言語表現の問題からポルノの問題へ――「規制」の前の批判的視点

以下、6年前、2017年11月に別アカで数日にわたって連投していたものであるけど、ここでかなりのことは述べていた。2万6千字もあるけど😅


定型表現を見直すことと「言葉狩り」と

こういう取り組みは良い。身近な定型的な言い回しは、差別意図がなく又言葉に意味はなく形式だけが残っている場合でも、当事者には苦痛となるし、「意図・意味はない」という鈍さが実は無意識に差別を刷り込む。

テレビで使われる言葉や表現であったり、政治家の失言であったりでそれが批判され撤回されたりすると、すぐに言葉狩りだとか表現規制だとかいった非難も湧き上がる。もちろん、安易な自己規制・抑制や批判への反射的対応は差別意識を保存したままの表面的回避策で有害な面はある。表面的な回避で意識の変化を伴わないから同じようなことが繰り返される場合も少なくない。だからと言って差別的な表現が流通を続け正当性を獲得することは、たとえそれが現行法に抵触しないと言っても問題だ。もちろん、元が撤回・削除されてもネットを中心にその引用、反復は継続する。

しかし、公式に撤回・削除されたことの効果は生じる。受け手の側も問題性を理解せずただ「この言葉・表現はまずいのだな」とだけ表面的に受け止める場合もあるが、撤回・削除の事実が認識を深め意識を変える「気づき」となる。テレビなど公共の場面では封印されていても日常場面では使われるような差別表現がふいにテレビなどで使われて問題化すると、一方で妙な反発も醸し出すが、意識すらしていなかった差別性に気付くこともある。それはネット上などの擁護論、正当化論への対抗言論にもつながる。

公共場面での安易な(自主)規制・抑制が却って日常場面での差別意識を温存するとか先鋭化させるという意見もあるが、それを悪意で隠れ蓑にする輩は言うに及ばず、教育啓発効果を理由にして公共の表現で当事者が傷つくのを許容するのは筋違いだし、教育啓発を言うのであれば論点ずらしだ。

萎縮効果を言挙げして言葉狩りを非難する者がいる。一見すると一理あるようだが、その批判は「言葉狩り」にではなく、メディア等の側に向けられるべきものだ。差別表現を批判することが問題なのではなく、その批判の意味を十分に理解せず機械的に他の表現にも自主規制・抑制を広げる態度が問題なのだ。「言葉狩り」を非難する者は、自らの差別意識・意図を意識的又は無意識的に守るために、差別表現への批判(者)に矛先を向ける。そういう連中に限って、自らの意に沿わない言論・表現に対しては、激しく執拗に攻撃し封じようとする。言論・表現の自由を守ることが方便として持ち出されることすらある。

「表現規制」反対論の陥穽

「表現規制」反対論にも同じ構図がある。もちろん権力の濫用には断固として反対すべきだし、人権ではなく公序良俗、特定の道徳的価値観の視点で規制することはあってはならない。ただし、「道徳」というものは一筋縄では行かず、人権に基づく規制論が別の立場からは道徳の押し付けと映る場合もある。同時に、規制反対論が道徳批判を濫用することもある。悪意はもちろん、無意識の差別があったり、傷つけられる人への鈍感さがあったりする。道徳という問題を立てるのではなく、人権を基礎とする倫理の問題としてその妥当性を議論する方が有効である。

もちろん、倫理に唯一絶対はなく、それは常に「限定された普遍性」である。普遍も常に立場性に制約されるものであり、争われるものだからである。普遍が常に「限定された普遍」だということは、それが言論・表現に開かれその闘いを通じた再限定可能性に開かれたものでなければならないことを意味する。また、その開放性もまた常に問われるものでなくてはならない。特定の立場の表明が困難であったり、その開放性にアクセスできない、声が聞かれない/軽視される人たちがいたりするからである。差別がその壁をつくり、その差別の解消のための声が届かないということも大きな問題となる。

一方で、言葉や表現はそれがそのまま暴力となることがあるが、同時に引用/反復可能性を持つ。その引用/反復は暴力の反復、増幅にもなるが、先にも述べたように、意味のズレ・転換の可能性を孕み又被差別者・当事者がその言葉・表現を奪還・占有する可能性にも開かれている。差別表現の文脈をズラし/外し被差別者が奪還・占有するような意味での攪乱可能性だ。

だから、表現規制は悪意のない言論・表現をも封じる可能性を持つと同時に、被差別者らによる奪還・占有可能性を閉じ得るものとなる。そういう意味でも、言論・表現の境界を隠す規制は謙抑的でならなければならないが、圧倒的な差別性・暴力性、その転換困難性を持つものまで放置することにはならない。強い差別性・暴力性を持つ言葉や表現は、その引用/反復が差別・暴力の無効化につながる可能性よりも、悪意のない発話が差別性・暴力性を帯びる、付与される可能性を圧倒的に孕む。文脈は常にズラされる、外される可能性を持つが、固定制の強い文脈はズラされることで強化される方向の加速度を孕む。

差別的な言論・表現に対しては、対抗言論・表現による無力化・無効化、あるいは教育啓発等を通じた当該言論・表現が影響力・流通力を持たない言論・表現空間形成が本筋である。文脈を固定させず、引用/反復を通じて意味をズラし転換する可能性を高めることも重要な経路となる。言い換えれば、時間による淘汰を待つことが許容されない差別性・暴力性を有する表現が、それはもはや表現の埒外だが、規制の対象となる。また、文脈の固定性が強く加害性が高い、言い換えれば被傷性の回避可能性が低い差別的表現は、表現との境界性に曖昧さを孕みつつも規制が許容し得る。

フェミニズム叩きの心理

「限定された普遍」との関係で言えば、言論・表現の境界線も問われ得るものなのだ。かつては許容されあるいは氾濫していたものが今日では差別・暴力表現として規制されるのは、その表現を巡る、さらに根底的にはその表現が指し示す被差別者等の対象を巡る普遍の変容を意味するのだ。だから、表現規制はもちろん、言論・表現の妥当性を巡る論争も、普遍を巡る争い、普遍の定義権を巡る争いなのだ。そういうこともあり、許容されてきた言論・表現の担い手や受け手の、批判への反発は強くなりがちだ。言論・表現の自由を名目にあるいは隠れ蓑に既得権益としてきた者は激しく抵抗する。

その既得権益を侵し、普遍の定義を変える言論・表現に対する警戒感からこれを激しく叩く、潰そうとすることもよく起こる。また、フェミニズム叩き、ポルノ批判・規制論叩きなどに顕著だが、以上のような意識的、意図的所作に加えて、自由の旗印の陰に隠れた意識や欲望が露呈することへの恐怖もある。自らの性的欲望を肯定する者でも、その欲望のグロテスクさや加害性、そのような欲望を持つ自分の姿を突き付けられることを無意識に恐怖しているように思える。あるいは、性欲は自然といった正当化で、実は自分の中に差別性や暴力性が巣食っていることから目を逸らしている場合もあるだろう。ポルノ批判・規制論に接することでその自分の無意識が揺さぶられ又露呈する恐怖、それを直視することの忌避がポルノ批判・規制論への攻撃を喚起する。おかしいのは自分ではなくあいつらだ、として攻撃の向かう先を必死に変えようとするのだ。文字通りに「自分を守る」のだ。

フェミニズム叩きも同様だ。もちろん確信的な攻撃もあるだろう。しかし、それとともに、それ以上に、差別意識を持たない真っ当な人間だという自己像が揺らぐことの恐怖がある。自分が女性差別意識を持ち、実は周りの女性を傷つけてきた事実を認めたくないという防衛が働く。フェミニズムは、優生思想など差別を問う議論などもそうであるが、直視したくない自分の姿、無意識を突き付ける。これまで安住してきた環境や習慣に疑問を生じさせ足元を掘り崩す。アイデンティティを形成してきた要素を摘出し動揺させる。こうして自己が揺らぎ崩壊する危険に晒される。

