「表現の自由」主張の欺瞞

「表現を燃やされた」「表現規制だ」「検閲だ」「お気持ちだ」「道徳の押しつけだ」等々と反射的に喚くのではなく、なぜ批判されるのか、どんな意識や認知が問題とされているのか、その表現の効果として何が懸念されているのかといったことをまず考え、自分が自明視していることを省みてはどうか。

こういう時に求められていることは規制でも検閲でもない。安易に飛躍するな。また、批判を「お気持ち」と貶めるのではなく、また批判者の信用を貶めるのではなく、言論として言論で対抗するのが原則。そして「お気持ち」と貶めるのは批判が気に食わない側の「お気持ち」であることは自覚せよ。

感情が論理に劣るという安易な前提を置くな。その論理も特定の感情を暗黙の前提とし保護している。そして、しばしばその感情が優遇されていることに根拠はなく、歴史的条件、ジェンダー秩序など差別的な秩序に基づく既得権益に過ぎない。その自明性を衝くのが批判であるし、だから反射的に怒るのだろ?

結局、相手の感情を無視するばかりか、既成の秩序、それを支えまた再生産される差別意識への批判を正当な批判と認めず、既得権益として保護、優遇されている自分たちの感情を守りたい、上位に置いておきたいがために「表現の自由」を振り回し、議論、対話を拒絶する幼稚な振る舞いに過ぎない。

議論、対話を拒絶することで自分たちが快適な空間を快適なままにしておきたい。それで傷つく人がいても、損なわれる権利があっても構わない。カギ括弧付きの「表現の自由」を振り回す者はそう言っているに等しい。公共の福祉は権利間の調整原理だが、調整を要する対等な権利を相手に認めない独善。

感情も欲望も自然的、本質的なものではなく社会的に構築される。既成の秩序、規範を取り込んでいく、馴化させられていく中で構築されていく。もちろん、全く受動的、一方向的なものではないから別様の感情、欲望も生まれてくるし、秩序、規範を攪乱しもする。自分の感情、欲望は自明でも上位でもない。

だいたいさ、「表現の自由」を声高に、疚しさを隠すかのように、主張する奴らほど言論を封殺しよう、そのための攻撃・嫌がらせを煽ろうとするし、しかも執拗(いつもの弁護士連中見てよ)。しかも、しかも、こういった自覚がほぼなく自分たちこそ正義、自分たちこそ被害者、被迫害者だと思ってる。


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