「表現の自由」対「性道徳」という構図で論じることの欺瞞

刑法175条が守る「善良な性風俗」がフェミニスト否女性にとって「善良」である訳ではない。あくまで、男のため、男目線で「善良」であるのだし、それも本音と建前、二重基準があってのこと。一言で言えば、ジェンダー秩序の具体的な現れでしかない。

「わいせつ」も男性と女性とでは受け止めが違う。男性的には「破廉恥」「行き過ぎ」の意味が強い。一方、女性的には、自分の権利が侵害されている感覚、あるいは女性という存在が侮辱されている感覚がしばしば伴う。

刑法175条、わいせつ規制によって、反射的効果として女性の権利が守られる側面が皆無ではないが、あくまでも付随的効果でしかないし、適用されるか否かの線引きは事実上「ここまでなら女性の権利利益を侵害していい」というものだと言える。

要は「善良な性風俗」「わいせつ」は女性を抑圧、管理するジェンダー秩序、規範の一部を成すものでしかない。

以上のように丁寧に腑分けせずに、フェミニストが特定の、例えば禁欲的な性道徳を押し付けようとしているかに言うことは雑に過ぎる。

留意すべきなのは、水着撮影会のような場において子ども・女性が性被害に遭うことや性搾取されることを防ぐ上では、外形的な行為や姿態を基準とする部分は当然に含まれざるを得ない。そうすると、表面的には善良な性風俗の維持のためのわいせつ規制等と似通うところは当然に出てくること。

その外形的な共通性を殊更に切り出して、「性道徳の押しつけだ」などとすることは恣意的で、文脈、論点のすり替え。「表現規制反対派」はずっとそういう論じ方をし、フェミニストと道徳的保守の結託だとかフェミニストの保守化だとか言うが、叩きやすいように「仮想敵」を造形してるだけなんだよね。

それと、前にも書いたが、性的表現が公共の場で用いられることに対して「不快」と言われることをすぐに「感情」「お気持ち」と変換し、レッテルを貼り、不合理なものとして切り捨てるのは誤り。特に女性が表明する「不快さ」には表現物に対する価値判断、規範的判断以上に、被侵害感や恐怖が含まれる。

そもそも法律を含む公共的ルールや社会規範にはジェンダー非対称性があらかじめ組み込まれていて、男性の利益、視点、そして感情を非対称的に保護するものが未だ多い。国家権力・公権力との対抗の中で勝ち取られ確立した言論・表現の自由は、基本的に男性=人間、市民という前提に強く拘束されている。

言論・表現の自由は基本的な自由、権利であるために、法制度や解釈、運用を軽々しく改めるべきものではないのだが、それが時代制約に基づく部分をも保持することになってしまっているし、その時代制約の結果でしかない部分まで自然化、自明化する効果をも生じさせた。

これはヘイトスピーチに関しても当てはまるのだが、言論・表現の自由の獲得、確立時のマジョリティ、社会的強者の言論・表現が国家権力・公権力に対して守られるということが、マイノリティ、社会的弱者に対するこれらの言論・表現の優先、優越ということにもなってしまった。

そして、言論・表現の自由は法律、権利の言葉、論理で語られるために隠蔽されているが、その有力な基礎の一つがマジョリティ、社会的強者の感情であり、これらが守られているのだということは改めて強調したい。だから、性(的)表現に係る批判、抗議を「感情的」「お気持ち」と下に見ることは欺瞞。

言論・表現の自由の保障は対国家権力・公権力のみを考えれば決して揺るがせてはならないのだが、社会内の集団間、属性間の関係で見れば、マジョリティ、社会的強者、特に男性、異性愛者、多数派民族・人種の合理的根拠なき既得権益という部分が色濃く残っている。

このことは、権力の言論・表現への不用意、不必要な介入を排除するためにも、修正、解決が不可欠な課題なのだ。

公共の場などで用いられた性(的)表現に女性が覚える「不快さ」は被侵害感や恐怖と結びついているという話に戻る。人によっては性道徳観が前に出る場合もあるが、本質的な問題ではない。女性が専ら性的な対象物として扱われ、眼差され、対等な人間、市民として扱われていないというメッセージが中核。

もちろん、表現者あるいはその表現の利用者が明示的、自覚的にはそのようなメッセージを意図していないことが多いが、その想像力、敏感さの欠如はむしろ有害性を高めすらする。

いずれにせよ、社会的に、また男性の意識において女性がそのような存在であること、自身が直接被害に遭い得ること、その両方又は一方において女性は被侵害感や恐怖を覚える。

