歴史のポリフォニーと和解

この光景からふと考えた。知ることへの、相互理解への、和解への開け。そのための痕跡としての碑。ただ記録する、記憶するためのものではない。あるいはそれは「異物」だ。レヴィナスの「顔」と重ねてもいい。過去から迫る他者の顔。碑が撤去されてもその痕跡を消さない花束。これも「異物」「顔」だ。

田中美津の「取り乱し」と重ねてもいい。異物があり違和感があること、それをゴロゴロと自分の中で転がすところから立ち上がるもの。追悼碑はある種の者たちにとって目障りで邪魔なものだった。だから破壊した。他者の顔から目を背けた。でもそこにまだ異物はあり顔がある。まだ閉じられてはいない。

追悼碑が私的な場ではなく公共の場にあることにこそ意味がある。公共の場にある異物、公共の場に現れる他者の顔。同化、不可視化を拒むそれがあるからこそ公論が、対話が触発される。今回の撤去は逆説的に議論を活性化させた。痕跡の消失に抗う花束。そこからまた立ち上がる歴史の問い。

〈仮に〉朝鮮人労働者が群馬に来たのは「金や生活のため」だったと思う〈としても〉、そこで話を終わらせないこと、想像と思考を閉じないこと。当時の朝鮮での生活はどういうものだったのか、朝鮮はどのような経済状況にあったのか、なぜ日本だったのかを想像してみること、知ろうとしてみること。

同時に、日本での、群馬での朝鮮人労働者の生活や労働の状況や、朝鮮人と日本人の関係などについても。そうすればきっと、「金や生活のため」では片付けられない風景が、歴史が浮かび上がってくる。

そして、その想像を例えば技能実習生、日系ブラジル人、中国人、クルド人…に及ぼしてみる。「金や生活のため」「迷惑」「文化が違う」等々で片付けずに。そうするときっと、朝鮮人労働者を巡る歴史が今日私たちにとって持つ意味が浮かび上がってくるし、その歴史の見え方を変えるであろう。

歴史は事実を取捨選択し解釈しながら構成されるストーリーであり、過去に固定されたものでも現在や未来を過去から拘束してくるものでもない。常に現在の立場、視点から語られるものだし、残すに値するとして語られるのだから未来が投影される。過去を現在と未来から拘束するのが歴史だと言える。

歴史に関わる和解が法的な意味での和解とは違う位相をも持つ理由はここにある。単に相続人的立場で代わって和解するのではない。法的な意味での和解は紛争の終結と同時にしばしば関係の解消、断絶の意味を持つが、歴史に関わる和解は関係を続けることが不可欠の前提となる。

そして、その関係とは必ずしも加害者の子孫と被害者の子孫というものには限られない、閉じない。

歴史に関わる和解であれ赦しであれ、加害者側から請うことはできない。ここまで書いてきたように歴史に向き合い、想像と思考の連鎖を閉じず、過去への見方を更新し、歴史のストーリーを書き換えあるいは豊かなものとしていくプロセスの中で和解あるいは赦しの可能性が立ち上がってくる。

歴史修正主義は全く逆だ。想像と思考の連鎖が断たれ固定化される、現在と未来に向かっての関係性が遮断され、断絶した未来が過去を拘束する。和解や赦しを請うことそのものが、その前提となる歴史そのものが否定、拒絶される。

議論、対話することが否定され、意に沿わない歴史が語られることそのものが否定され抑え込まれようとする。朝鮮人労働者追悼碑のような、議論、対話を促し得るサインが公・公共の空間に現れることすら拒否される。

あるいは、過去の差別や人権否定を巡る状況について、「時代の制約」で片付けられることがある。しかし、当時そうやって自明視あるいは「自然化」されていたのは何故かを、現代の規範を投影せずに想像してみれば別の風景が見えてくるし、現在そして未来に向かってなされるべきことも見えてくる。

「あの時代はしょうがなかった」で覆い隠されるのは被害者の側から見た歴史だ。歴史が語られる前提となる記録、文書等の材料は権力者、支配層に偏って残されている、あるいは保存され研究されている。それがイコール被害者側から見た歴史の不在を意味しないのは当然だ。

歴史資料の記述等もそれらの解釈も当然に矛盾し得る。それは必ずしもいずれかが「正しい」、「真実である」ことを意味しない。記述の対象となった事実は同一でも、立場、位置によって見え方もその事実から受けた影響も変わる。いずれかを「神の視点」に引き上げようとするから矛盾に見える。

歴史にはそもそも多声性(ポリフォニー)がある。単一の声のみを聴き取った歴史は挑戦を受ける。それは、それぞれの声の記録、記憶、継承の間の対話として、現在におけるポリフォニーとして立ち現れるべきものである。

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