけている。そして、それは規制的な規範である性別カテゴリーと密接に関係している。ポルノが意味を持つのは、被写体が存在するものであれ、創作物であれ、そこに描かれている存在を性別カテゴリーに帰属させることによってである。それによって、ポルノは性別規範だけでなく、性別カテゴリーそのものを再生産する。言い換えれば、ポルノにおける描写は被写体の個性に還元されず――むしろ被写体を法の引用によって構築する――、被写体の属性に還元される。ポルノの内容の意味については、確かに攪乱可能性が孕まれているが、被写体が女というカテゴリーに帰属させられているという意味については攪乱が極めて困難である。

また、性の幻想性を踏まえれば、ポルノは――そう受け取られるものも含めて――現実の表象ではなく、幻想の表象と考えるべきではないだろうか。それは、生の人間から(そこにはない)イメージを剥ぎ取り、そのイメージを生の人間の表象とし、到達不可能な他者を固定化する。この動きは、性的幻想そのものである。それ故、マッキノンが「女性の現実をポルノグラフィが定義してしまう」と言うことも、あるいは「ポルノが性犯罪を誘発する」「ポルノは理論、レイプは実践」、逆に「ポルノは性犯罪を抑止している」といった主張も、これまで見てきたパフォーマティヴィティの理論に照らせば、いずれも不十分な主張である――いずれも可能性があるという意味を含みつつ。このような水準ではないところで、ポルノを捉えるべきではないか。但し、ここで留意しておくべきことは、ポルノは顕在的な/現実の危害をもたらす可能性があるだけでなく、女に対して潜在的な危険/恐怖をもたらすものであるということである。それには、現に男がポルノの内容を模倣したいという欲望を持っていることは必要ない。ポルノが流通しているということが、そのような危害が加えられるかもしれない、自分がポルノの視線で眼差されているかもしれないという恐怖を女に対して与える。その脅迫は、男の発話である必要はないのであり、ポルノそのもののパフォーマティヴィティとしての脅迫である。

では、幻想が表現として可能になるというのはどういうことか。それは、その内容を可能性の世界に置くということであり、それを受け入れることはその可能性を共有するということである。ポルノでは、現実において不可能な支配がそこにおいて可能になる。現実における不可能性は否認・抑圧され、それによってその支配は「現実」となる。ポルノはその現実性をもたらすものでなければならない。その現実性とは、現実には不可能なことであるが可能な現実である、ということである。同時に、その落差が欲望を構築する。それが現実の他者に投影された時、不可能性は認識されている。しかし、それが可能であることも知っているのである。

さらに、ポルノはなぜ興奮を呼び起こすのか?――それは、興奮すべき文脈で興奮すべきものとして差し出されるのであり、即ち、慣習が引用されているのであるが、そこで興奮することで、その慣習は強化される。そして、その興奮すべき文脈は、それがポルノという形式を取っているということそのものも構成要素となっている。個々のポルノは内容において失敗するかもしれないが、ポルノという形式が存続する限り――その形式もまたある種の規制的規範かもしれない――、ポルノの攪乱可能性は極小化するのではないか。

ところで、第1節で見たように、「正しくない」セクシュアリティは「正しい」セクシュアリティの外部で実現されなければならないのであるが、しばしば、ポルノが「正しい」セクシュアリティへの異議申立てと主張されるのは逆説的である。ポルノは「正しい」セクシュアリティの法の下で有効となり、その法を引用する。ポルノは男女の非対称性や娼婦性を引用、反復し、その過程で男/支配位置にいる者を脅かすことはない。描写の中における脅かしも、消費される限りにおいて、見る者を脅かすことはない。男が見るに耐えない、男のアイデンティティをバラバラにするポルノこそが男を脅かす。また、「わいせつ」の規範は抑圧するだけでなく、その規範の有効性を保障する外部として「わいせつ」を生産する。「わいせつ」への異議申立ては、その背後にある法を強化する。法にとって重要なのは、「わいせつ」という禁止が引用、反復されることである。

以上のように考えると、ポルノはそもそものあり方として攪乱可能性を困難にするものであると考えていいようである。バトラーの戦略は、そもそも他の侮蔑発言に関しても、楽観的なように見えるが、とりわけポルノの場合には困難さを抱えるように見える。

性の商品化への法的介入の根拠と条件

 性の商品化が少なくとも非法律的水準では非難、否定されるべきものであることは明らかになったと思うが、それを攪乱し、解体していくために、法的介入は必要なのだろうか、そして、認められるのだろうか。

第1に、現在の性の商品化は法に依存していることは明らかであるが、その法は性別カテゴリーを強化するものをはじめとする様々な法制度において引用、反復されている。だから、性の商品化への法的介入は単に法律のリストを長くし、国家権力を拡大するものではなく、法制度の再編を迫るものである。言い換えれば、性の商品化を規制する法律は、他の法律を攪乱する行為体と捉えることができるかもしれない。また、戦術的に考えれば、短期的には、現存する他の法制度への対抗法律として位置付けられるであろう。だが、少なくとも、「わいせつ」を規制する法制度とは両立が困難である。