その意味で、男女問わずフェミニズムは危険なものである。だから、自己防衛がフェミニズムへの激しい攻撃に転じる。その攻撃を正当化するために、フェミニズム/フェミニストが又特定の論者が不当な意図を持っている、性差別撤廃に名を借りて特定の利害を持っているといったストーリーも作られる。例えば、ポルノ批判・規制論が道徳的保守派と共謀している、利用しているといった筋立てもそうだ。あるいは、その論者の過去や交友関係などを持ち出して信用を貶めようという策動も働く。いずれもやはり「おかしいのは自分ではなくあいつらだ」として攻撃の向きを変えるのだ。

差別反対は、時に自分は安全な場に身を置き自己を問わず向き合わずになされることも多い。それでも差別に反対しないよりはましだし、差別反対の身振りが知らぬ間に意識・無意識を変容させることもある。それはそれでハッピーだが、自らの痛みを回避する代償に他人の痛みを長引かせる面は否めない。

同じ自らの痛みの回避でも、フェミニズム叩きのように咎を相手に転化して徹底的に自分を守るどころか、相手に痛みをもたらし、さらにはフェミニズムが減らし又なくそうとする痛みを持続させ増幅さえする振る舞いは許されない。もちろん、刑事的・民事的責任が問われない限りは言論で対抗するしかない。ただ、SNSで攻撃的メンションを浴びせ又それを煽動したり組織的に展開したりするような現状は目に余るものがある。ブロック、ミュート等もできるが、本人に直接宛てないものも含め波状的に攻撃されることで、気にしないようにしても精神的に追い込まれることは少なくない。言論・表現の自由を直接間接に阻害する可能性や潜伏化・陰湿化の危険性などに慎重、適切な顧慮が必要であることは論を待たないが、プラットフォーマーにも対策が求められる。

ポルノとは何か?


ポルノは性的欲望を刺激する意図を持って差し出される。受け手は性的欲望が満たされることを期待する。もちろん、結果的に好みに合わない等で受け手が満足を得られない場合や、作品としての完成度の低さ等により性的欲望の刺激に失敗する場合もある。ポルノには描写内容による客観的な基準もあるが(例えば、性的行為)、その場合でも芸術作品との線引きは描写内容だけでは図れない。ただし、芸術作品であるからと言ってポルノ性を免れられない場合や安易に芸術性で正当化されている場合があることは追って論ずる。

ポルノの定義においては意図(製作者や提供者そして受け手を含む)や文脈と切り離して考えることはできない。かつて医学書の体裁をとった性器写真が問題となったが(このケースでは医学的意図は疑わしい)、例えば性的意図を持たない医学的記録はポルノではない。他方で、性的興奮を目的とせず屈辱を与える、支配する等の目的でレイプ等の性的侵害が行われ記録された場合、直接的な性的意図は不在でも性的侵害により効果をもたらす意図があるのだから性的意図が認められる。その記録の提供には性的欲望を刺激する意図又は性的に被害者を害する意図が認められる。

先に例に挙げた医学的記録のように業務や研究等において撮影されたもの(医学・医療の他に例えばセキュリティ目的のボディスキャナや監視カメラなど)、家族が性的意図を持たずに撮影した子どもの裸の写真、ハプニング的に映り込んだものなどはそれ自体には性的意図が存在せずポルノに該当しない。性的意図がないものでも、それが性的欲望を刺激する目的で又は性的目的で消費されることを知って提供された場合はポルノに該当する。性的意図不在の撮影者等はその写真等の提供に故意又は過失(ポルノとして利用されることを知りながら又は知り得る状況にありながら提供)がない限りは有責性がない。

では、芸術作品の場合はどうだろうか。芸術作品とわいせつの線引きはしばしば問題となる。ここでは、公序良俗という道徳的観念としての「わいせつ」に基づく規制には与しない。この点は後に触れるが、わいせつの文脈でポルノを扱うことが議論を錯綜させる一因となっていることはまず指摘しておきたい。

さて、芸術作品を自称していても、その意図が性的欲望の刺激にあるのであれば基本的にはポルノとなる。ただし、性的欲望という人間の本質(この本質主義に問題があることは追って指摘するが、ここでは芸術家の善意を尊重する)に迫ることを意図した作品の場合には線引きは微妙である。また、作品又は作品群の全体は芸術であっても、例えば美術展の集客や映像作品の視聴者増加を企図して、性的欲望を刺激する意図を持った作品や場面を含めた場合には少なくとも当該部分はポルノと認められるだろう。そのような露骨な意図はなくとも、過度に性的描写を含めた場合もポルノ性が争われ得る。例えば、性交場面に必然性がある場合でも、不必要に冗長にしたり間接的描写や表情等で表現可能であるのにわざわざ性的部位を強調したりすることは少なくない。「視聴者サービス」という言葉もあるが、積極的に性的欲望の刺激は意図していなくても受け手の性的欲望に奉仕する描写はポルノに当たり得る。

芸術作品自体にはポルノ性が認められない場合でも、それが性的欲望を刺激する意図を持って転載、転用されることも少なくない(なお、その多くは著作権上違法又は疑義がある)。そうなると、そこにおいてはポルノに変質する(製作者は故意又は過失がない限り有責性を問われない)。あるいは、芸術作品自体は転載、転用されていないつまり提示されていないが、性的欲望を満たすものとして紹介等される場合もある。例えば、「誰々がヌードを披露している」とか、美術展の性的目線での楽しみ方とかを伝えるケース。仮に規制をする場合でも規制は及ばないが、ポルノ性は創出されている。

なお、子どもポルノの議論でしばしば引き合いに出される「ドラえもん」の「しずかちゃんの入浴シーン」。ここまでの説明で明らかだろうが、他意のないものと片付けるのには問題がある。これを切り出してポルノ的に提供し又ポルノ的に消費する者がいる以上、その提供の局面ではポルノ性が認められる。また、「ドラえもん」作品そのものにおいては「しずかちゃんの入浴シーン」のポルノ性が否定されるかと言えば、その描写の程度は問われ得るし、作者が読者の期待を知ってこの定型パターンを繰り返しているとも窺われるのでポルノ性は必ずしも否定されない。

ちなみに、海外でも人気の高い日本の漫画・アニメであるが、日本では他愛もないものとして受け入れられている描写、ことに子どもの裸や「エッチな」場面が、現地社会の道徳上の観点だけでなく、子どもの性的虐待の観点から驚きをもたらしている場合もあることは知っておくべきだろう。

ここまでの議論は、「わいせつ」の観点は排除し、また規制の是非は留保してきた。また、批判的な記述ではあるが、批判そのものには踏み込んでいない。以下では、ポルノ批判とともに規制の是非、あり方について考えたいが、簡単に示しておいただけであったポルノの定義についてまず述べておきたい。

性的欲望を刺激する意図又は性的侵害をする意図については中心的要素として示した。それを踏まえ、ポルノとは性的意図(性的欲望を刺激し又は性的侵害をする意図)を以て又は性的文脈においてなされ又は提供される描写としておく。そこにおいて人(特に女性)は性的対象物として扱われ描写される。道徳的観念に基づく「わいせつ」規制は撤廃すべきであり、規制は人権を基礎とすべきだ。不十分な点はあるが、子どもの権利を保護法益とする子ども買春・子どもポルノ禁止法がモデルとなる。 だが、規制の議論は急がず、ポルノがなぜ批判されるべきであるのかから述べたい。

