ケアニーズを満たせない社会に向かわないために

現在、家族ケアラーへの現金給付と言うと「日本型福祉社会」論的で新自由主義+性別役割分業として捉えられる。だが、少子高齢化とともにケアワーカーの不足が深刻化する文脈では違う意味を持ってくる。

つまり、家族や近隣コミュニティで一定のケアワークを担わなければ持たなくなる事態は予測可能だ。そこで十分なケアが提供されない、あるいは必要以上に機械(ロボット)で代替するとなると要ケア者の生活の質が大きく低下する。

そうした場合に、ケアをする家族や近隣住民などに現金給付をするとか、みなし有償ケア労働者とするとかの方策を保育・介護・介助等の公的制度に組み込まざるを得ないのではないか。ただし、条件がある。

①ケア役割のジェンダー非対称性の解消、②ケアワークの過小評価=低賃金の解消、③多様な、開かれた家族像への転換、特に異性間法律婚モデルの相対化、④開かれた近隣コミュニティ(⇔閉鎖的、抑圧的、監視的)の支え合い、⑤ケアラーへの支援体制。

こうした条件はすぐには整わないから、まずはケアの社会化を徹底していくことが必要になる。同時に、一部萌芽的に実践されているような、ケアの相互提供のためのコレクティブやシェアハウスといった形態から制度に組み込んでいくことは考えられよう。

「AIが仕事を奪う」とか「いや、その分余暇が増える」とか「未知の新しい仕事が増えるからいいのだ」といった議論に決定的に欠けているのがケアの視点だ。AI化に関わりなく増大するケアニーズをどうするのかが、介護分野等に閉じて切り離された議論にされている。

ケアワークを含むものとしての労働需要が減ることは人口動態予測にもよるが考え難い。それに対して労働供給が全体として足りるのかが問題となる。そしてケアワークを含む労働に対して付加価値をどう分配・再分配するのか、その経路をどう設計するのかが問題となる。

こう考えると、ベーシック・インカムも、働いているか否か=有償労働に就いているか否かと切り離した最低所得保障という捉え方では足りない。ケアワークを無償とせず最低保障をする機能を含むものとして考える必要があるし、そうすると財源論にも違った光が当たる。

再分配としてだけではなく分配としても捉えられる。そうすると、一定水準を超えるケアワークには現金給付を行うとかみなし有償ケア労働者として賃金を支払うとかを構想することができる。

ワーク・ライフ・バランスのようなことも、仕事=有償労働とケアの両立や非ケアワークとケアワークの両立という問題設定よりも(時間等の)配分問題という設定になる。これをケアニーズの側からみれば、それに対して誰がどう分担して応えるかということになる。

以上は今から数十年先を展望して数十年かけてシステムを転換していくということになるのではないか。経路依存性の問題があるので、今のままケアの視点を欠いた議論、ケアを別建てにした議論という形で進めてしまうと、ケアニーズを満たせない社会を招いてしまうかもしれない。

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