第2に、これまでに見てきた欲望の産出メカニズムは、資本主義が欲望を生み出すメカニズムと軌を一にしている。また、規制的な規範としての性別は資本主義と分かちがたくあり、それがポルノを条件付けている。以上のように考えると、資本主義の規範もまた性の商品化において引用、反復される法である。このことは、性の商品化規制を対抗法として位置付ける意味を再確認させるものである。

第3に、究極的には――だが、バトラーの議論を踏まえれば、矛盾するが、十分条件でないのであるが――、性の商品化への法的介入の根拠は、それが差別的な法の引用であるという点にあるのではないか。差別とは、特定のカテゴリーに構築されるひとを危害/不利益を加えていい対象=主体、権利を剥奪/削減していい対象=主体として構築することと考えられる。そのように構築することは、実は主体を偽装しつつ、モノ化し、あるいは了解不可能な存在として構成的外部に追いやることである。だが、この差別を、表面的な男女対立、女性差別論だけで捉えるだけでは不十分である。そのような捉え方では、逆説的に、男性主体-女性客体の固定化をもたらし、同時に、性の商品化を語る言説がポルノとなる危険性を孕んでしまう。性の商品化をここまで見てきたような水準で捉えることで、そして、性の商品化を規制する法律を法を攪乱する行為体として定位することで、固定化のアポリアを超えるべきではないか。

第4に、ポルノを行為としてのみ捉えることは困難であることが明らかになったが、それでは、「表現の自由」との関係をどう考えればいいのだろうか。ポルノは法の引用であり、「表現」もまた主体が無から生み出すものではなく、行為体による引用であると考えられる。バトラーが言うように、「表現」の起源である主体ではない行為体に責任がないのではなく、引用するということにおいて行為体の責任が生じる。一方で、法律は主体のフィクションの上に成り立つ。だから、法律で責任を問うことにおいて、その呼びかけが法律上の責任主体を構築する。一方で、法律上の権利の主体は、それを侵害されたときに権利の主体として構築され、侵害されたと(遡及的に)認定される権利の回復を求めることができるのではないか。但し、法律は適用範囲を設定するというパフォーマティヴィティによって、権利の主体となりえない外部を生み出してしまうのであるが。

さて、ここで考えるべきは、性の商品化の規制が直接的には差別的な法に照準を当てているということである。そして、行為体の責任はそれをポルノとして引用したというところにある。だから、法規制は結果として、その行為体を主体として、ポルノという表現の主体として構築することとなるが――そうなると、表面的には表現の自由の保障に抵触するように見えるが――、そもそもこの法規制は、差別的な法の引用としてポルノが表現として構築されること、ポルノの製作者が構築されることを禁ずるものと理解すべきではないか。また、バトラーは、侮蔑発言に対する攪乱可能性を開いておくために、発話と行為との間に懸隔があるものとして理解すべきであるとしているが、ポルノは上で見たように、発話と行為の間には原理的には亀裂が走っているが、攪乱が困難であるという特徴を持っている。それ故、それは行為でないにしても、意味の再定義に開かれているという十全な意味での表現ではない。この特異性に着目することも可能なのではないだろうか。

第5に、性の商品化の法規制は、法律の内外に欲望を産出してしまうのではないかという点については、確かに原理的に否定できない。しかし、この法律が差別的な法に照準を当て、上に述べたように法を攪乱する行為体として定位されるのであれば、即ち、性的欲望の産出のメカニズムそのものに照準をあてるものであれば、このような推定とは違った風景が開けるのではないだろうか。また、竹村和子は「〔ヘテロ〕セクシズム」的なセクシュアリティを中心とするエロスの解釈を脱した新たな親密圏を模索しているが、この法律もまた、予期しない攪乱に晒されるかもしれない一方で、新たな空間を開いていくような引用をされるかもしれない。

第6に、以上のように、性の商品化の法規制を展望することによって、レズビアン/ゲイの性表現などへ否定的な作用を及ぼす懸念も解消されるのではないか。差別的な法に照準するということは、異性愛秩序を支えるために同性愛が構成的外部として、おぞましきものとして排除され、抑圧されているあり方へ照準するということでもある。但し、それは同性愛者の性の商品化――それもまた、差別的な法の引用、異性愛の性の商品化の模倣であり、また、現在ではバトラーが攪乱の契機と捉えたクィアのパフォーマティヴィティも資本主義に取り込まれてきている――に対しても当然切り込んでいくものである。

第7に、ここに至って、自己決定の意味もはっきりとする。それは、現在、性の商品化の文脈で言われているようなものではない。既に、問題設定を拒否できるものこそ自己決定ではないかと述べたが、行為体の議論を経て、それがまさに行為体の可能性の謂いであることが明らかになったのではないか。そのような自己決定は、予め制約付けられているが、それが自己決定の条件をなす。その条件の上で、しかしそれに完全に拘束されることなく、その再定義の可能性に開かれている。同時に、それは他者を決定しないものである。そして、自己決定はそれ自身、限定された普遍、具体的普遍として常に再定義に開くべき闘争の言葉ではないか。抽象的な一つの自己決定があるのではなく、場ごとの一回的な自己決定がある。その可能性が閉じられないことが自己決定の条件である。

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