ポルノ批判の視点

以下、女性を描写対象とする異性愛ポルノを代表として論じていくが、その記述は女性に不快感や恐怖感を与えるかもしれない。ポルノ批判のために、ポルノを巡る女性の経験をなぞり再現する記述を含むからである。客観的・論理的説明故に却って気持ち悪さをそれを聞く女性に与えてしまったことがある。

ポルノに使用される、ポルノを目にする、パートナーら男性の性行動やセクハラ等を通じてポルノの影響を被る、ポルノ的な発話や視線に晒される…。ポルノを巡る女性の経験は広範だ。「見ない権利」(ゾーニング、フィルタリング等)やセクハラ防止等はそれ自体は重要、有効だが、影響を遮断できない。ポルノが単純に性犯罪・性暴力を誘発するという見方も、逆にポルノが性欲を解消し性犯罪・性暴力を抑止するという見方も取らない。また、ポルノは空想の産物であり現実世界に影響を及ぼさないという見方にも与しない。

ポルノは想像可能であるが故に成立し、単に消費されるだけでなく反復/引用可能性を持ち、社会に充満するポルノ的視線は女性に不安と恐怖をもたらすとともにポルノならざるもの・領域をもポルノ化する。ポルノを単純な、静的な構図や、一対一の因果関係や単純な相関関係で捉えてはならない。ポルノは複合的かつ動的な作用の中で捉える必要があり、それは統計的な相関/非相関で汲み取れるものではない。また、道徳的な「わいせつ」概念ではポルノの本質を見落とすし、道徳も性的欲望を孕むものであることを忘れてはならない。表現の自由の絶対化も安易な「例外」設定も避けなければならない。

ポルノと性暴力・性犯罪に関係はあるのか?

ポルノが性犯罪・性暴力を誘発するのか抑止するのかという単純な問題設定は有効、有益ではないが、そのことを確認しつつ議論を進めるために、「レイプ犯の自宅から大量のポルノが発見された」というケースを設定してみよう。実際、世間に衝撃を与えた事件を含め、このような例は起こる。この時、レイプの動機解明は「ポルノに影響を受けた」「現実と虚構の区別があいまいになった」などポルノを軸としたストーリーに引っ張られる可能性がある。また、警察官・検察官の資質にもよるが、彼らの女性観、男性観やセックス観、性欲観が事件の筋立てや動機に投影される可能性は排除できない。さらに言えば、裁判官や弁護士も同様である。呆れる他ない(で済ませてはならないのだが)判決文や弁護内容の例は多くある。

さて、ポルノを大量保有する容疑者がその影響を認めた場合、動機解明はそこで止まってしまう恐れがある。取調官の「常識」にも適い納得感があるからだ。世間も(ポルノとの関連付けに怒る愛好家らは除いて)ある意味で安心する。犯罪への怒りやポルノの保有量又はラインナップに対する気持ち悪さは抱きつつも、得体のしれないものではなく理解可能な犯罪ということに落ち着いたからである。ポルノ保有状況は異様でも、性欲の延長線上だと了解される。大量のポルノに囲まれていたのであればレイプを実行してもおかしくはないし、それだけのポルノを収集する男であれば、という訳だ。恐らくマスコミでは例えば人付き合いとか勤務態度(あるいはニート状態など)、さらにはポルノショップの店員の話など発掘して容疑者像を「浮き彫り」にしているだろう。

肝心の容疑者本人はどうか。ポルノを見ているうちに本当にレイプに及んだのかもしれないが、実は本人も動機がよく分からないのかもしれない。意識・無意識はともかくとして、目を背けたい真の動機が隠れているのかもしれない。その時、取調官のストーリーに乗ってポルノを動機とすれば都合が良い。あるいは、取調べが進むにつれて容疑者も仮説のストーリーを信じたのかもしれない。そうして、自分でもよく分からない動機に名前がついた又は真の動機に蓋をできたのである。

こうして大きなブラックボックスを残したまま、皆の納得できる形で動機解明が終了してしまうのだ。ポルノは「有効」「有力」な証拠と「動機の語彙」を提供することになるのだ。そしてそこで思考が停止してしまう。ポルノの影響が本当にあったとしても、どう作用したかが必ずしも詳らかにされなくても支障がない。ポルノとその犯罪に相関関係があれば、否見せかけの相関でも、因果関係が推定される。あるいは、ポルノ収集とレイプに共通の動機があり、その意味で相関があり、ポルノを見ることで犯意が高まり又は抑制が緩みレイプに至ったことも考えられる。又は、両者は単に並行していてレイプ実行はタイミングの問題だったり、ポルノとレイプに互換性があり機会の問題だったりするかもしれない。

では、ポルノの影響を容疑者が否定した場合はどうだろう。被虐待歴とか被害者と事件以前に関わりがあった(交際を断られた、トラブルがあった等)など明白な事情が存在すれば動機解明はその線に沿って進むであろう。供述から、女性存在への復讐といった「心の闇」ストーリーが構築される場合もあろう。説得力のあるストーリーが見出せない場合、ポルノ収集を傍証に容疑者の「性欲」に焦点が当たる可能性は高いだろう。容疑者は性欲を抑えられない性質で、ポルノで解消できずにレイプに及んだとか、被害者を見かけて抑えが効かなかったとかである。裁判では、「他の人は性欲の思うままに任せず自らを律している」「あなたは被害者への想像力が欠けている」といった説諭がされる様子も想像できる。

いずれにせよ、明白な動機が特定された場合を除いて、ポルノの影響の有無どころかレイプに至る動機や経緯が曖昧なまま、性欲で説明が収まりかねない。いや、明白な動機が特定された場合でも、なぜそれがレイプという形を取ったのかが十分に解明されるとは限らない。ここでも取調官の「常識」に照らして、女性に屈辱を与える、支配するといった攻撃的手段として性が選択されるのに不思議はないということで片付けられるかもしれない。

容疑者が女性に対する攻撃手段として性を選んだのには実はポルノが影響を与えた可能性もある。これは「心の闇」ストーリーを採った場合にも当てはまる。

「性欲」というマジックワード

さらに厄介なのは「性欲」ストーリーだ。これは当該事件におけるポルノとの相関を超える話になる。このレイプ事件における「性欲」ストーリーでも、いやそれ以外の(容疑者の性的満足ではなく被害者への攻撃が動機の場合を除く)ストーリーでも性欲は自明視される。取調官も裁判官、弁護士も容疑者本人も、そしてマスコミや世間一般も、強度・程度は別として性欲そのものは自然と看做す場合が多い。だから、このケースに限らず、性犯罪では性欲は前提としてその制御に関して問題が立てられる。なぜ抑えられなかったのか、という訳だ。 性欲は自然あるいは本質なのか?そもそも性欲という言葉自体が自然、本質という意味合いを付与されている。食欲、睡眠欲とあわせ「三大欲求」とされる。

「食欲」を「食への欲望」に置き換えたら違和感が生じる。前者は生命維持のための欲求の意味だが(慣用的にはそれを超えても使われるが)、後者は生命維持のニュアンスを欠き、グルメ的な意味になるだろう。同様に、「性欲」と「性的欲望」には懸隔があるが、後者にはまだ本能の意味合いも残っている。「性的欲求」ということで考えれば、人間は他の動物と違って一年中発情期である又は随意に発情できる。それはもはや欲求ではなく欲望だ。性的欲望は性的欲求を基礎とし器質的・機能的に同じものを用いつつもそこから離陸している。性的欲望は生殖と全面的に無関係という訳ではないが切り離されている。

また、性的欲望は性的欲求とは違い、狭い意味での性交=性器の結合のみを目的とする訳ではなく又性器の結合のみで満足させる訳ではないし、(本来の性的欲求と異なり)生殖を目的とする訳ではない。性的欲望に係る興奮は性器以外にも様々な「性感帯」で起こるし、触覚だけでなく五感が動員される。いや、性的欲望における五感の対象は生身の身体だけでなく、映像や音声、文字など生身が不在でも刺激され又満足され、知覚すらない想像でも刺激され又満足される。 その性的欲望すら自然、本質の刻印を帯びている上に、それが逆流した性欲は本能以上の意味を付与されつつ自然、本質として扱われる。

