「表現の自由」主張とモノ化

素朴な疑問。「表現規制反対派」の連中って「公共の福祉」と「公の秩序」(自民党改憲草案)の違いを理解しているのだろうか?そもそも、公共の福祉が権利間の調整原理だと理解できているのかも怪しいのだが。

「燃やす」「キャンセル」というレトリックを用いて、批判、意見を封殺しよう、議論・対話を阻害・拒絶しようという連中には、相手の権利を認めた上で調整を図るという発想はないのだろうがね。予め自分たちの権利が絶対かのように上に置くから、公共の福祉の出番はないのだろう。

そうだよな、相手の権利を認める前提がないから、都合よく「仮想敵」の像を造形して、相手に一方的に貼り付けられるんだよな。そもそも、相手を権利の主体というよりは妨害物のように扱っているもんね。物だったらその主張に耳を傾け理解する必要はない。

人をモノ化するということにはその存在の意味を決めてしまうことが含まれると私は理解していて、これがポルノ批判の重要なポイントであると考えている。そうしてみると、女性をモノ化するような性表現への批判者の存在の意味を彼らが決めてしまうということは一貫してるんだよね。

カギ括弧付きの「表現の自由」の擁護者は、端から相手を見下し、決めつけているんだよね。その意味でも、「表現規制反対派」とネトウヨが合流、融合したというのは分かりやすいし、主張の仕方だけでは見分けがつかないのもむべなるかな。

他者の存在の意味を決めてしまうのは差別であって、平等ということには他者の存在の意味を決めないことが必須の要請としてある。「表現の自由」擁護者がジェンダー平等に否定的又は懐疑的なのもわかりやすいね。

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