さらには、このような表現やその公共的使用に違和感を持たない、歓迎すらする個々の男性もそのような意識を持ち、眼差しているのかもしれないと想像することは不合理ではない。

以上は法的な保護に値しない「感情」ましてや「お気持ち」では決してないし、権利間の調整原理たる公共の福祉に当然に含まれるべきことである。当然、法的規制以前に、主体間の議論、対話、調整において対等に扱われるべき意見である。ましてや対等な主体としての資格、信用性を奪われるべきではない。

「道徳的、禁欲的、性嫌悪的なフェミニスト」を「仮想敵」として造形し「表現の自由」「職業選択の自由」「営業の自由」等を対置してみせるということがいかに恣意的で、歪んだものであり、議論、対話、コミュニケーションを拒み、阻むものであるか。この問題性はいつになったら自覚されるのか。


いやいや、フェミニズムの「性の商品化」批判の代表例として永田えり子を持ってくるのは的外れに過ぎるし、フェミニズムからの反批判が橋爪大三郎、赤川学、加藤秀一、瀬地山角って…。特に赤川、加藤の議論は都合のいい切り取り。

本棚の前列にあったけど、他にも、ここに挙がった人たちの関連論文や本は大体読んでるし、加藤秀一さんの論文「身体を所有しない奴隷――身体への自己決定権の擁護――」は修論でジュディス・バトラーと併せて大きく参照した。

永田えり子氏はその名も『〈道徳派〉フェミニスト宣言』を出すなど、こう言っては失礼だがトリッキーな立場を取った人。部分部分には鋭い指摘はあったが、それが「道徳派」という立場に収斂していくことには首を傾げた記憶がある。

しかも、パタッと名前を見なくなったんだよなと思ってちょっと調べたら、やはり2001年の『フェミニズムとリベラリズム』(この本も持ってる)への寄稿がフェミニズム関連では最後のようだ。世代的には江原由美子さんの6歳下。

いやはや、柴田英里には改めて唖然とさせられた。「フェミニズムの歴史はこうだ」って論じてみせるのが本当に質が悪い。

柴田英里はフェミニズムの多様性というそれ自体は妥当なことを言いつつ、戯画化したフェミニスト像を叩くのだが、その「多様性」は恣意的に、しかも「正しい」見方であるかのように表象されたものでしかないし、一方で、インターセクショナリティ概念をこれまた恣意的に定義して批判しているのも見た。


いやいや、水着撮影会の主催者、参加者の行動の過激化等の問題があったのが起点で、確かに管理者の中止要請に瑕疵もあったが、「表現規制反対派」や暇空・暇アノンが論点ずらしと印象操作で炎上騒動にしたからこうなった。そして、人権感覚が高まったから埼玉以外では開催しにくくなった背景がある。

むしろ、民間含め水着撮影会を受け入れないプールが増えた中で、外形的なルールを設定して受け入れ可能にしたという点はポイント。そして、もし具体的な例示等をしなかったらしなかったで、「曖昧だ」「裁量が大きい」などと言っただろうよ。

そもそも、「水着撮影会」は雑誌等での発表を前提としたプロの撮影ではなく、素人の参加者との交流イベントあるいは「鑑賞」的なイベント。参加者の性的動機が多分に前に出るものであり、主催者もそれを当てにし煽りもする。モデルの性的被害が起こり得るのをどう防止、制御できるかが第一のポイント。

それをすっ飛ばして、「表現の自由」「職業の自由」「営業の自由」の問題として立てるのは論点すり替えであり欺瞞でしかない。「左派」が目立って反対しなかったのは、正当化し得ない性差別的・性搾取的欲望が「表現の自由」等の主張の裏に隠されていることに気づいているからだよ。

ヘイトスピーチ規制の議論の時に、左派の中に規制反対論、警戒論がありつつ、むしろ左派が推進者であったこととも重なる。ネット・SNSの普及、進展とともに「自由か規制か」の二元論では害悪を防げないとの認識が広がったのと、「多数派のための自由」の欺瞞、二重基準が気付かれてきたことがあろう。

特に安倍政権以降のメディア等を巡る状況の下で、「左派」が言論・表現の自由を訴え、争ってきた例がどれだけあるよ。それを保守派やネトウヨが嘲笑し、言論封殺をせんかの攻撃、煽動をしてきたよね。同時に、杉田水脈らの差別言動も言論・表現の自由だと強弁される。都合のいい話してるんじゃねーよ。

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