だから、「性欲」はマジックワードであり、動機の語彙、正当化の手段になってしまう。性欲が持ち出された時点で思考停止し、「性欲は本能だが、それをコントロールするのが人間だ」「性欲が起こったのは仕方ないが、なぜ抑えられなかったのか」と言うだけでは不十分だ。性欲の発生こそ焦点なのだ。それ故に、「性欲」ではなく「性的欲望」で問題を立てるべきであるし、その「性的欲望」は自然性、本質性を纏わないものとして用いられなければならない。それでこそ性犯罪・性暴力の動機がより深く解明されるし、ポルノとは何かということが明らかになるのだ。

なお、性犯罪・性暴力の動機については先述のように、性的満足ではなく相手に屈辱を与え又支配する等の権力行使として行われる場合もある。もっと言えば、性的満足も権力行使によってもたらされる側面があるし、それこそが鍵であるとも言える。この点についてはポルノ論を経た方が分かりやすいだろう。

ポルノという形式の力

ポルノは性的欲望を刺激する意図を持って差し出されると言った。これがポルノの形式だ。その内容は受け手の性的欲望に応え又は先取りして、さらには新たな提案として差し出される。その内容は性的欲望の刺激に失敗することもある。それでもなおそれはポルノである。形式は保持されているからだ。性的欲望の刺激に内容として失敗したポルノが、例えばB級コメディ映画として享受されることもあり得なくはない。内容として失敗していなくても、B級映画又は完成度の高い映画として享受されることも可能性としては考え得る。これらの場合でもリパッケージ等されない限りポルノの形式は保持される。

これらの場合(論理的可能性であり具体例は知らない)、パッケージや配信サイト等によってポルノの形式は支えられたままであり、受け手の側で形式を外し又はズラして消費している(同じ受け手が気分によって使い分けることもあろう)。その集積の結果として形式を変えて差し出し直される可能性はある。その場合に、それはポルノであることをやめるのであろうか。否である。ポルノの形式を構成するもう1つの要素、即ち「女性が性的対象物として扱われ描写される」という形式は事後的に変えられない。元々は性的欲望の刺激を意図していたという痕跡とともに、この作品はポルノ性を切り離せない。

一応論理的に考え得る限界的なケースを示したが、ポルノの形式は強固である。言い換えれば文脈固定性が強い。もちろん、内容については作り手の意図から外れて享受され得る。受け手は作り手の意図とは違うポイントで、違う文脈で興奮し得るからである。しかし、あくまでも形式は保持されている。ポルノの形式に込められた「欲望せよ!」という命令は強力である。もちろん、内容が失敗した場合の帰責性は作り手あるいは提供者にあるが、帰責性が生じるのは受け手が形式を受け入れている場合のみである。形式を受け入れない者、例えばポルノ批判者に対しては、拒絶が返されるだけである。

ポルノの女性への効果

女性に対しては懲罰が待っている。その際には強固な形式が作動する。つまり、性的欲望を刺激する意図とは即ち「男の性的欲望はこれだ」と見せつけることであり、女性が性的対象物として扱われるとは即ち「女はこう扱われるものだ」と見せるつけることだ。それは、女性に不安や恐怖をもたらす。もちろん、女性には抗議せず、回避しているという選択肢もある。実際、大半の女性はそうだ。ポルノに嫌悪感を抱きつつも、それをどうこうしようとするのは無駄だという諦めもあるだろう。しかし、ポルノそのものは回避している女性にもその効果は及び得る。その一つは当然ながら性被害だ。このことは、ポルノが性犯罪を誘発するのか抑止するのかという議論とは関係ない。この議論に意味がないことは先に示したが、いずれにせよこれは傾向性の問題であって二者択一ではない。ポルノに影響された性犯罪は確率はともかくとして又裁判での動機の認定とは関係なく、発生するのだ。

性犯罪よりずっと高い確率で起こるのが、パートナー等性交渉の相手を通じた影響だ。例えば、AVと同じことを相手が求めてくる。それは性的行為ももちろんだが、コスプレのような場合もある。相手が希望を伝えるためにビデオを見せることもある。相手の要求する行為が苦痛、不快でも応えざるを得ない場合もあれば、相手が喜ぶのを自分の喜びとして/させられて応じる場合もあろう。もちろん、強制(事実上抗えない場合を当然含む)として性暴力に該当するケースも起こる。あるいは、買春の中で要求されれば、対価の存在が要求を拒み難くする。

「相手が喜ぶのを自分の喜びとして/させられて」と書いた。ポルノに抗議することを諦めるということにも言及した。これはポルノが蔓延し、自分の相手が又多くの男が喜んで見ていると思わせられることの効果だ。それはメディアやポルノならざる映画、ドラマ、小説等、日常会話を通じて強化される。「性欲」、殊に男の性欲についても同じだ。女性に性欲を認めない考え方は過去のものだが、性に対する女性の積極性については考え方の変化が続いているものの「性欲の強い」女性を特別視、異常視する傾向は残っている。「娼婦ラベル」(川畑智子)も健在だ。

男の性欲という神話と性的想像

昔から変わらないのが男の性欲に対する考え方だ。「草食系」も、性欲があり積極的なのが普通なのに、という含意や反応がある。性欲は本能、自然であり、男の性欲は処理するのが当然だという「神話」は多少形を変えても変わらない。ポルノも風俗もしょうがないと男は開き直り、女性は渋々認める。その神話をポルノは強化する。ポルノは確かにフィクション、空想の産物だが、男の性欲への現実理解あるいは正当化に基づき、その性的欲望を展開させるものとして存在する。だから、ポルノの内容は男の願望の表明となる。現実に起こり得ることを追体験/代理体験したり、起こり得ないことを体験する。

現実に起こり得ないことには幅があって、現実のデフォルメ・過激化であったり、犯罪等許されないことであったり、現実の存在(特定の職業・属性)に基づく願望だったりする。いずれにせよ、どこかで現実と接点を持ちつつ想像可能なものである(歴史や未来のモチーフや、シュールなものもあるが)。つまり、現実の延長線上のどこかにあって、あり得ないけど/自分には起こり得ないけど又は近い体験はしたけど/聞いたことはあるけど、あったらいいなという範囲内にポルノは位置する。興奮できる文脈から外れてしまうともはやポルノとして機能しないからである。マニアックなものもマニアの文脈がある。

歴史や未来モチーフも同じで、もしその時代に自分がいたらという想像力を刺激する範囲内だ。例えば(自分の想像力の貧困かもしれないが)女性型どころか人型ですらないロボットというより機械が射精に導くとか、いくら男性が恍惚の表情を浮かべていたとしても(男性異性愛者の)誰が見るだろうか。

ともあれ、ポルノは想像可能な故に成立するということは現実へのフィードバック可能性を持つということだ。自分のパートナーなりに模倣させる、コスプレさせるといったこともその例であるし、特定の職種等の女性へのアプローチ・性暴力・セクハラ・盗撮といったことも確率はともかく起こり得る。そしてこれは改めて述べるが、身体的接触や言語的セクハラ、犯罪には至らずとも、特定の職種等の女性を性的な視線で眺めるということも起こる。 なお、ポルノには個人撮影など現実をそのまま映したものもあるが、撮影するということやそこでなされる行為にフィクション性が伴う場合はある。また、その記録がポルノとして提供される局面では、ありのまま感という付加価値が生じることも多いだろう。いずれにせよ、こういった個人撮影等についてはリベンジポルノはもちろんだが、撮影・提供に関する女性の同意という問題が生じる。それは当然、真に自発性に基づく同意なのかという問題だ。

想像において構築される性的欲望と主体

性的欲望は想像において成立する。性的欲望の対象は想像物だ。現実存在・現実身体を欲望しているように見えて、実はその存在/身体に貼り付けられた想像を欲望している。より正確に言えば、その現実存在/身体は性的欲望において想像的に構築されているのだ。そしてその性的欲望は、本能的に/本能から湧き上がるオリジナルではない。その欲望もまた想像的に構築されたものであり、その主体も欲望(の構築)において構築される。主体が予めあってその主体が欲望するのではない。主体は欲望において、欲望とともに構築されるのだ。

言い換えれば、欲望は遡及的に、欲望に前置された「欲望する主体」を構築する。だから、欲望は常に既に自己の欲望ではなく「他者の欲望」なのだ。しかし、その欲望は自己の欲望としてアイデンティティを表すものとなる。殊に性的欲望は性的アイデンティティはもちろん、性的な趣味嗜好を構築する。

ジェンダー/異性愛秩序は規範として主体を構築する。本論の文脈で重要であるのは、その規範の引用/反復を通して男性-異性愛者という主体が構築されるということである。そしてその主体は、規範の直接的・間接的引用/反復たる性的欲望において構築され続け強化されるのだ。同時に、ジェンダー/異性愛秩序の規範もそのような引用/反復を通して強化されるし、遡及的にその始原性、本質性が構築される。ジュディス・バトラーが言うように、ジェンダー(文化的・社会的性別)の前にセックス(生物学的性別)があるのではなく、あるのはジェンダーなのだ。

ポルノはこれから改めて見ていくように、引用/反復されるものであるが、それ自身、ジェンダー/異性愛秩序の規範を直接、間接に引用/反復することで成立する。殊に重要なのは、その規範を基礎とする(性的)想像を引用/反復するということだ。そして、もちろんその引用/反復を通して規範が強化される。ポルノが引用/反復する(性的)想像は、ズレや変化を伴いつつ、拡散し又増幅される。ポルノが単に「趣味嗜好の領域にある空想」であるに止まらないのも、被写体との関係でのみ問題となるもの(もちろん、極めて重大な問題だ)でもないのは、ポルノがこうした結節点において成立するためだ。

ポルノが引用/反復されると言うのは当然新たなポルノが生まれるという意味もあるが、これまで見てきたような性的関係における模倣、犯罪等の行為として引用/反復されるということも含まれる。また、男性観/女性観や性別役割、「自然化」も含む性や性欲に対する見方としても引用/反復される。それは「単なる空想」では済ませられない。先に述べた通り、ポルノは想像可能であるが故に成立し、願望を映し掻き立てるものであって、かつその(性的)想像を辿って行けばジェンダー/異性愛秩序に根差している。性や性欲の自然性もその秩序に根差す想像の産物である。ポルノが単にそこで描写された行為の模倣等を惹起するだけではなく、そしてそれが必ずしも多数例ではないとしても、具体的及び抽象的な認識・価値観を引用/反復を通して再生産するところに大きな意味があるのだ。

女性を性的対象物として扱い描写することも、現場の又そこに至る過程での強制や暴力の問題は当然重要だが、その強制や暴力を隠し当該女性の同意さらには希望・願望に変換しつつ、性的対象物としての女性を、その自発性、積極性を演出しつつも対象物としての地位を固定して指し示すことに重大性がある。なお、以上のように考えると、被写体が実在しないポルノも問題を免れないばかりか、描写の自由度がより問題性を高める側面があることがよく分かるだろう。このことは、仮に規制するとしたら難しい課題に直面することとは全く切り離して認識されるべきである。

ポルノ的視線

さて、ポルノの引用/反復における攪乱可能性、即ち女性や批判者がポルノの文脈をズラし/外して奪還・占有する可能性の程度は重要な問題であるのだが、その前に、もう一つの引用/反復であるポルノ的視線について述べ、問題をさらに浮き彫りにしてから戻ってきたい。

ポルノだけではない複合的な影響で、この社会にはポルノ的視線が充満している。それは必ずしも露骨に示されず、示唆的な素振りすら見せない(少なくとも男はそう思っている)ことも多いが、女性を性的対象物として眺め、ポルノ的イメージを貼り付け又はその女性をポルノ的空想の世界に連れ出している。もちろん今日ではセクハラと糾弾されることも多くなったが、直接的な性的言動や「マイルドな」セクハラはまだまだ横行しているし、テレビでも一般の場面でも笑い、冗談としては許されるかのような風潮は根強い。むしろそれに抗議する側が過剰反応だ、冗談も通じない、場を乱すなどとと責められがちだ。

それでも「息苦しく」なってきた中で、男たちの間では具体的女性の「品定め」を含め性的な話題は定番だ。そういう話題に眉を顰める男性は疎ましがられ、逆に「下ネタ」に寛容な女性、特に積極的な女性は歓迎される。そういう場では、セクハラに厳しくなったことも槍玉に挙げられる。公的、準公的場面でのセクハラは厳しく対処されるようにはなり、男性行動も確かに律せられるようにはなった。でも、風俗営業店などはもちろん、性が前面に出るようなイベントに限らず例えばアイドル・イベントのような場では、性的な視線の投げかけや(場により限度があるが)性的言動が許容される。どの場でも許容される訳ではないが、例えば芸能人や有名人に限らず特定の誰かを「エロい」などと評することはセクハラよりずっと縛りは緩い。 もちろん、以上のような性的視線や性的言動に嫌悪感を示す女性は少なくないが、黙認するか距離をとるかぐらいしかできない。

つまり、セクハラ禁止のような規律が働く場とそうではない場とで男性の言動には二重規範が認められているのだ。また、先にも触れた「娼婦ラベル」は女性の分断を図りつつ、そのような二重規範を可能にし支えるものである。男の二重規範は場合によっては男の評価、評判を下げるものとなる。対して、女性がこのような二重性/二面性を持っている場合、はるかに許容度は低くなりスキャンダルとなる。あるいは、その落差がポルノ的視線の格好の餌食となる。もちろん、このような落差はポルノの定型的な題材でもある。

さて、ポルノ的視線の浸透性に関しては、以上よりもミクロでかつ黙示的な場面がある。友人・知人であれ、同僚・取引先であれ、買物先の店員等であれ、あるいは街中の見知らぬ女性であれ、男がポルノ的視線を向けていることは少なくない。男は隠しているつもりでも女性はそれを敏感に感じ取る。女性が男性の性的視線を感じ取るのは予期しているからである。その日の格好とか場面、相手は関係ない(警戒感が高まる相手、場面などはある)。女性がその予期を得るようになるのは、外部からの情報だけではなく、自らの経験に基づいている。成長するに連れ、行動範囲が広がるに連れ感得するのだ。

女性は性的視線を不快に感じる。逆にそれが慣れに転化し、さらには積極的に求めてしまうこともあろう。メディアなどではそれが肯定的に語られることがある。しかし、それもまたポルノ的視線の効果であるし、意識的、無意識的に何かに蓋をするための動機の語彙になっている場合もある。あるいは、性的視線を浴びることの受動性を自分から見せる、視線を求めるという能動性に転換しようという試みである場合もあろう。それが成功することもあるだろう。しかし、能動性への転換を好都合と捉える者たちがさらに上を行き、能動性を感じさせながらその実コントロールし利用することも多い。例えば風俗業界、AV業界などはそういうところだ。この種の能動性に限らず、女性に動機の語彙を提供するなどして自発性・能動性を感じさせながら利用する。ここまで述べた「見られることの快感」もそうであるし、お金もそうだ。職業的プライドを持たせ刺激したり、セックスが好きだと思わせたりもする。

話を戻すと、女性が感じる視線がポルノ的であれば、なおさら不快感は高まるし、不安や恐怖を覚える。それは、視線の態様から感じられることもあるし、相手がポルノを見ていることを知っていたりその言動から性的/ポルノ的な関心を感じていたりすることもある。その男がポルノを見ていることを女性が知っていることが惹起する不安や恐怖。それもポルノ的視線又はその可能性を介したポルノの効果だ。さらに、多くの男がポルノを見ている(かもしれない)という知識が、目前の男に限らずその周囲からの、そして行く先々でのポルノ的視線の可能性を想起させる。夜道や電車内で痴漢に遭うかもしれない恐怖、部屋で男と二人きりになる又は女性が自分だけであるという場面で感じる恐怖などは、具体的な事件の知識だけでなく、社会に充満するポルノ的視線とも関係がある。時に自意識過剰などと揶揄されるこの恐怖は決して女性の責任ではない。

男は女性の抱く不安や恐怖に無知なまま又は鈍感なままポルノを見、その引用/反復としてポルノ的視線を投げ掛ける。ポルノはその鈍感さを促進するばかりか、女性は見られることを実は望んでいるという空想すら身に着けさせる。行動に移してはならないという自制は働くが、視線はその規律の対象外だ。ポルノを行動に移さないという自制と同時にポルノ的視線で捉える女性の姿。単にポルノがさらにポルノを求めさせるだけでなく、不可能な行動化と旺盛なポルノ的視線との間の葛藤、ポルノ的視線で膨らませる想像がポルノに手を伸ばさせる要因ともなっていよう。

ポルノへの対抗

ポルノの効果が広範に及びかつ強度あるものであることを見てきた。では、そのポルノを攪乱し、無力化、無効化することは可能なのだろうか。既に述べた通り、ポルノは性的欲望を刺激する意図を持って差し出され、受け手は性的欲望が満たされることを期待して受け取る。この形式は強固である。また、ポルノの形式を受け入れない者は単に拒絶されるか、女性はこの形式の作動を以て懲罰を被る。それ故、個々のポルノを攪乱的に引用/反復することは困難である。一つの可能性は、男性がポルノを拒絶することにある。言い換えれば、ポルノの「欲望せよ」という命令に振り向かないということである。

ポルノの命令に振り向くと、ポルノ的な性的欲望において主体が構築される。振り向かなければ、この主体構築が阻まれる。それは、ジェンダー/異性愛秩序の規範を攪乱的に引用/反復することで、別様の(性的)欲望と主体を構築し、又その連鎖を通じて規範を解体し、秩序を組み替えていくことである。当然これは目指すべき方向であり、様々な実践を通じて、ポルノの影響力を削ぎつつ果たされていくものだ。当然、簡単なことではないし、ポルノはそのような実践すら攪乱的に引用/反復して奪還・占有しようとするであろう。それでは、個々のポルノではなく、ポルノの形式を攪乱することは可能だろうか。例えば、男女の対等性に基づき、描写の過激さを求めない女性向け/カップル向けポルノが存在する。これは、女性を対象物として扱い描写するという形式をズラして引用/反復するものだ。性的欲望を刺激するという形式は維持されるが、その性的欲望の内容は双方向的で対等性、共感性に基づくであろう。

だが、落とし穴もある。この女性向けポルノを男性向けポルノ同様に消費する男もいるだろう。その内容がじわじわと効果をもたらす可能性はあるが、描写の中で排除された対象性が受け手と出演女性との間では復活し、出演女性は受け手との関係では単に性的に鑑賞される対象物となってしまう。女性向け/カップル向けという形式を奪還・占有して、男のポルノ的欲望に適うように女性を巧妙に誘導するポルノが作られるかもしれない。レディース・コミックの中にはそのようなものもあるのではなかろうか。女性向けを謳う雑誌・書籍や映像等には性別役割を強化するものがあることも思い起こされる。

女性向け/カップル向けポルノの可能性は否定しないし、男の期待に反する、男に奉仕するのではない女性の性的欲望を直接的に表現するポルノがあれば、女性を解放するとともに、男のアイデンティティや女性観を揺るがす効果をもたらすかもしれない。男が自己防衛から目を背けるポルノは攪乱的であろう。ただ、そのような攪乱的なポルノは、過激性・破壊性を強める中で女性を再対象化したり逆に男性を対象化したりする危険性を孕むであろう。いずれにせよ、以上のような危険性や限界を考えると、ポルノという形式の攪乱的引用/反復には決定的な又は高い効果までは期待できないであろう。

以上のように考えると、やはりポルノの外での実践を通じてポルノの相対化、影響力減殺を図りつつジェンダー/異性愛秩序の解体・組み替えを進めていくしかないのであろう。同じことは、同性愛ポルノなど男性異性愛者向け以外のポルノにも言えるだろう。セクシュアル・マイノリティ向けポルノには、男性異性愛者向けポルノを模倣し非対称な関係性、対象化を表現するものもあるだろう。また、出会いの機会や場が限られることやカミングアウトがしづらい、さらにはいじめ、嫌がらせ、暴力の標的になるといった現状への不満、不安を投影したものもあろう。つまり、不満、不安の投影が内容の過激化の形を取り、より関係の非対称性が高まったり、セクシュアル・マジョリティに対する暴力性が表現されたりすることもあるのではないか。女性向けポルノ同様の可能性や必要性は認められるものの、やはり危険性や限界を孕むものなのであろう。

ジェンダー/異性愛秩序と性別の特権化

そこで、ポルノの無効化、ジェンダー/異性愛秩序の転換を促進するものとして規制には期待できるのであろうか。正直なところ、まだ結論を見出しきれていないのだが、まずは、明確になっている、規制に関して排除されるべき観点から述べていきたい。

「わいせつ」概念のような道徳的観点からのポルノ規制に反対することは何度か述べた。道徳的規制は公序良俗の維持を目的とする。この維持されるべきものはジェンダー/異性愛秩序の規範に他ならない。その規範が緩みあるいは変質することを阻もうとするのがポルノの道徳的規制である。同時に、既存体制・権力への異議申し立て・抵抗と規範を逸脱した性行動・性表現とは親和性が高い。今日ではそれが道徳的規制の理由だと露骨に示されることはなく「社会の乱れ」「風紀の乱れ」といった言い方がされるであろうが、そういったところで権力的動機は隠せない。

つまり、ポルノの道徳的規制は単に羞恥心といったものから発するのではなく、既成の権力が、これは国家権力だけでなく公的空間、家庭を含む私的空間で働くミクロな権力まで含まれるが、性的秩序を維持し、性的布置や性行動を望ましい形で統制したいという動機から発するのである。そのような意味で道徳にも性的欲望が潜んでいる。その性的欲望の満足を阻止されないためにも規制を働かせるのだ。さて、その道徳もジェンダー/異性愛秩序も生殖管理を企図して、分離した性と生殖を統制しようとする。人の属性において性別が特権的地位を占めるのもそのためである。

性別は出生時に性器の形状で判定されて、(日本の場合)戸籍簿に登録されることに始まり一生にわたって繰り返し問われ登録される。その長い性別制度の歴史の中で性同一性障害、インターセックスの反映は拒まれ制度の側から性別を割り当てられ強制されてきた。

性別の特権的地位は「生物学的な」「自然の」属性だからなのだろうか。ここに躓きの石がある。生物学的な区別ならば逆に性別は二つでなくともよい。自然を忠実に反映するならば性のグラデーションこそ捉えられるべきものだとも言えるからだ。しかし同時に、生物学的分類において生殖形態は重要要素だ。そういう意味で、雌雄の区別には確かに重要な意味がある。しかし、性と生殖が分離した人間において、制度としてその区別たる性別に特権的地位を付与し続けることに本質的な意味はない(もちろん、医療や健康に係る情報としては必要、有用だ)。そこでやはり鍵となるのが生殖だ。

性と生殖の分離は、自然的機能たる生殖に伴う感覚、興奮を想像の領域にある性として切り離し独立して働かせるようにしたもので、想像と象徴を駆使する人間において特異的に発展したものである。他の生物に皆無とは言わないが、人間はそれを秩序、規範、制度にまで昇華させた。当然、そこでは欲望の「発見」と想像的構築が大きな役割を果たした。秩序と欲望の反復/引用の往還の中で人間主体も構築されてきた。それは同時に権力の対象、手段そして表象/象徴としての性をも見出すこととなった。

一方で、性が享楽されるだけでは、生殖の目的が果たせず社会にとっても権力者にとっても存続・継承に支障をきたす。そこでマクロ、ミクロの生殖管理を支える規範や制度が必要となる。生殖のために必要な区分たるオス/メスが男/女に貼り付けられあるいはオス/メスに男女が貼り付けられたのが性別だ。ジェンダー(文化的・社会的性別)の前にセックス(生物学的性別)があるのではないと述べたのはこういうことだ。そして、性別は自然化され特権化された属性として生殖管理に用いられるのだ。その上で、生殖管理と性の享楽を両立できるように、女性はさらに分類され配置されなければならない。その典型は先にも言及したが、主婦的存在/娼婦的存在の区別・分断であり、その手段たる主婦ラベル/娼婦ラベルだ。そして、道徳はそれを律しようとするのだし、同時に、性の享楽を保証する男の二重規範を温存しようとするのだ。それは主婦的存在たる女性にとっても自らの地位を安定させるものとなる。

このように、道徳的規制には生殖管理と権力という動機が隠れている。好都合な秩序が変更されるのを阻む手段なのだ。それは同時に、性の享楽が既成の体制と権力を脅かさないための防波堤であり、又解釈に曖昧さを含む道徳で規制することによって恣意的適用という権力手段を保持するのである今日においては道徳的規制も女性の権利は強調する。しかしそれは、道徳的に即ち既成の体制・権力にとって「望ましい」女性に保障される権利である。そうではない女性は逆に犯罪者・共謀者として扱われる。現行法でも例えば売春防止法を見れば明らかであろう。

また、道徳的規制の下では、道徳的に許容される範囲で、二重規範の温存に資する範囲で女性への搾取は継続されよう。規制をすり抜けようとする試みや、規制の限界を試し又はこれに挑戦しようとする試みが止むこともない。つまり、道徳的規制はその外側にポルノを生み出し続けるのだ。

「表現規制反対派」の主張の陥穽

次に、表現規制反対派はどうだろう。玉石混交で善意から悪意まで含まれるので、概観的に捉えたい。善意から悪意までと言うのは、表現の自由等の重要な原則に立脚し論理的に反対する真っ当な論者から、自己の欲望や利益を守るため表現の自由を隠れ蓑にし真っ当な議論を剽窃する者までいるということだ。表現規制反対派はもちそん統一の一派ではなく総称的な括りであり、善意から悪意までグラデーションを成している。量的にも声高に主張する程度でも悪意に近い方に存在感があるようには見える。ネットなどを通じて執拗な攻撃や印象操作を仕掛けるのも悪意に近い又は悪意そのものの連中だ。

真っ当な論者の議論や権威は悪意又は悪意近接の者たちに利用されている面も否めないし、その議論に学んで一見高い論理性で以て主張を展開する者もいる。最初の方では、表現規制反対論やフェミニズム叩きには意識的、無意識的自己防衛が働き、攻撃に転化している面があることを指摘した。その点を含め、表現規制反対派が孕む悪意や歪みについては指摘済みなのでここでは触れない。ただ、表現規制反対派の主張や論理には、もしかしたら真っ当な論者の中にも、意識的な又は無意識的な自己防衛的動機が潜むことは認識する必要があり、彼らには自らと向き合って論を再構築することを望む。

表現規制反対派の中には、フェミニズムの立場からの規制論(規制には反対のフェミニストも少なくない)と道徳的立場からの規制論の共謀を指弾し、又は結果として前者が後者を利して危険な規制を招くと主張する者がいる。しかし、実は道徳的立場と「共謀」しているのは規制反対派だという見方もできる。つまり、表現規制反対派も道徳的保守派もジェンダー/異性愛秩序を守りたいということでは共有するものがあるのだ。 もちろん、規制に頼らない秩序転換を目指す論者もいるので、規制反対派も一枚岩ではない。ただ、その真っ当な論が秩序維持に利用されてしまう側面もある。

表現規制反対派は、基本的に、現在の性的欲望のあり様を肯定する。または、その欲望は好ましくはないが空想と行為は別であり、内心に踏み込み空想を取り締まることは許されないとする。これらが(規制の是非の結論は除いて)安易な考え方であることは既に指摘した。ともあれ、表現規制反対派は現在の性的欲望のあり様の肯定又は容認を通して、ジェンダー/異性愛秩序もまた肯定又は容認しているのだ。これまで見たように、道徳的保守派もその秩序を肯定する。もちろん、規制反対派は道徳の縛りを緩める方向、道徳的保守派は厳しくする方向なので決定的に対立する。ただ、決定的対立という局面に目を奪われると通底するものを見逃すということだ。何故にフェミニズムの立場からの規制論のみ道徳的保守派との(結果的な)共謀の咎を負わされるのだろうか。しかも、フェミニズムは(例外的に、道徳を重視する立場もあるが)道徳的保守派と「根底的に」対立するのに。

表現規制反対派が徹底的にこだわる表現の自由にも、その表現の境界線にも陥穽があることは上に指摘した通りである。この問題は、固定して動かせない表現の境界線を前提にして、境界内の表現を規制するか否かということではない。言い換えれば、表現の自由の埒外を認めるか否かという問題ではない。安易に表現の自由を金科玉条として掲げることも、安易に表現の自由の埒外を設けることも失当、有害なのだ。ポルノを表現として成り立たせているジェンダー/異性愛秩序とその作動機制こそが焦点なのだ。

ポルノ規制への視点

以上のように見た上で、規制の是非又はあり方をどう考えるか。 具体的な設計や手順について明確な結論を出せている訳ではないが、現行の道徳的な「わいせつ」規制や条例の有害図書規制は撤廃して、人権に立脚した規制を導入すべきだというのが基本的な立場だ。売防法等その他の性の領域も同じだ。また、人権というのは被写体となる人の権利だけではない。この点は追って説明するが、製作場面のみに規制が焦点を当てるということではないし、被写体が実在するポルノのみに焦点を当てるということではない。もちろん、規制の視野ということであって、直接的、具体的に規制するかは別の次元の課題だ。

検討の視点としては、予見可能性(不当性の排除やビジネス環境の安定という意味に加え、抑止効果も視野)、運用可能性(理念先行で運用困難ならば意味はない)、恣意的運用の排除、ポルノではない性表現等への適用の排除、プライバシーへの不当な介入の排除、以上を含む萎縮効果の懸念排除等になろう。繰り返すまでもないが、道徳性の排除と言論・表現・良心の自由保障は大前提である。ただし、いずれも惰性的に表層的、固定的に捉えるものではない。

さて、規制の具体論であるが、ポルノの抽象的な定義については既に示した。 「性的意図(性的欲望を刺激し又は性的侵害をする意図)を以て又は性的文脈においてなされ又は提供される描写。そこにおいて人(特に女性)は性的対象物として扱われ描写される」というものである。このままでは運用は困難であるし懸念も払拭できない。そこで、理念的な定義としては維持し、理念規定や啓発規定を置きつつ、規制対象となる描写内容は明確な形で限定列挙すべきであろう。あからさまな性的行為(性交等性器に関わるものをコアとし外延は要検討)や性器の描写が初期の規制対象となろう。

現行のわいせつ規制がそうであるように、規制の限界に挑戦する又は回避しつつ刺激性を高めるポルノは当然現れるだろう。これに対しては、理念規定と啓発規定を具体化するものを含め多様な実践とともに対抗していくことになろう。現行の「わいせつ」概念は警察の運用と判例の変遷において空洞化したが、それはこれが道徳的概念だからである。人権に立脚したポルノ定義、規制運用及び対抗実践の組み合わせは、せめぎ合いの中で効果を高めていくはずである。これらは反復/引用されながら、ジェンダー/異性愛秩序に挑むものだからだ。

また、被写体となる女性等の権利の観点からは、モザイク等の有無は問わないことになる。 規制対象となる行為は、製作・製造、提供・流通、広告・宣伝、これらの目的での所持からスタートすることになろう。当然、デジタル・ネット技術に対応した規定である必要がある。被写体の人権の観点からは、勧誘、製作未遂といった形で製作・製造の前段階も規制対象とすべきだろう。言い逃れを防ぎ、より重要なことには人権の観点を徹底するため、強制や欺罔、対償供与又はその約束を規制対象とし、これについては規制される描写の範囲を広げる二段階定義の採用が考えられる。

提供・流通、広告・宣伝は文字通りであるが、当然に対価の有無は問わない。また、抜け道を塞ぐために、仲介といった行為も含めるべきかもしれない。 所持については初期はここまで挙げた行為の目的に限る方がいいだろうが、十分な周知期間をおいて単純所持/取得まで広げることを視野に入れるべきだ。単純所持/取得は激しい批判、反発を招くだろうが、人権の観点からは当然の規制であるし、需要を減らすためにも必要だ。ただし、ますますネットの場にポルノが移行し技術も進展する中で、捜査能力という意味でも弊害除去という意味でも規制導入に当たっては解決すべき課題は多いだろう。

なお、デジタル・ネット時代においては一度提供され又は流通したポルノの回収・破棄可能性は格段に低くなってしまう。そのためにはもぐら叩きにはなるが、AIも活用したネット・パトロールで摘発後も残存ポルノの発見・回収を図るとともに、ネット事業者やホットライン等民間団体との連携が重要になる。当然ながら被害者のケア体制も十分に整備する必要がある。これはその他の性犯罪・性暴力被害者のための体制整備・強化と併せて進められるべきであるとともに、(他の被害も同様であるが)ポルノに特有の被害に対応できる能力を高める必要がある。この際付言すれば、政府・与党が後ろ向きのワンストップ支援センターの法制化は早急に実現し、各都道府県最低1か所の目標は速やかに達成し、人口・地理を踏まえた都道府県内複数展開を急ぐべきだ。

規制対象となる描写については被写体の実在しないポルノが大きな争点となりかつ抵抗が激しいものとなる。しかし、本論で明らかにしたポルノの特質を踏まえれば、規制を免除する理由はない。反対論は人権理解を矮小化し、被写体として実在する女性等の人権に焦点を当てるが誤り又は意図的歪曲だ。定義における「性的対象物として扱われる」ことが端的に人権の侵害を指し示している。道徳性は介在していない。ヘイトスピーチにおいて特定の人物を名指していない、宛てていないというのが言い逃れでしかないことと同様である。

規制が及ぶ描写については、女性向けや同性愛者向けなどの性表現、あるいは芸術作品も問題となろう。これらについても「性的欲望を刺激し又は性的侵害をする意図」「性的対象物として扱われ描写される」という理念的定義が解釈枠組みとなる。規制対象の規定においてさらに明示することもできる。現在女性向け、同性愛者向け、芸術等を名乗っているからといって暴力性や人権侵害性が棄却される訳ではない。話をすり替えてはならないのだ。同様に、表現の自由の浸食、萎縮効果といったことも抽象的な為にする議論であって、慎重さが求められるのは当然であるが、構成要件の明確性で境界が画される。現行のわいせつ規制や、想定しうる道徳的規制と混同して又は意図的に重ねて、規制の恣意性、浸食性を言挙げするのは論理的でも誠実な態度でもない。表現の自由を守るためにこそ境界線を画して規制し、道徳的規制論が付け入る余地を封じるのだ。

以上、挑戦的、挑発的な提案であることは理解しているが、現時点での仮の提案として示してみた。 拙速な議論は避けるとともに、導入する場合でも実効性を確保し誤った運用を回避するための十分な準備も必要である。しかし、慎重さを理由にした時間稼ぎも問題である。ポルノ規制のあり方については法制審で早期に検討が開始されることを望みたいし、部会の構成については従来の刑法規定の検討よりも幅広い分野の専門家・関係者・当事者を招くとともに、ヒアリングも十分に重ねて広く知見を集めるべきだと考える。

なお、ポルノ規制を実現するに当たっては、独立性の高い第三者機関を設置して運用監視に当たることも考えられる。独立人権擁護機関が実現するならばその一部門とすることも考えられよう。また、国会への運用報告とその審議を併せて規定することも選択肢となる。独立監視や国会報告は啓発にも資する。

書き漏らしや補強すべき点も当然あろうが、ここで一区切りとして、適宜補足したい。 この連投の基礎となった考え方は、かつて様々な著書・論文(バトラー、ラカン、アルチュセール、フーコー、竹村和子、上野千鶴子、加藤秀一、川畑智子、江原由美子ら)から示唆、刺激を得てまとめていたものだ。

補足:規制上の論点のいくつかについて

ポルノにおける同意の問題について、製作・製造等が禁じられる描写について同意の存在が抗弁又は情状酌量の材料とならないことは当然だ。強制又は欺罔がある場合の製作・製造については規制対象描写の範囲を広げる選択肢を示した。他の刑法規定で対応できる部分もあるが直接規制が必要だろう。同様に、恋人間のように撮影等に同意が存在した場合でも、公開や第三者との共有が予定されていないものについては、提供・流通に係る規制対象描写の範囲を同様に広げることが考えられる。この場合、当然ながら撮影等への同意は提供・流通への同意を代替しない。いわゆる「ハニー・トラップ」への懸念が生じ得るが、処罰対象が限定されるだけでポルノの理念的定義が明確に示され、理念及び啓発規定として向かうべき方向が措定されている以上、ハニー・トラップの抗弁を安易に許してはならないだろう。同意を信じるに足る状況があったことの立証責任は免れない。

対償供与又はその約束を伴う製作・製造については、規制対象描写を広げることへの懸念も生じるだろうが、対償受領等が同意を擬制する問題がある以上、軽々に免罪する余地を残してはならないはずだ。子ども買春において対償受領が抗弁とならない(定義上排除されている)のと同じ処罰概念を取り得る。なお、子ども買春だけでなく買春全般について、買春者処罰と売春者非処罰を早急に導入すべきだ。 ポルノについて対償要件を盛り込むことは、事実上、今製作され流通する相当部分のポルノを排除することになるので抵抗も強いだろう。理念的に譲る譲らないを超えて決断が求められる部分ではある。対償に係り「真正の同意」の有無で分けることも一案だが、立証の難しさや恣意的運用の問題はもちろん、被害者の負担が増すことを考えると採用には大きな弊害、副作用が伴い得るので選択肢とはし難い。

なお、同意が不在のポルノに係る製作者・製造者以外の者の責任については、同意の存在を信じるに足る状況がない限り、その提供等に係り処罰されないことになろう。但し、ポルノの提供等を業とする者については確認義務を課すことも考え得る。

もちろん、盗撮についてはポルノの定義を全面的に規制対象描写とすべきであることは言うまでもない。別の枠組みでの規制も考えられるし、規制対象行為を考えるとそれが補完的に必要となるかもしれないが、ここでのポルノ規制が人権ベースである以上、盗撮被害者の人権保護と完全に整合する。

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